狂い出す歯車
それから特にこれと言った話の進展はなく、俺は部屋を後にした。
離れにある百音の部屋に一度寄ろうとも思ったが、眠気に現在進行形で襲われている俺は自室に足を踏み入れる。
そのまま疲れきった俺は部屋の灯りを消してベッドへと倒れ込んだ。
ベッドと毛布の間に体を挟み込んだ俺は真っ暗な天井を見上げながらただ呟いた。
「雪には無理を強いてばっかりだよな......」
と。
俺が目が覚めるのは普段なら枕元にある古臭い丸型の目覚まし時計が奏でる爆音によるものだ。
だが今日今回はいつもとは違い、鈍い痛みが腹を走り回る鈍痛で俺は覚醒する。
重い瞼を開き視界が開くと目の前に広がるのは百音の綺麗に整った顔だった。
重力に従った髪の毛が顔の色々なところに垂れ下がり、百音が今俺に馬乗りになっている事を悟る。
「やっと起きたー。てか何で私と寝なかったの?」
頬を膨らませ、俺を見下ろしてそんな事を聞く百音。
動作一つ一つがわざとらしいのだが、怒っているのは確かだ。
「逆に俺と寝たいのか?」
「そりゃおにーちゃんと寝たいに決まってるじゃん。今日こそは一緒に寝てよね!」
そうして百音はベッドから降り、俺は開放される事となる。
百音が跨っていた事もあり俺の体温は急上昇、暑苦しく寝起きの気分は最悪だ。
さて、ここから顔を洗い歯を磨いてから制服に着替えて──
「お前がこれ準備したのか」
「うん! おにーちゃんの為なら私何でもするから」
「助かる」
部屋の真ん中には綺麗に畳まれた制服が置いてあり、いつもベランダまで足を運んで取る俺にして見れば大いに助かる。
俺に感謝の言葉を貰った百音は満面の笑みを浮かべて、髪の毛を弄っていて上機嫌そのものだった。
それから俺は顔を洗い歯を磨き、後は制服に着替えるだけで、ズボンを下ろそうとしたのだが......。
「お前いつまで部屋にいるんだ?」
今目の前で男が脱ごうとしているのに一切その場から逃げ出そうとしない百音。
正直幾ら家族だとは言え着替え難いのでやめて欲しいのだが。
「妹なのにおにーちゃんの着替え見て何が悪いの?」
「じゃあ俺がお前の着替え見てもいいのか?」
「それはダメに決まってるじゃん。もしかしておにーちゃん変態?」
「それはお前だろ。いいからさっさと出て行ってくれ」
「仕方ないなー。出ていけばいいんでしょ出ていけば」
そんな事をブツブツ言いながら俺の部屋を後にする百音。
......にしても人格も変わり記憶も失った百音はあまりにも俺に甘えてくる。
昨日の時点ではよく寝ればもしかしたら元に戻ってくれるかも何て希望を抱いていた。
だが一晩が過ぎた今でも百音は以前の記憶を失ったままで、人格も豹変したままだ。
明日になっても治ってなかったら病院にでも連れて行くか。
と、俺はそんな事を考えながらバッグを持ち高校へと向かおうと扉を開いた。
その刹那、真正面から百音が飛び込んで俺の体を抱き締める。
あまりにも急に起きた出来事で驚いた俺は手に下げていたバッグを落としてしまう。
「何だよ百音。俺は今から学校に行かないと行けないんだよ」
「......学校に、行かないで」
「は? お前何言ってる──」
「......おにーちゃん、私を一人にしないでよ──」
俺の腹に顔をうずくめていた百音は涙を目に溜め、顔を見上げて言葉を放つ。
声は揺れていて、目を細め不安げな表情を浮かべていて。
──何かが、俺の胸に刺さった。
「わかった。今日は俺と楽しい事をしよう」
「ほんと!? 私からどっか行かない?」
「ああ、どこにも行かない。ただちょっとその前にスーパーに行こう。物資の調達だ」
「おにーちゃん最高!」
そうやって嬉々として万歳する可愛げのある百音を横目に。
「私、このままだと一人になっちゃう」
出来るだけ思い出さないようにはしていたが──
何時ぶりだろうな、あの時を思い出したのは。
そうして俺と百音はスーパーへと向かう事になり、リビングを通ったその時だった。
「康太くん、今日の学校はどうするんですか?」
背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
そういえば雪は俺よりも遅い時間に家を出るんだったな。
「この様子じゃ学校に行けないだろ?」
「まあ、確かにそうですね。それよ。もお二人随分と仲良さそうですね」
「だって私のおにーちゃんだからね! 仲良いに決まってるじゃん」
「そうですか。なら私も嬉しいのですが」
「へへ、たまにはいい事言うじゃん! えーと、名前わからないけどありがと!」
「名前は──そうですね。お姉ちゃんでお願いしてもいいですか?」
「んーよくわからないけどお姉ちゃんね。ありがとねお姉ちゃん」
「いいですよ百音。さぁ康太くん、行ってらっしゃい」
そうしてこちらに手を降り始める雪を背に向けて俺は靴を履く。
百音の表情を見ていたが、あれは明らかに悲愴感に溢れた顔付きだった。
そんなに自分が忘れられているのが悲しいのだろうか。
いや、悲しいんだろうな。
長年一緒に過ごしてきた家族よりも新しく入って来た俺の方が覚えられている。
これがどんなに理不尽なのかは俺でもわかった。
雪が大人なのはわかっているが、その理不尽でやりどころのない気持ちが何か悪さををしないといいんだが。
「行ってくるよ」
「ばいばいお姉ちゃん」
そんな俺と百音の声に雪は微笑みながら答えた。
「いってらしゃいー」
と。




