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夏の陽炎

紫の蝶は明日への道標

この作品は、「夏のホラー2024」参加作品です。ご注意ください。心配な方は、あらすじやタグで、内容を事前にご確認していただきますようお願いいたします。

 僕の通う小学校では、ここ最近、ちょっと怖い噂でもちきりだ。


「ねえねえ、この間、隣の小学校の生徒が『詐禍さま』に会ったんだって」

「え、そうなの」

「うん。塾の友達から聞いたの。習い事が中止になって家で遊んでいたら、いつもより早くお姉さんが帰ってきて、鍵がないから玄関を開けてくれって頼まれたんだって。怒っているところなんか見たことがないお姉さんなのに、ちょっと不機嫌そうで何かあったのかなとは思ったみたい。それで玄関に行って鍵を開けようとしたら、二階からお姉さんが下りてきたんだって」

「何それ、気持ち悪っ」

「お姉さん、学校で具合が悪くなって、早退して家で寝ていたらしいよ。もう一度インターホンを見たら、もう誰もいないし、さっきしゃべった記録も残ってなかったんだって」

「えー、やだ。怖すぎる!」


 詐禍さまは、ある日突然身近なひとの姿で目の前に現れるらしい。一番多いのは、夕方。つまりは黄昏時。けれどよく観察すると、おかしなところがあるそうだ。でも、僕たちの耳に入ってくる話は、たまたま家族に連絡をもらったり、実際に家族が家にいたりして助かったという場合ばかりで、実際に何が違うのかまではわからないままだ。


「詐禍さまに連れていかれるとどうなるの?」

「そのまま一緒に暮らすことになるって聞いたわよ」

「それって、お墓の中でかな? でも、お墓の中って狭くて暮らせないよね?」

「あたしが聞いた時は、死んじゃってそのままあの世に行くって話だったような」

「どっちにしろ、ここには帰ってこられないってこと?」

「ほらほら、怖い話もいいけれど、もうすぐ授業が始まるぞ。前にも言っていた通り、今日は算数のテストだからな」

「えー」

「えーじゃない。気持ちよく夏休みに入りたいだろう?」


 先生に突っ込まれた途端、笑い交じりの悲鳴が教室を駆け抜けた。それで噂話はおしまい。さっきまでの大騒ぎが嘘みたいに、みんな真面目な顔をして席に座っている。テストを解きながら、僕はぼんやりさっきの詐禍さまの噂を思い出してみた。


 よく知っているひととそっくりで、でもどこかがまったく違う詐禍さま。さっきの話の女の子は、その違いがよくわからなかったみたい。本物のお姉さんがいなければ、きっと騙されてしまっていたと思う。じゃあ僕の前になら、詐禍さまはどんな姿で現れるんだろう。


 僕は何だか詐禍さまに会いたくなった。だって、とっても面白そうじゃない? 詐禍さまに会えたら、退屈な夏休みがきっと楽しくなる。そう思えたんだ。



 ***



「大丈夫かい」


 学校からの帰り道、あまりの暑さで頭がくらくらして道端に座り込んでいたら声をかけられた。すごく綺麗なお兄さんだけれど、どうにもこうにも見た目が怪しすぎる。ああ、帰りの会で先生が注意するように話していた不審者っていうのはこのひとだなって気が付いた。


 こんな暑さの日にマジシャンみたいな帽子をかぶって、黒ずくめのスーツに黒いネクタイ、さらに真っ黒な手袋まで着けている。その上、塀に向かって話しかけていたり、池に向かってぶつぶつ呟いていたりしていたら、不審者情報に登録されても仕方がないと思う。ただのコスプレ好きなひとかもしれないから、可哀そうだなとは思うけれど。


「飲み物を買ってきてあげるよ。ほら、今話題の『?』味の飲料はどうだい?」

「お水か、スポーツドリンクがいいです」

「遠慮しているのかな。それともやっぱり、『?』マークの缶飲料は、怖いかい?」

「いや、別に。ただ、熱中症には経口補水液がよいそうなので。遠慮はいらないということであれば、ぜひOS-1でお願いします」


 売っているかどうかは知らないけれど、遠慮しなくてよいならその善意に思い切りすがらせておらおう。近くの公園の木の下まで運んでもらった僕は、きんきんに冷えた飲み物をありがたくいただきながら、お兄さんの思い出話を聞いていた。


