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出口で合流したロックスにいつもの気丈な態度はどこにもなく、尻尾を足の間に挟んで項垂れていた。レフがそばへと駆け寄り、ロックスの体を観察する。
良かった、ケガはなさそうだ。
ふぅと軽く息を吐くと、レフはロックスと目線をあわせるようにしゃがんだ。
「どうしたロックス、何があったの」
「クゥン」
出来るだけ優しく、出来るだけ穏やかに、レフが話し掛ける。だがロックスは、まるで目を合わせたくないように、頭を下げていた。
ここでレフは違和感を覚えた。見た目に反して、普段のロックスは割と甘えん坊だ。それこそ、レフがしゃがめば大抵はすり寄ってくる程に。
だが今のロックスは、しゃがんだレフと目も合わせず、微動だにしない。単に財布を取り戻せなかったことを落ち込んでいる、とも捉えられるが。
だがまぁと、レフは一旦この思考を奥へとしまうことにした。
こんな状態のロックスを前に、無くなった財布などはどうでも良かった。
「ほら、大丈夫だよ、怒ってない怒ってない」
「クゥン」
少し強引に体を引き寄せ、レフがロックスを抱きしめる。首元に回した手で体を撫でてやると、控えめながらようやく、ロックスは甘えるように顔を摺り寄せた。
「フフ、可愛いやつめ」
レフはロックスに対して、対外甘いのだった。
ロックスの調子が戻ってから、レフ達はアマンダの店へと足を進めていた。少しの寄り道をしてしまったが、元々のおつかいは達成しているのだ。確認するように荷物の増えたリュックの重みを感じながら、レフは再び思考の渦へ身を投じる。
俺が市場の人混みに揉まれていた頃、一体何があった。どうしても、ロックスから逃げられる人物がいるとは思えない。だが事実として、ロックスは財布を取り戻せていない。
一番あり得るのは、ロックスが武力で抑えられた場合。しかしロックスにケガはなかった。そういった荒事は起こらなかったと見て良いだろう。
では、スリがロックスよりも早く逃げたという可能性。
これはないな。
ロックスの脚力を出し抜ける人間はそういない。あるとすれば、曲芸のように建物の上へと逃げるなど、ロックスが直接追えない方法で逃げられた場合。だがそうだったとしても、ロックスであれば匂いを頼りに、別の道から後を追うことぐらい出来る。
ならばロックスの鼻を誤魔化した? 彼の鼻を潰したという可能性。これに関してはいくらか方法はある。だがロックスの様子からして、特に鼻を気にしている様子はない。であれば、これも違う。
うーんと悩みながら、横を歩くロックスを見る。調子を戻してくれたとはいえ、いつもよりは少し大人しい。
……そういえば、あの時のロックスに違和感があった。スリに逃げられたショックで落ち込んでいたとは、少し違うような。
どちらかといえば、謝っていたと表現した方が、しっくりくる。
しかし、謝っていた? 何を? 取り戻せなかったことを? いや、違うな。では何を? スリを逃がしたこと? うーん。根拠はないが、何かが違う気がする。
「おっと」
道端で遊びながら走る子供達にレフがぶつかりそうになり、思考の糸が途切れる。
「ごめんなさーい!」
子供達はそのままはしゃぎながら走り去っていった。
ロックスは少し呆れたような目線をレフに向けていた。まぁ確かに、前方不注意になるぐらい考え込んでいた俺にも非はある。これはまた後で考えようと、レフが前を向き直したその時。
――あ。
レフは、一つの可能性に気づいた。
なるほど、うん、そう考えると納得がいく。前提から違っていれば、説明がつく。ロックスはスリに逃げられたという前提。
「ヴォフ」
ロックスの声で再び現実に引き戻される。いつの間にかアマンダの店に着いていたようだ。
まぁいいかと、レフは今度こそ思考を手放した。もし自分の予想が当たっているのなら、これ以上追求する気にはなれない。であれば、もう次のことを考えよう。先ほどまであった眉間の皺が消え、レフは穏やかな表情でロックスの頭を撫でた。
「ハハハ、そりゃやられちまったねぇ」
レフが軽い調子で起きたことを話すと、アマンダはレフと一緒に笑った。これにレフは内心胸を撫でおろしていた。既に自分の中で折り合いのついている出来事で、アマンダに無用な心配をかけたくなかったのだ。
「それで、これからどうすんだい」
とはいえ、レフが無一文になったのも事実。どうにかしてお金を稼がないといけない状況に追い込まれたわけだが、考えがないわけではなかった。
「露店を出そうかなと思って」
「露店?」
「はい、貯まっている絵を売ろうかと」
そう言いレフは「よっ」とリュックの中から、丸めた絵を幾つか取り出す。風景や街、人々の営み。旅路で出会った光景を描いた絵を、次々と並べた。
レフが自分の絵を街で売ることは珍しくはない。むしろレフを知る人に彼の職業について訊けば、絵描きもしくは絵の商人と答えるのがほとんどだろう。本人にそういった自覚は薄いが。
「そういえば、まだ見せてもらってなかったわね」
一つ一つの絵を鑑賞するように、アマンダが広げられた絵たちを覗き込んだ。それにレフは「どうぞどうぞ」と、さらに幾つかの絵を引っ張り出して広げる。
「おや、これはコレント村の絵かい?」
アマンダが一つの絵を指した。緑色の畑の中で作業する村人たちの様子が描かれた一枚だ。
「えぇ、そうです。すごい、よく分かりましたね」
「すごいのはあんただよ。この畑、コレント草の畑だろ? この村とは薬草の取引をしててね、すぐに分かったよ。畑も人もよく描けてる」
まじまじと絵を見るアマンダに、レフは少しニヤけてしまう。いくら好きだから描いているとはいえ、褒められると嬉しいものは嬉しい。
「じゃあ、これを買わせておくれ。店に飾るのにちょうど良い」
「え」
レフの顔が驚きに染まる。
「なんだい、この絵を売るつもりはなかったのかい?」
「あ、そういう訳では……気に入って頂けたのなら、差し上げますよ?」
パチンと、アマンダがレフの額を指で弾いた。
「あんた、自ら客を逃してどうすんだい。それでも商人か? 商売が成り立たないでしょ」
一体どの口が言っているのだろうか。これまで商人らしからぬ行動をするアマンダを散々見てきたので、レフは納得できず、思わずむっとする。だが、まさにそういったアマンダの商人らしからぬ厚意を多く受け取っている手前、レフが口に出して反論が出来るわけがなかった。
「売り物ならちゃんと売りな。それで、いくらなんだい」
「……三ジリンです」
アマンダの猛攻が再びレフの額を襲う。レフは涙目だ。
「安いわ! ちょっとあんたそこに座りな!」
突如始まった説教に、レフは額を抑えながら大人しく床に座ることしか出来なかった。苛烈しかしながら理路整然と言葉を放つアマンダに、ただひたすらにそれを受け止めるレフ。さながら師匠と弟子のような図の横で、ロックスは我関せずに大きくあくびをした。