あの季節
「おはようございます」
「ん、おはよ」
挨拶も随分と慣れた。
乱れのない黒い髪が顔を上げるとフワリと揺れる。視線から逃れるようにそそくさと席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。
国を跨ぐ商売が盛んな地域ということもあり、この屋敷で出される食材は全てが新鮮で美味しい。流石、名のある公爵家と口内で呟いた。
国同士の交易を整えた功績で爵位を授与されたバレット公爵の話は非常に有名で、情勢に疎い私でも知っている程だ。
多方面から食材やら調味料を取り寄せているためか、異文化寄りの味付けも好ましい。
サラダにかけられたドレッシングも、朝食用にまろやかで食の進む味に整えられている。
1度くらいシェフに美味しいと言うべきだろうか。男性のシェフも多いため、普段から目にすることはあまりない。
ミランダに伝えてもらうか思案していると、目前の公爵様は何か思い出したようにああ、と呟いた。
「先に言っておくことがあったわ」
「…なんですか」
構えるような体制の私に、アシュレーは肩を竦めた。
ここへ嫁いでから既に数週間は経っているものの、基本的に挨拶以外は話をしない夫婦だ。
彼の言っておくこと、に嫌な予感がするのは仕方ないだろう。
「大分早いけど、来季の社交シーズンは夫婦で参加するからよろしくね」
「しゃ、こう…って
あの社交界ですか?!」
「そうよ
あの社交界」
言外に含んだ問題提起に目を泳がせる。何か問題でも、と言いたげな彼は私の噂を知らないのだろうか。
合わない視線ですぐに分かるだろうに、アシュレーは淡々と私のつつかれたくない事を聞いてくる。
「あえて聞くけど、社交界の経験は?」
「…」
黙秘です。
口を開かない私に、彼は珈琲を啜りミランダへ目線を送った。
「ミランダ」
「1度だけ参加しましたよね!」
うちの従者は甘やかされ体質ではあるが、甘やかし体質でもある。1度でも参加したことを大業でも果たしたかのような顔で言い切った。
「…1度だけ、は参加してないと同義ね」
「あんなの、参加してなんの意味があるんでしょう」
「茶会は?」
「1度も」
「ないのね」
グ、と息を詰まらせる。
自分の価値をさも1番だと振る舞う会など、興味もなければ逃げるのも辞さない。
確かにこの屋敷は随分と好ましいが、それを自慢する程愛着は持っていないのだ。愛着を持っていたとて茶会やら社交界などごめんだが。
「婚儀も内々でやったことになってるのよ?
流石に社交界にも妻を表に出さない、は体裁が悪いわ」
「…そうでしょうね」
アシュレーから言われた決まりの『必要最低限の対応』が脳裏に浮かぶ。
彼は来客があればとは言っていたが、確かに公爵という地位にありながら妻が一切出てこないというのは非常に良くない。
しばしば耳にする政略結婚だとて、表向きにはある程度仲睦まじい夫婦を演じなければ角が立つのだと、3人の姉は口を揃えて言っていたことを思い出す。
出席を拒否すれば貴族として必要最低限のマナーがなっていない、と判断されることは無知なりに分かっている。
あと3ヶ月程経てば社交界のシーズンが始まる筈だ。
まだ時期が先の内に釘を刺したのは、恐らくアシュレーなりの優しさなのだろう。
過ごしやすいよう配慮して貰っているのは重々承知だ。1ヶ月にも満たない期間でそれは切々と理解している。
「まあ、本当に嫌なら」
「いえ…」
味がしなくなってしまったサラダとスープをかきこんで、食後の珈琲を一息で飲み干した。
ダン、とカップを乱雑に置く。アシュレーの体が僅かに動き、口元を歪めた。
「ただ、」
「…ええ」
「3ヶ月ではこなせない量の課題があります故、貴方にお願いをすることがあるかも知れません」
「分かっ……、え?」
「その時はどうぞお手柔らかにお願いします」
「…参加する気?」
発言を疑う彼に今度はこちらが口元を歪める番だった。
口角を下げた私に、アシュレーが失言といった風に口元を隠す。
「元は貴方の提示した決まり事でしょう?」
「…そうね、助かるわ」
ありがとうと言葉を背に受けながら、食堂から足早に逃げ出した。