第22話 自分でもここまでダメージを受けてたなんて気付いてなかったです
剣を突きつけられて不利を悟ったのか、ネイト殿下が私の腕を離しました。自由になった手を胸に引き寄せると、急に足がガクガクと震え始めて真っ直ぐに立つのさえ大変です。ダリル殿下の支えがなかったらへたり込んでしまったことでしょう。
手は離れても、ダリル殿下とネイト殿下の睨み合いは続きます。
「なにをするんだ、兄さま? 忘れているのかもしれないが、原則的に決闘前の私闘は禁止だ。早くその剣を下ろさないと――」
「そう、つまり私闘じゃない。皇帝陛下からの正式な応援要請を受けて逆賊を捕まえに来たんだ」
「逆賊だと?」
いつの間にか私たちの周りを兵士が取り囲んでいました。そのさらに後方に黒ウサギの姿もあります。もしかしてダリル殿下を案内してくれたのでしょうか。私ったら、自分のことで精一杯でぜんぜん気が付きませんでした。
周囲を見回したネイト殿下の表情に焦りが浮かびます。対照的にダリル殿下の横顔からは表情が感じ取れなくて、風のない湖みたい。
何も言わないダリル殿下にネイト殿下が重ねて問いかけます。
「一体何をもって逆賊だなどとふざけたことを」
「陛下が根拠なく動くとでも? まったく、ここでミミルに手を出さなければ陛下も決闘までは目をつぶってくれたのにな」
そうですよね。誘拐や人身売買の事実を知っていても皇族の醜聞は隠しておきたいはず。せめて人々の注目が集まる決闘まではネイト殿下を泳がせておきたいと考えるのは普通だと思います。……為政者なら。
けれど他国の貴族令嬢にこれ以上の危害が加えられるとなったら、陛下も手を出さずにはいられないでしょう。国際問題が大きくなるほうが余程痛手ですから。
ダリル殿下の言葉が嘘ではないと理解したのか、ネイト殿下は舌打ちをひとつ落として降参だとでも言うように両手を上げました。
「ここは大人しくしておこうか」
「処遇は陛下がお決めになるさ」
ダリル殿下は私がひとりで立てるか確認しながら手を離し、おろした剣を腰へ戻しました。近くにいた衛兵が数人駆け寄って、ネイト殿下を拘束します。
大きく一歩踏み出したダリル殿下はネイト殿下の胸元のメダルへと手を伸ばしました。
「んじゃ、返してもらうからね。他のふたつもさっき回収したし、奇跡が起きて解放されたとしても決闘には参加できない。つまり、おまえが皇帝になることはない」
「ほう? 全部見つけたとは素直に称賛したいな」
衛兵達に自由を奪われたネイト殿下の口元はそれでも弧を描いていて、余裕さえ感じさせます。
不思議に思いながら様子を見ていると、連行される彼の背にダリル殿下が声をかけました。
「ああ、そうだネイト」
「……はい、何ですか兄さま?」
衛兵達が立ち止まり、ネイト殿下が振り返ります。
「お前の亡命しようとしているルート、お前の懇意の奴隷商人だけど」
ネイト殿下の表情から色がすとんと抜け落ちました。暗い瞳でダリル殿下の言葉を待ちます。
「この夜会の裏で兵士を差し向けてるんだ。今頃はみんな豚箱行きだろう」
「なっ……!」
先ほどまでの余裕を感じさせる表情から一転して悪意、いえ、憤怒が露わになりました。帝位を取れずともラガリア共和国へ渡ってから帝国を意のままにする計画などがあったのかもしれません。それがダリル殿下の手によって潰されたということでしょうか。
ネイト殿下は大きく腕を振って衛兵の手から逃れようと暴れます。と同時に誰かを探すように周囲に視線を投げかけました。
「おいっ、どうにかしろ!」
彼の叫び声に呼応するようにどこからか獣の唸り声がして、次の瞬間。大きく黒い何かが樹上からダリル殿下に向けて飛び降りて来たのです。
ダリル殿下の舌打ちとヒュっという風切り音が聞こえたのは同時でした。一瞬のことでしっかり確認できたわけではないのですが、ダリル殿下は剣を抜き放ちながら降って来た黒い物体を避けて後方へ飛び退いたように思えました。
私を庇うように立ったダリル殿下の背中越しに対峙した獣を確認すれば、それは黒ヒョウでした。なるほど、樹上から見られていたのではいくら隠れても意味がなかったわけですね。
「どこの所属か知らないけど隠れ方が下手すぎる。研鑽が足りないな」
ヒョウは「グ」と弱々しく一声だけ発し、その場に崩れ落ちました。転身が解け、うつぶせに倒れる裸の男の下には血溜まりが。
あの一瞬でダリル殿下は襲い来るヒョウへ的確に攻撃していたのでしょうか、恐ろしい強さです。
「くっそ……」
暴れても自由にはなれなかったネイト殿下が忌々しげにそう呟いて、僅かに視線を落としました。小さな溜め息とともに再び顔を上げた彼の瞳に浮かぶのは、ほんの少しの諦念と……憎悪。
憎しみに濡れたネイト殿下の視線が、舐めるように私の身体を上下します。彼の身体はしっかり拘束されているというのに、私は恐怖にすくんで呼吸さえ忘れてしまいそう。
「教えてやろうか、兄さまが入れ込んでるあのウサギの腹には黒子がふたつあると」
「やめて!」
なんでそんなこと言うの!
首輪を外されて転身が解除されたあの瞬間を嫌でも思い出してしまいました。猫のくせに爬虫類みたいなじっとりした目で見まわしたあの男を。小さく唇を舐めた赤い舌と湿った音を。
「乳は小振りだが、先端――」
「いやあーっ!」
もう立っていられなくて、いえ、いっそこのまま死んでしまいたくて自分で自分の身体をかき抱きながらしゃがみ込みました。
あの日、私に触れようと伸ばされた手さえありありと思い出して、恐怖と嫌悪感がぐるぐると胃をかき混ぜます。
こぼれ落ちる涙でぐちゃぐちゃに滲んだ視界の中でダリル殿下の姿がふわりと消え、転がった剣の発する金属の音と固いものがぶつかるような大きな鈍い音とが薄暗い庭に響きました。ダリル殿下がネイト殿下へ飛び掛かり殴りつけたのです。彼を拘束していた衛兵たちが困惑しつつ距離をとりました。
「その腐った性根も死ねば多少はマシになるのか?」
倒れたネイト殿下のお腹を蹴り上げて、身体を折って咽る彼に馬乗りになって。
私の膝に黒ウサギがよじ登って立ち、私の頬を舐めました。そこで初めて私は上手に息が出来ていないことに気付いたのです。
ダリル殿下を制止しようとする衛兵たちの声を聞きながら、私は黒ウサギを抱き締めて深呼吸を三度繰り返しました。




