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それからロックスは時々どころか、毎日露店に顔を出すようになった。以前と違って、客の前でもちょっかいをかけるようになったが、それについてレフから文句が出るはずもない。
それよりも、レフはロックスと一緒に訪れるもう一人の存在に驚いていた。あの時の少年だ。
塔での再会の翌日、ロックスの様子を遠くの方で伺っている少年を、レフは偶然見つけた。そして嬉しくてつい少年へ大きく手を振ると、少年はびっくりした様子で隠れてしまった。
それでも、少年はその翌日もロックスについてきていた。レフはそんな少年を見つては懲りずに手を振り、少年はそれに気づいては隠れる。
そんなやり取りを毎日した。そして当然だが、同じやり取りを毎日していれば、誰しも慣れというものが起きる。次第に少年は小さく手を振り返してくれるようになり、レフは言うまでもなく大喜びした。
そんなある日の昼下がり、レフは場外で騒ぎが起きていることに気が付いた。何かに驚く人々の声。行き交う人に視界が遮られ、何が起きているのかまでは分からない。だが驚きに交じる笑い声で、危険なものではなさそうだ。ちょっとした好奇心から騒ぎの方を見ていると、何かがこちらの方へ近づいてきていることが分かった。
道を空けるように、人混みが動く。そして、渦中にとてもよく知っている毛だるまを見つけ、レフは思わず吹き出した。
人垣の中から楽しそうなロックスがレフの方へと疾走していた。だが、それだけならばまだ良かった。
いや良くはないが、ここまでの騒ぎにはならなかっただろう。問題は、ロックスの背中に少年が乗っている、いや乗せられていることだ。
なにそれ楽し……いや違う違う、何やってるんだあいつらは!
レフが感情を強引に理性で抑えつけている内に、少年を乗せた暴走狼が露店の前へと到着した。ロックスにしがみつき涙目の少年と違い、ロックスの尻尾はブンブンと風を切っている。
主犯はロックスと見て間違いなさそうだ。レフは息のまだ整わない少年を降ろしてあげてから、ワシッとロックスの頬を両手で掴む。
「ロックスさーん? 一体なーにをしてらっしゃります?」
「ヴォフ!」
「いや、楽しかった! じゃねぇよ、なに人通りの多い所で人乗せてはしゃいでるの!」
グリグリとロックスの頬を回しながらレフは声を荒げた。といっても、レフの声に怒気は著しく欠如していた。
「人の多いところで疾走しない! 人を乗せない! やるなら広い場所で今度は俺もやらせろこのやろう!」
「ヴォフ!」
「よし、いい子だ!」
結局まともな説教をしないまま、レフはロックスを解放した。誰もケガしてないし、とそんな言い訳をしながらロックスから視線を外す。そして、唯一の被害者である少年を見て存在を忘れていたことに気づき、硬直する。
「あぁ……ごめんね?」
少しぐったりとした少年に、レフは申し訳なさそうに声をかけた。
「……大丈夫」
目を合わせてはくれないが返事をした少年に、ついに言葉を返してくれた! とずれた感動を抱きながら、水筒を差し出す。断るように頭を横に振る少年に、レフは「いいから」と無理やり水筒を持たせる。するとしばらく水筒を凝視してから、少年は遠慮がちに水筒を口にした。
そんな少し強張った姿が気になったのか、ロックスは少年の顔を自分の鼻で突いたり舐めたりし始めた。
「ちょ、ちょっと、や、やめ」
水を飲むどころでなくなった少年とロックスのじゃれあう姿に、レフは笑みを深める。そしてまるでロックスにするかのように、レフは少年の頭に手を乗せ、撫で始めた。少年がびくっと反応して、オロオロしながらそのままレフとロックスの思うままにされていた。
「あ、そうだ」
しばらく少年の反応を楽しんでいると、ちょっとしたいたずらを思いつき、レフはぱっと手を放し少年へと向き直る。
「少年よ、良いところに来た!」
「……来たというか連れ来られたんだけど」
どうやら軽口を返してくれるぐらいには落ち着いたらしい。ニコニコとしながらレフは言葉を続けた。
「君に頼みたいことがあるんだ」
そう言ってレフは店用の財布を取り出し、少年へと放り投げる。「ワワッ」と驚きの声をあげながら少年はそれを受取り、戸惑いを浮かべながら初めてレフと目を合わせた。レフはいたずらが成功したかのように、口角をあげていた。
「これで3人分のお昼を買ってきてくれ。買うものは任せた! さっきのお詫びとしてね」
「……え?」
ポカンと戸惑う少年が、辛うじてそんな声を捻りだした。
「場内にいっぱい美味しいものがあるぞ、好きに探してきなよ」
「……え! いや! これ! 財布!」
今までの少年の閉口がまるで嘘かのような声に、レフはニコニコを抑えられずにいた。
「財布だね」
「……結構お金入ってるけど」
「店の財布だから」
「店の!? え、バカなの?」
今度こそ我慢できなかったのか、レフは「アハハ」と大きく笑った。
「馬鹿とは失礼な」
「だって、これ、僕が持って逃げたら大変じゃないの?」
「うん、大変だね」
「じゃあなんで」
「――だって君、そんなことしないでしょ?」
放たれたその言葉に、少年は目を丸くした。信じられないかのように、レフを見返していた。
「……なんで」
先ほどまでの勢いの消えた、弱々しい声。
「もちろん、誰にだって財布をぽいって渡すわけじゃないよ」
レフはあぐらをかくようにして姿勢を変える。
「君なら信用できると思っただけ。だって君、ロックスと仲良くしてくれてるじゃん。気づいてるかもしれないけど、ロックスは野生で生まれた、野生の動物だよ。人間社会に適応するように生まれた、ペットじゃない。いくら人慣れしているとはいえ、彼の警戒心は随分と高いよ。そうは見えない? それは、ロックスが君に気を許している証拠だ。まぁ確かに、女子供には甘い傾向はあるけど、それはあくまである程度まで。ここまで仲良くはならない。ロックスが教えてくれてるんだよ。君なら大丈夫って。ならば、俺が信用しないわけにはいかない」
少年の口は、開いたまま閉じない。「フフ」と笑みをこぼし、レフは続けた。
「それにさ、ロックスのことを好きになってくれたんでしょ? じゃあ俺も君と仲良くなりたい。ロックスばかりずるいじゃないか! だから一緒に飯を食べて話したい。まぁ確かに、財布を丸ごと渡す必要はなかったかもしれない。でもそれで君と話せるなら、安いもんだ。こんな答えじゃダメか?」
少し恥ずかしそうにレフが頬を掻くと、少年はレフに背を向けた。レフから、自分の顔を隠すように。そして、ぽつりと一言だけ呟いた。
「……クライヴ」
そう言い残し、少年クライヴは財布を大事そうに抱え、場内へと走って行った。その後をロックスが追う。そしてレフははにかみながら、新しく出来た友と相棒を見送った。