第34話 恋心の自覚
グレイルは全身で走っていた。視界は目の先にいるイノシシをしっかりと捉えている。
「グレイル! そっちに行ったぞ!」
誰かが叫び、イノシシが彼の進行方向に躍り出る。あとは数人がかりで追い込み、誰かがとどめをさせばいい。そして、自分は今まさにその役割を求められている。
グレイルは力強く地面を蹴り、加速した。イノシシとの距離がドンドン縮まっていく。飛びかかれる距離まで近づくと、グレイルは白い牙をぎらつかせて勢いよく跳躍した。
だが、ほんの少しだけ目測を誤ったのか、彼の爪と牙はイノシシをかすっただけだった。勢いあまった体が地面に叩きつけられ、しまったと思う間もなく、興奮したイノシシが狙いを定めて突進してくる。
鋭く尖ったイノシシの牙がグレイルの視界に写り、「死」の一文字が頭の中に浮かぶ。その瞬間、ものすごい力で横に弾き飛ばされ、彼は地面に転がった。
「ばか野郎!! 死にたいのか?!」
見ると、茶色い狼がグレイルの側で険しい顔をしていた。ローウェンだ。イノシシが追突する直前に、ローウェンが横から体当たりして助けてくれたのだ。
「すまない、ローウェン。助かった」
「お前、もう今日は引っ込んでろ。そんな調子じゃ死人を増やすだけだ」
ローウェンは言い捨てると、獲物に向かって勢いよく走り出す。グレイルは小さくなっていくローウェンの姿を黙って見送った。
「グレイル、大丈夫か? ここ最近動きが鈍いぞ」
朝の狩りを終え、グレイルが獲物の解体を行っていると、人の姿に戻ったローウェンがやってきて隣に腰をおろした。
「あ、ああ……本当にすまない。今後は気を付けるよ」
解体する手を止めてローウェンを見ると、彼は大きくため息をついた。
「まぁ理由はわかるけどな。レティのことだろ」
グレイルは黙って視線を手元におとした。無言で彼の言葉を肯定する。
グレイルはここ数日、鬱屈とした感情に支配され、心がかなり乱れていた。今日の狩りでも、ローウェンが助けてくれなかったら、死ぬまではいかなくとも大怪我は免れなかっただろう。このままではいけない、と思いつつどうすれば良いのかわからなかった。
「レティのことが心配なんだろ? でも、あの子はああ見えて意外と逞しい所がある。ここにいた時も辛い思いをしてきただろうに、懸命に生きてたじゃないか。大丈夫、レティリエは人間の世界でもうまくやるさ」
「心配……なのか……? 俺は……」
「なんだそりゃ。幼馴染みなんだから心配してるに決まってるだろ」
グレイルは自分の気持ちがわからなかった。レティリエが村を去ったあの時から、彼女の顔が何度も脳裏にちらつく。
だが、思い出すのは別れの時の悲しそうな顔ではなく、普段の彼女の笑顔だ。はにかみながらも顔をほころばせて笑う彼女の姿が忘れられない。
「ローウェン」
「ん?」
「俺は……彼女のことが好きなんだ」
「は? お前、何を言って……いや、そんなに驚くことでもないな」
ローウェンは大きく首を振ってため息をついた。
「お前は昔からレティのことになるとむきになるからな。まぁ、一人の女性として慕ってるとは思わなかったが……だけど、レティはこの村を去った身だ。ここでお前と彼女が夫婦になることは許されない。かと言って、レティを連れて村を出るとしても、彼女は自分のせいでお前が巻き込まれるのを良しとしない。お前には酷だが、諦めた方がいい」
ローウェンは意地悪で言っているのではない。グレイルの気持ちをしっかりと理解した上で、現実を伝えているのだ。
「そうだな……」
グレイルは呟いた。レティリエを連れ戻して二人で村を出ることは、グレイルも何度か考えたことだ。だが、ローウェンの言う通り、周囲を巻き込んでまで一緒になることを彼女は望んでいない。堂々巡りの思考で頭の中が渦巻いているその時だった。