「昔はねえ、自動販売機に『?』マークだけ書かれた真っ赤な缶飲料があるっていうのは、怪談として有名だったんだけれどねえ」

「それって何味なんですか?」

「何味だと思う?」


 最近流行りの謎フレーバーは昭和レトロ味って聞いたけれど、これは怖い話なわけで。とりあえず素直に回答してみる。


「怖い話で、真っ赤な缶だから血の味ですか?」

「ご名答!」

「でも、一本だけ血の味のジュースを混ぜるなんて無理だと思います。それに自動販売機って専用の鍵がないと開けられないでしょう。前に動画サイトで見たことがあります。わざわざクビになるのがわかっていて、変な飲み物を入れるひとなんていないような気がします」

「やれやれ。ネットが発達することで新たに広がっていく怪談もあれば、その逆もまたしかりということかな」

「僕は自動販売機の怖い話は、毒入りのジュースの話が怖かったです」

「それは、怪談じゃなくって実話だからね。薬物の入ったジュースを受け取り口に置いておいて、それを拾って飲んだひとが……っていう事件だから。まあ、確かに怖い話ではあるけれど」

「生きている人間は怖いですよねえ」

「お化けより人間が怖いという風潮は、商売あがったりなんだが」


 困ったものだと言わんばかりのお兄さんが、長い髪を揺らしながら首を振る。それにしてもこのお兄さん、全然汗をかかないのってすごいなあ。


「でも、怖いかどうかは別にしてお化け自体はいるから別にいいのではありませんか?」

「うん? 君はお化けを信じているのかい」

「だって、さっきからお兄さんはお化けのみんなの様子を確認しているでしょう?」


 お兄さんは、少しだけ驚いたように僕を見た。



 ***



 どんな場所にもお化けはいる。生きているひとと変わらないようなひともいるし、ぐちゃっとした感じのひともいる。ときどき、真っ黒い何かに進化しちゃったひともいる。そういう時は、できるだけ近づかないようにした方がいい。近くに行くと身体がすごく痛くなるし、真っ黒い何かに触ると自分の身体も黒ずんでしまうから。


「わたしが怖くないのかい?」

「怖くありません」

「お化けと話しているのに?」

「だって、たいていのお化けは僕に何かをしてくるわけじゃないですから」


 お化けが気にならない理由はこれだけ。偶然かもしれないけれど、人間と変わらないひとも、ぐちゃっとしているひとも、僕への害はない。見た目のインパクトは強いけれど、それだけ。痛い思いをしないなら、別にどうでもいいかなと思ってしまう。


「家には帰らないの?」

「早く家に帰っても、仕方がないですし」

「でもそろそろ夕方だよ」

「大丈夫です。ここは、夜も電灯がついていて明るいですし、犬の散歩をしているひとも多いですから。変質者が出たという話も聞いたことありません」

「本当に?」

「むしろ、今日変質者情報で先生に注意されていたのは、全身黒ずくめの誰かさんですよ。真夏なのにそんな変な恰好しているから」

「これは、変な格好ではなく正式な服装なんだよ」


 学校の制服みたいなものかな? 僕も、あんまり半ズボンは好きじゃないけれど、制服だから仕方ないんだよね。このお兄さんもそういう感じなのかな。


 そんな僕の横で、お兄さんが胸元から懐中時計を出して時間を確認していた。すごいなあ。不思議の国のアリスのうさぎみたい。


「ちょっと時間が迫ってきたな。体調はもう大丈夫そうかな?」

「お仕事中にご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」

「やれやれ。大人みたいだな」

「変ですか?」

「いいや。ただ、無理はしないように」


 やっぱりこのお兄さんはいいひとだな。せっかく助けてもらったのだし、お兄さんの迷惑にならないように気を付けて遊ばないとね。僕は飲み物の残りを飲むと、頭を下げた。


「ありがとうございました。さようなら!」

「それじゃあ、また」


 僕が手を振れば、お兄さんはにこりと笑って見えなくなる。どうしてだかわからないけれど、綺麗な紫の蝶に似ていると思った。


 うっかり熱中症になりかけたけれど、ちょうどいい時間だ。僕はうきうきとした気分で、公園の奥を目指して進みはじめた。



 ***



 背負っていたランドセルを勢いよく放り投げてみる。池の中にいたぐちゃっとしたひとが、驚いたようにこちらを見上げてきた。ごめん! ぶつけるつもりはなかったんだ。でも、よかったらそれ、あげるよ? 僕がそう言えば、ぐちゃっとしたひとは嬉しそうに教科書を読み始めた。それ、何年か前と内容が変わってるから、暇つぶしになるかもね!


