心因性記憶障害
「これでいいのか......?」
俺はそんな事を言いながら菓子パンを開いた百音の口へと持っていき、パンを食べさせる。
何せこんな経験初めてなので少し戸惑ってしまう。
「私がメロンパン好きなのもしかして知ってた?」
「いや何となくコンビニで──」
「流石おにーちゃん! 私の好きな食べ物もわかってる」
と、俺が応える間もなく百音は捲し立てる。
そして四つん這いになってしゃがみ込んでいた俺に向かって近付き、腹を包み込むようにして抱き締めた。
「百音......?」
「えへへへ。おにーちゃんなら別にいいでしょ?」
「......それは置いてといて、帰るぞ。もう暗くなって来たし、雨足も相変わらず強い」
「おにーちゃん冷たいよー。ま、おにーちゃんが帰るなら私も帰るけどね」
しゃがみ込んでいた俺は体を立たせると、百音もそれに続いて立ち上がった。
俺は百音の方を振り向くことなく帰路を辿り始める。
......俺がコンビニに行っている間に、百音に何があったのか。
以前の百音は俺にこんなにまで甘えてくる様な奴じゃなかった。
信頼されていなかったと言えば違うかも知れないが、今では依存と言った方が腑に落ちる様な態度だ。
そんな百音が俺にはアイツがアイツじゃない様な気がして、振り向くことが出来なかった。
「ちょっとおにーちゃん速いよー」
俺の後ろから聞こえる甘えた調子でそう話す百音を俺は耳にしながら。
「これからどうなるんだろうな」
何て事を一人小さく呟くのだった。
それから無事家へとびしょ濡れで辿り着いた俺ら二人は玄関を開けた瞬間、雪の大きな声で出迎えられた。
「ちょっと二人ともこんなに濡れてどうしたんですか!」
バスタオルをご丁寧にも二枚両手に持っており、心配にも怒りにも似たような表情を浮かべる雪。
俺は『えーとだな、』何て一泊を置いてから口を開こうとしたその刹那。
「おにーちゃんに失礼じゃん! 何その態度!」
「ちょっ百音──」
「おにーちゃんは黙ってて! おにーちゃんの事悪く言う人、私嫌いだから!」
「......百音、ですよね? 一体どうしたんですか?」
俺の後ろにいた百音は突如として声を張り上げ、物凄い剣幕で雪に向きって言葉を放つ。
一瞬驚いて目を丸くした雪だったが瞬時に訝しむ様に眉間に皺を寄せ、冷静に言葉を返す。
「今日の百音は疲れてるんだ。申し訳ないが雪、ここから離れてくれ」
「事情はわかりませんが、取り敢えずここは一旦下がるのが賢明みたいですね。濡れたままだとお身体にも悪いので、しっかりと拭いてくださいね」
そう言ってからバスタオルを俺に手渡してから背を向け、この場を後にする雪。
俺はホッと一息を吐いてから、後ろに視線を飛ばし口を開く。
「おい百音。俺は何も言われてもいいから人に向かって感情的になるのはやめろ。ハッキリ言って俺の迷惑になる」
「だってあの人おにーちゃんの事悪く言ってたし......」
「俺に悪いことなんて一つも言ってなかっただろ。逆に雪は俺らの事を心配してたんだよ」
俺が口調を強めて話すと一気に縮こまる百音を見ると、やはり俺に言われることは絶対と思っている様だ。
今この状況を見ると家族関係なく俺に否定的な事を言う奴には突っかかってしまうみたいだな。
どうやって今の百音を取り扱えばいいのだろうか。
「......わかったけど、さ。その、雪って誰の事を言ってるの?」
「お前雪を知らないのか?」
「冗談抜きで本当に誰なの......?」
百音の口から解き放たれる言葉に俺はただただ絶句する事しか出来なかった。
自室に戻った俺だが案の定百音も俺の部屋に入ってきて、ずっと俺と一緒に行動するつもりの様だった。
俺の部屋は八畳程しかなく二人でいるのは少々狭苦しいのもあり、百音がいた離れに移る事にした。
そして離れに着いたや否や、百音は『わー』とそんな感嘆の声をあげる。
「この部屋なんか色々あって綺麗だね」
百音の部屋には赤色のLEDの照明が付いていたり、壁には男性アイドルのポスターが貼れていたりと趣味嗜好が全面に押し出されている。
デスクにはパソコンと三台のモニターが置いてあり、キーボードは青色と女子の雰囲気がこれでもかと醸し出されていた。