「あんた、意外と腑抜けなのね」
背後から声がして振り向くと、レベッカが立っていた。腰に手を当て、仁王立ちしてグレイルをキッと睨み付けている。
「レベッカ、グレイルの気持ちも考えてやれよ。幼馴染みがあんなことになったんだ。辛いに決まってるだろ」
ローウェンが慌ててレベッカを諌めるが、レベッカはふんと鼻を鳴らしてその言葉を一蹴した。
「だからっていつまでそんなウジウジしてるのよ。あんたみたいな腰抜けは、私の相手に相応しくないわね。仲間に迷惑かけるくらいなら、さっさと群れから出ていって欲しいわ」
「レベッカ!!」
ローウェンが大声を出す。さすがに言い過ぎだ、とレベッカに手をかけようとするが、その手をグレイルが引き留めた。
「いや、レベッカの言う通りだ。今の俺は足手まといと言われても仕方がない……けれど、これから一体どうしたらいいのかわからないんだ」
我ながら情けない姿を曝している自覚はある。それでも、今は仲間にすがらせてもらいたかった。
「そんなの私が知るわけないでしょ。でも、面倒くさいことをあれこれ考えて二の足を踏むくらいなら、うまくいかなかった後でごちゃごちゃ考えなさいよ。あんた、そんな計算高いタイプじゃないでしょ」
レベッカがつんとそっぽを向き、「ま、こいつみたいに計算しまくる可愛くないタイプよりマシだけど」とローウェンを指差すと彼は苦笑した。
グレイルはレベッカをじっと見つめた。言葉はキツいが、レベッカはグレイルの背中を押してくれていた。「周りのことを気にするよりも、まずは自分がしたいようにしなさいよ」彼女の金色の目がそう告げている。
「そうだな……レベッカ、ローウェン、ありがとう」
グレイルはふっと笑って立ち上がった。自分がどうしたいのかはわからないが、ひとところに座って悩み続けるのは性にあわない。
孤児院に行ってみようと思った。彼女がずっといた場所に。グレイルは二人に挨拶をすると、村の方へと駆け出していった。
「……あーあ、レベッカ。お前フラれたな」
グレイルの姿を見送りながらローウェンがおかしそうに言うと、レベッカは口元に笑みをたたえながらローウェンを見返した。
「あら、私は一番強い雄と一緒になりたいだけで、もともとグレイル個人にはそんなに興味ないわよ。どのみち、彼が情けない男のままなら、私は別の男を狙うつもりだしね」
「でも、お前が発破をかけたおかげで、また奴はてっぺんに返り咲くぜ? いいのか? レティに捕られちまうぞ」
ローウェンがからかうと、レベッカはニヤリと笑った。
「もちろん、そうなったら私は譲るつもりはないわよ。レティリエがグレイルと一緒になりたいって本気で思うなら、受けてたつわ」
レベッカの発言を聞き、ローウェンは驚いた顔でレベッカを見つめた。今の発言は、完全にレティリエをライバルとして認識しているものだ。レベッカはレティリエのことを、出来損ないの狼ではなく一人前の狼として見ていた。
一陣の風が吹き、レベッカの赤色の髪を颯爽となびかせる。
「……お前、いい女だな」
「あらそう、今頃気づくなんて、あんた意外と見る目が無いのね」
ローウェンの言葉に、レベッカは自信に満ちた顔で答えた。
孤児院へ訪ねると、マザーが出迎えてくれた。レティリエとの別れが余程ショックだったのか、顔色が悪い。
「マザー、忙しい所無理言ってすまない。レティの部屋に入ってもいいか?」
「お前ならもちろんだよ、グレイル。あの子がいつでも帰ってきていいように、そのままにしているから」
マザーに案内されるままに、レティリエの部屋に入る。置いてあるものは少ないが、所々に花が飾ってあったり、手編みのレースが家具にかけてあったりと、控えめな彼女らしい清潔な部屋だった。