 そんな風に普段ならやらない思い切った遊びを繰り返していたら、不意に声をかけられた。


「駄目でしょう、こんな時間まで外にいちゃ。五時のチャイムはとっくに鳴ったのに聞こえなかった?」


 困ったような顔で、お母さんが迎えに来た。僕の気が付かない間に、家に帰る時間をお知らせする童謡は、すっかり流れてしまっていたらしい。いくら遊びに夢中になっていたからと言って、あんな大きな音が耳に入らないことなんてあるのだろうか。でも、迎えに来たお母さんは「こらっ」なんて言いながらも、優しく僕の頭を撫でてくれる。そのてのひらの重みがふんわりと温かくて、僕は素直に謝りながらお母さんに飛びついた。


「はあい、ごめんなさい」

「わかったならもういいわ。次からはちゃんと気をつけてね」

「お母さん、怒ってる?」

「怒ってないわ。でも、本当に心配したんだから。ほら、早く帰りましょう。お母さん、安心したらなんだか急にお腹が空いてきちゃった」

「僕も、お腹ぺこぺこだよ。今日の夕食はなあに?」

「今夜はね、あなたの大好きなハンバーグよ」

「わあい、やったあ!」


 僕はお母さんと手を繋いだまま、その場で勢いよくジャンプする。


「お、ふたりともこんなところにいたのか。せっかくなら一緒に帰ろう」


 いつの間に合流したのか、お父さんが僕の空いている方の手を掴んでいた。お母さんとお父さんが僕をぐんと空中に持ち上げてくれる。大きなブランコに乗っているみたいに気持ちいい。


「なんだ、俺もまぜてよ。よし、家まで競争だ!」

「こんな時間に走って帰ったら、事故に遭うわよ。いけません。手を繋いで帰ります」

「とはいえ四人で手なんか繋いで歩いたら、横幅いっぱいで迷惑じゃないか?」

「じゃあ横幅を減らすために、おんぶでもしましょうか」

「なんだそれ」


 塾に出かけたはずのお兄ちゃんまで加わって、僕たちはてんやわんやだ。僕はなんだかおかしくて、楽しくて、どうにも笑いが止まらなかった。


 僕の目の前を、ふわり、何かが横切る。紫の蝶だ。ひらひらとまとわりついてきた。困ったな、これじゃあ前に進めないよ。香水なんてつけていないし、お花も持っていない。甘い匂いなんてしないはずなのに。


「彼らと一緒に行ってはダメだ! 彼らは君の本当の家族ではないのだから」


 不意に響いたのは、さっき別れたはずの不思議なお兄さんの声だった。ぐいっと僕は家族から引き離される。ああ、お兄さんのお仕事も詐禍さまに関係するものだったんだね。



 ***



 無理矢理僕を引き離したせいか、お母さんだったものが黒く歪む。お父さんだったものがお兄さんの髪をひっぱり、お兄ちゃんだったものが大きなうなり声をあげた。お兄さんが銀色にきらめくナイフを取り出し、掴まれていた髪の毛を切り捨てた。黒いもやに囲まれて、髪の毛はあっという間に見えなくなる。お菓子に群がる鳩みたいに、詐禍さまたちが髪を食べているみたい。