そんな部屋をキョロキョロと興味深く見渡す百音は自分の部屋なのにまるで物珍しい物を始めて見るかの様だった。
まさかコイツは──
「ここがお前の部屋だぞ?」
「え、ここが私の部屋なの!? こんな広くて可愛い部屋、使っていいの?」
「使っていいのも何も、お前の部屋だからな。お前が使ってても誰も文句は言わない」
「えへへへ。こんな可愛い部屋、初めて見たかも!」
嬉々としてベッドの上を飛び跳ねたり、色々な所を見当たる百音。
雪の存在も知らず、自分の部屋だと言う事も忘れている。
考えたくはないが、記憶がドーナツの穴みたいに一部抜け落ちていると思った方がいいか。
今の百音の立ち振る舞いを見ると随分精神年齢も下がった感じで、以前の百音とは全く違う別人だ。
何故記憶が抜け落ちたのかは正確にはよくわからないが──
「心因性記憶障害......が妥当なところか」
取り敢えず今日は百音を寝かせしつけた後、雪の部屋に行ってミーティングをしよう。
と俺ははしゃぎ回る百音を横目に、そんな事を思うのだった。
あの後はしゃぎ回って疲れ果てたのか、百音はベッドの上で横になったあと小さな寝息をたてて眠りについた。
それを見計らった俺は静かに扉を開き、雪の部屋へと向かう。
何回かノックをするとゆっくりと扉は開かれ、向こう側にはバジャマ着姿の雪がこちらに顔を覗かせた。
「ベッドに座ってください」
そう言われた俺はベッドに腰掛けると、その隣に雪も腰を下ろした。
視線を横に飛ばすと雪は目線を下にして俯いており、今日あった事もあって中々俺は口を開けないでいた。
しばらくの沈黙が雪の部屋に訪れ、俺が声を出そうとしていた時だった。
「百音が私のことを忘れていたのは......Youtubeが関係してますか?」
中々鋭い質問だった。
雪は百音がYouTuberである事は以前から知っており、勿論アカウントがBANされている事も知っているはずだ。
「ああ、関係している。事の経緯を話すと少し長くなるかも知れないが、時間は大丈夫か? 明日は学校だろ?」
「大丈夫です。学校よりも、妹の方が大切です」
雪はハッキリと力強く言葉を放った。
「そうか。俺が学校から帰っている時にな──」
それから俺は帰宅途中に百音からメールが入ってきた場面から順を追って話し始めた。
百音が河川敷にいたこと。
コンビニに行って帰ってくる間に豹変したこと。
雪も自分の部屋のことも忘れていたこと。
大体全ては、雪に打ち明けた。
「YoutubeがBANされたショック、のせいでしょうね。それに、人格も少し変わっているような......。少なくとも、あんな声を荒らげる様な人ではなかったです」
「恐らく原因はそれで合っている筈だ。人格は何だろうな。記憶が失った分だけ精神年齢が戻ったのか、それとも違う人格が生まれたのかのどちらかだろうな。そして問題はどうやって回復されるか、だな」
百音が失った記憶を取り戻し、豹変した人格をも取り戻すことが出来るのか。
出来るのならどうやってそれを成し遂げるのか。
まだまだ何も決まっちゃいないし、わからない事ばかりだ。
「私はどうしたらいいのでしょうか......」
肩を震わせ、俯いて膝の上に置いた手の甲には何粒かの水滴が滴り落ちている。
声は掠れて、一言一言絞り出して話していた。
「今の段階じゃ、見守る事しか出来ないだろうな」
「そんなんじゃ......! 家族として私は何も果たせない......」
「だが実際問題雪お前に対しては敵対心を持っている。それに豹変した百音を見ていると現段階では俺以外に心を開いていない様にも見える。......だからお前が出来ることはあんまりないだろうな」
俺の言葉に対して返事をすることなく百音は嗚咽をしながらただ涙を零す。
そんな雪を横目に俺は掛ける言葉もなく、ただただ真っ直ぐ前を見据えることしか出来ない。
「私の事は忘れて、康太くんの事は覚えているこの事実が、私は悔しいです......」
返す言葉もない。
気の毒と言えばそうだが、今言うべき言葉でもない。
「......なんて言うか......。その、俺を、信じてくれ......」
深夜嗚咽が響く部屋の中、俺はそんな言葉を絞り出すのだった。