なんとなく彼女の温もりを感じたくて部屋に来てしまったが、グレイルは自分はどうしたいのかまだわからずにいた。ローウェンの言う通り、もしかしたら彼女は人間の世界で幸せになっているかもしれないし、案外逞しく生活しているかもしれない。けれど、心の中で燻っている靄は晴れてくれない。
ベッドに腰かけて部屋を眺めると、秋の終わりの風が日の光と共にカーテンを揺らした。ふわっとカーテンが波打ち、何とはなしにそちらに目を向けると、窓際の小さな机の上に置いてある古ぼけた瓶が目に写った。
近づいてよく見てみると、中には色とりどりの小石がたくさん入っていた。彼女らしからぬ内容物に、内心で首を傾げる。中の小石を取り出し、日の光にかざしてみると、うっすらと青みがかった石がキラッと光ったような気がした。
その儚い輝きを見た瞬間、グレイルは唐突に思い出した。
(ああ、これは、かつて俺が彼女に贈っていたものだ……)
まだ自分も幼かった頃の思い出だ。孤児院の子供達が総出で狩りの練習に行く時、レティリエはいつもマザーと一緒に留守番をしていた。
仲間達を見送る時の少し寂しそうな彼女の顔を見て、ある日グレイルは拾った小石をお土産に持って帰ってきたのだ。狼の村の周辺では見ないような、珍しい色の石を渡すと、レティリエはパッと破顔して喜んでくれた。それがなんとなく嬉しくて、グレイルは遠出する際にはいつも石を拾ってきていた。
そして、彼女はその日の狩りの話をニコニコしながら聞いてくるのだ。
グレイルはふっと笑って石を瓶に戻した。ただの石ころを後生大事に取っておく彼女のいじらしさに、心が温かくなる。他の人から見ればガラクタ同然のこの瓶は、彼女にとってはひとつひとつに思い出が付与された宝箱だったのだ。
(お前は、昔からずっと一途に俺のことを慕っていてくれたんだな)
心の中でレティリエに呼び掛ける。彼女の笑顔が脳裏に浮かび……なんとなく引っ掛かるものを感じた。
(そういえば……俺はいつから彼女のことが好きだったんだろうか)
記憶の中で幼い自分に問いかける。そもそも、こんなに甲斐甲斐しく石を拾ってきていたのは、本当に彼女を励ましたかったことだけが理由だったのだろうか。
記憶の中の彼女の笑顔が、幼い頃の彼女の笑顔と重なり……グレイルは唐突に理解した。
ああ、そうか。心の中で呟く。
自分が彼女の為に石を拾ってきたのは……彼女の笑った顔が見たかったからだ。自分は、自分が認識するよりもっとずっとずっと前から彼女のことが好きだったのだ。
そう。多分、泣いてる自分の隣に優しく寄り添ってくれたあの日から――
幼い頃の淡い恋心は、大人になった今初めてその形を成した。今も昔も、なんとなくいつもレティリエのことが気になっていたのは、幼馴染みだからだと決めつけていた自分に苦笑する。幼馴染みだからだなんてとんでもない。惚れていたのは自分の方が先だったのだ。
彼女に会いたい。
思った瞬間、その言葉がストンと腑に落ちた。ここ数日間の靄の正体がわかった。自分は彼女が心配だったのではない。彼女に会いたかったのだ。
グレイルは目に決意の光を灯しながら部屋を出た。マザーに別れの挨拶をし、外へ出る。そのまま黒い狼の姿になると、村の外へ向かって一目散に走り出した。
もしかすると、この村にはもう彼女の居場所は無いかもしれない。
例え連れ帰ったとしても、一緒になることは難しいかもしれない。
そもそも、既に彼女は人間の世界が気に入ってるかもしれない。
──そんなことはどうだっていい。面倒なことは後まわしだ。
今はただ、彼女に会いたい。
グレイルは万感の想いを胸に、森の中へ消えていった。