 ちょっとだけ口をとがらせながら、僕はお兄さんの顔を見上げる。僕にまとわりついていた蝶は、お役御免とばかりにお兄さんの肩にとまっていた。


「知ってたよ。僕、お母さんが本当のお母さんじゃないって。お父さんもお兄ちゃんもそうだって。でも、それが何なの? 何が問題だって言うのさ」


 僕の文句に、目の前のお兄さんは驚いたように目を丸くしていた。どうしてだろう、いつもみたいに丁寧語の、お利口な言葉がちっとも出てこない。


「君は、わかっていて彼らについていこうとしていたのかい?」

「そうだよ」

「彼らは詐禍さまなのに?」

「全部が逆さまなら最高じゃない!」


 何かが違うと聞いて、僕は考えたんだ。クラスメイトの話が本当なら、いつも優しいお姉さんが不機嫌そうだったことが普段と違うこと。だから、もしかしたらって思ったんだ。詐禍さまの性格は、本物とはあべこべ、正反対になるんじゃないかって。それなら、僕にとっては最高、夢の世界の完成だ。


 お父さんが僕を殴ることもない。

 お母さんが僕を罵倒することもない。

 お兄ちゃんに恥ずかしいことをされることもない。

 学校の友だちや先生たちに無視されることもない。


 手を繋いで、美味しいご飯を食べて、お風呂に入って、あったかいお布団で朝までぐっすり眠る。全部が逆さまになるなら、そんな生活が手に入る。だったら、詐禍さまが化けた家族でも、僕は全然問題ないと思う。むしろ詐禍さまの家族の方が、うんと幸せだ。


「そうか。何もわからないのに、止めてしまってすまないね」

「いいよ。僕が何も知らないままついていっているように見えたんだろうし。僕のせいで、髪の毛、短くなっちゃったね。ごめん」

「構わないよ。すぐに伸びるから」

「でも、すごくきれいな髪だったから」


 自分が嫌な目に遭うかもしれないってわかっていて、それでも助けてくれたお兄さんは、本当にすごいと思う。だって、先生も、友だちも僕のことをみんな見ない振りしたのに。


 面倒ごとに関わりあいになってはだめ。溺れるひとを助けようとしたら、こっちまで溺れてしまう。可哀そうだけれど、仕方がない。そう思われても仕方がないと諦めていたけれど、こうやって心配してくれる大人を、僕はずっと待っていたんだ。


「家には帰りたくないんだよね」

「うん」

「……わたしと一緒に来るかい?」

「いいの?」

「人間の法律的にはあんまりよろしくないけれど。その辺りは結局うやむやになると思う。たぶん」


 お兄さんは、お兄さんの髪の毛を食べたせいか、濃い紫色に変わった詐禍さまたちを見ながらそう言った。


 お兄さんは、いい匂いがする。真っ黒いもやなのに触れても痛みがなかった詐禍さまたちですら、お父さんやお母さん、お兄ちゃんがよそのひとと一緒にいる時のような、薄っすら何かを誤魔化した臭いがしていたのに、お兄さんはいつどこを触れても優しい匂いしかしなかった。



 ***



「さて、これをどうしようか」

「詐禍さまって、このままにしておくとどうなっちゃうの?」

「ちょっと困ったことになるかな。わたしの髪でいったん我慢してもらったけれど、それでも君の代わりにはならないからね」


 僕の代わりかあ。困ったことってなんだろうな。僕はちょっと考えてみる。僕が詐禍さまについていったら、何が起きたかを。


 お父さんは僕を殴れないから、会社であった苛々をお家で爆発させちゃうんだろうな。

 お母さんは家事をしないから、家がゴミ屋敷になっちゃうんだろうな。

 お兄ちゃんは僕がいないと眠れないから、他の女の人を襲おうとしちゃうのかな。


 お兄ちゃんのことはなんとか、お母さんに止めてもらいたいところ。ひとさまに迷惑をかけられないからって、僕を差し出したんだから、今度はお母さんかお父さんが頑張ったらいいと思うんだ。


「詐禍さまって、誰かのそばにいたいの?」

「そうだね。誰かに必要とされたいんだ。君なら、詐禍さまの空っぽの穴にきっとうまくはまったのだろうけれど。君には、詐禍さまの隣ではなく、お日さまの下にいてほしいからね」


 ウインクを飛ばして微笑みかけてくるお兄さんは、なんだかアニメかドラマのイケメンみたい。似合うから、まあいいんだけれど。


「詐禍さまも、家族が欲しいのかなあ」


 いっそ僕の代わりに、詐禍さまがあの家族の仲間入りしたらどうなるのかな。やっぱり難しいかな。みんなの言うことをきかない、殴っても泣かない、にこにこ笑って何でもやってくれる今までの僕とは正反対の僕がいたら?


 そこまで考えたところで、詐禍さまたちは立ち上がり、ゆっくりと歩きだした。黒いもやだったその形は、だんだん僕によく似たものになっていく。ちょっと違うのは、三人分のもやで僕を作ったせいか、僕の髪や瞳が真っ暗闇の中でもわかるくらいつやつやに光っていること。ずっと見ていると、なんだか吸い込まれてしまいそうだ。


「詐禍さまって、迷子にならないんだろうな。方向音痴のひととか、いないの?」

「自分で道を探しているわけじゃないんだ。呼ばれたら、相手の場所に行くだけだから」

「それじゃあさっきも、僕が詐禍さまを呼んだのかな」

「たぶんね。会いたいと思ったのではないかな」


 まあ、確かに僕が詐禍さまに会いたいと思っていたのは事実だけれど。それじゃあ、他のひとは? みんなは別に、詐禍さまのことを呼んだわけじゃあないと思うな。


 クラスメイトが話していた女の子だって、たぶん何か用事があって優しくて頼りになるお姉さんを呼んだだけだろうし……。うん? そこで僕は首を思い切り傾げてしまった。普段から、まったく機嫌が悪くない人間なんているっけ? 僕だって、殴られたくないから見せないだけで、結構お腹の中には苛々みたいな悪い気持ちがいっぱい溜まっている。そのお姉さんが、そうじゃないって誰が言える? もしかしたら……。


「自分にとって都合の良い誰かを求めていると、いつか詐禍さまがやってくるの?」


 お兄さんはふんわり微笑んだだけで、答えてはくれない。僕になった詐禍さまは、すっかり僕であることに馴染んだみたい。見たこともないスピードで、家の方向に向かって走っている。それでも門限はとっくに過ぎている。だから、玄関には鍵がかかっていて家の中に入れないはずなんだ。


 あるいはお父さんがいれば、鍵が開いた瞬間に頬をひっぱたかれるかもしれない。お母さんがいれば、水をかけられるかもしれない。お兄ちゃんがいれば、洋服をはぎとられるかもしれない。その時、詐禍さまはどんな反応をするんだろう。なんだか、僕はドキドキしてしまう。


「詐禍さまを止めたいかい?」

「ううん。僕、詐禍さまのこと、好きだもの。ついていってもいいと思えるくらい、詐禍さまは優しかったよ。たとえ詐禍さまが見せてくれたものが幻だったんだとしても、家族ごっこができて僕はよかったと思う。だから、詐禍さまにはお礼がしたいんだ」


 僕の中には、詐禍さまへのお礼以外の汚いものがいっぱい詰まっているけれど、それは隠したままで、僕はお兄さんに笑いかけた。


「なるほど」

「僕、悪い子かな?」

「そんなことはない。君がいいなら、わたしはちっともかまわないよ」


 お兄さんは髪をかきあげながら、もう一度尋ねてきた。


「たぶん、明日からぐっと暮らしやすくなると思うけれど。それでも、わたしと一緒にこの街から出ていってもいいのかな?」

「うん。僕、違う街に行ってみたい! 新しいこと、始めてみたい!」

「わかった。それなら、行こうか。詐禍さまたちが落ち着くのなら、わたしの仕事はここまでだ。家に取りに帰りたいものはあるかな?」


 まあたぶん、取りにいくのは正直難しいんだけれど。困ったような声で聞かれて、僕はくすりと噴き出す。


「ないよ。僕の大切なものは、全部ここの中にあるから」


 胸のあたりをぽんと叩くと、お兄さんは大きな手で僕と手を繋いでくれた。さあ、楽しい夏休みの始まりだ。


 花びらのような紫の蝶たちは、ひらひらと宙を舞う。僕たちの道案内をするかのように。



 ***



 このお兄さんが実は人間とはちょっと違う存在だったりだとか、僕がお兄さんに弟子入りして「師匠(せんせい)」と呼ぶようになったりだとか、生活力皆無な師匠のために僕が今まで培った家事スキルで頑張ってみたりだとか、師匠を追いかけてくる鬱陶しいカメラマンが家に転がり込んできたりだとか、そういうもろもろの騒ぎはまた別のお話。

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