脱走中
無事退院しました。
入院中に携帯でポチポチと書いてましたが、利き手は怪我するもんじゃないですね。
「今、何か物音がしなかった?」
キャルがスープをすくったスプーンを口に運ぼうとして、動きを止めた。
全員が、耳を澄ます。
遠くから、嘶きが聞こえた。
全員の視線がセインに注がれて、慌てて首を横に振る。
「クレイの声じゃないよ?」
「ご飯あげたの?」
セインの愛馬でありながら、キャルのお気に入りでもある栗毛の馬は、今朝も元気に草を食み、セインを乗せて清々しい早朝散歩を堪能している。
なのに疑いの眼差しを向けるキャルに、セインはムッとして反論しようと口を開けた。
「ご飯どころか朝の散歩だってして」
ドガガン!!
最後まで言い終わらないうちに、玄関の扉がけたたましい音と共に吹っ飛んだ。
「皆さん!今すぐお逃げ下さい!」
馬で蹴り倒したドアを踏みつけて、馬に乗ったまま服も髪も乱して現れたのは、この家の持ち主であるパムルだった。
「どうしたっていうの!?」
あまりの登場の仕方に流石に驚いて、全員の動きが固まった。セインだけが、辛うじて声を上げて事の次第を問い質す。
「詳しく話している時間はありません!外に馬を連れて来ましたのでお早く!道案内は彼らが」
一息に喋って、パムルは馬から飛び降りる。彼女が指し示す外を見れば、カールとラルの兄妹が、馬を牽いていた。
「セイン様のお馬も、今お連れしますから!」
自分の乗って来た馬の手綱をジャムリムに手渡し、パムルはひらりと身を翻し、砕けたドアから外へと飛び出していく。ただ事ならない様子に、全員が一斉に動いた。
「忘れ物はないね?」
荷物を手早くまとめ、各々宛がわれた馬に飛び乗った。
最後に、駆けて来たクレイにセインが乗り、全員が馬上に居る事を確認して、パムルが自身の乗る馬の腹を蹴る。
「城壁の門まで走ります!遅れなきよう!」
彼女はスカートの裾を翻し、振り向く事なく、灰色の馬を駆けさせた。
彼女らしい地味なドレスの下に、乗馬用のブーツが見える。急いでいるようで、何か計画があるらしい。
リーン ゴーン リーン ゴーン
朝靄の中を、突然重苦しい金属音が響いた。街だけでなく、領民全てに、朝食開始を告げる音。
「朝の鐘か。なるほど、きっちりしてら」
感心したように、ギャンガルドが呟く。
海賊王の馬にはジャムリムも乗っている。パムルの乗って来た黒毛の馬だ。
当のパムルは、カールの牽いていた馬に跨がっていた。
しんがりは兄妹が務めている。
城の建つ丘を降りた所で、タカの背中にしがみつきながら、キャルは振り向いた。朝焼けに染まり、黄金色に輝く森の輪郭とは裏腹に、高台にそびえる城は黒々と日の光を遮り、徐々に離れて行く。
「お日様の光って、朝は何でも綺麗にしてくれるものだと思っていたけど、例外というのは必ず存在するものなのね」
城から興味を無くし、キャルは前を見る。爽やかな空気で満たされた目の前の街並みには、本来なら忙しそうに行き交うはずの人々の姿は見られない。
それはなんとも寂しい光景だった。
城と街とを隔てる低い生け垣の前まで来ると、パムルが馬を止めた。
「私はこれまで。後は兄妹がご案内致します」
彼女とラルが入れ替わり、再び有無を言わさず走り出す。
「パムル!!」
セインがクレイの足を止めたのを、カールが制した。
「大丈夫ですからお止まりにならず!」
自分だけでなく、カールまで足止めさせるわけにはいかず、仕方なく、セインは再びクレイを走らせる。振り返れば、パムルが手を振った。
「お気を付けて!」
そう叫ぶと、彼女は馬首を廻らせ、城へと戻って行く。彼女一人、何かあったであろうあの城に帰すのかと、カールを睨めば、彼は唇を噛みしめていた。
「気を付けるのは、パムルの方じゃないの?」
「!…」
並走しながらカールから視線を外し、顔を見ずに尋ねれば、苦しげな沈黙が返って来る。
セインは大きくため息を吐いた。
「僕らは良い。君はパムルの側に戻って」
「貴方がたを無事に逃がすように仰せつかっております」
カールは思っているよりも、随分と生真面目な性格だったらしい。
「バカだな。会ったばかりの僕らと彼女、どちらが大事?」
「え?」
「君のご主人の娘で、このヘンテコな領地を立ち直らせられる数少ない人材は誰?」
生真面目な事は別に悪い事ではないが、今、この場で頑なになる事ではない。時には融通も機転も効かせなければ。
「…」
驚いたように眼を見開くカールに、セインは更にたたみかけた。
「何より、彼女に何かあったら、君のご主人も、君も、君の妹も、取り返しがつかなくなるのじゃないの?」
ようやくこちらを見やったカールに、セインは微笑んだ。
「今ならまだ取り返しがつくよ。僕らの事はラルに任せて。君の妹は優秀だろう?」
先頭を行く小さな背中からは、しっかりとした意志が感じられる。その妹の背中を見つめ、カールはゴクリとひとつ、息を呑み込む。
「ありがとうございます」
小さく呟いた。
「何の。これでも修羅場は何度も経験している」
馬を近づけ、子供にするように、カールの頭をなでた。
一瞬顔を赤らめたが、すぐに厳しい表情に戻ると、馬の腹を蹴り、方向を転換させる。
「それでは、お気をつけて!」
「君もね」
振り返らずに、一目散に城へと馬を飛ばすカールに満足し、セインは仕方がないとばかりに子供を叱る親のような顔になる。
「さて?」
ほふ、と息を吐きだして、クレイのスピードを上げさせた。
「これで逃げっぱなしって、男が廃るってもんだろ?」
事の有様を、真っ直ぐ前だけ見ているようで、しっかりと把握しているらしい海賊王が、にやりと笑って振り向いた。
「…全く君って、油断も隙も無いよね」
「褒め言葉として受けとっとくぜ」
「ま、私だって、あの腹の立つ親子と執事に、ひと泡くらい吹かせてやりたいのよね」
キャルまでが参戦する。
「ひと泡どころじゃ収まんないだろう?三つ四つ吹かせちゃいなよ!」
ジャムリムが笑う。
「おれっちもさんせーい!」
タカはなんだか嬉しそうだ。
「じゃ、全員賛成一致ということで」
にこやかに微笑むと、セインは先頭へとスピードを上げた。
「ラル!ちょっと相談があるんだけど!」
一心に馬を走らせていたラルは、急にかけられた声に驚いたらしい。小さく「キャ!」と声を上げて、肩も小さくすくめた。
「城壁の外まで無事に逃げられたら、詳しい話をしてくれるんでしょ?」
「はい!ですから、今はお急ぎを!」
まだ、兄のカールがパムルを追って城へ戻った事を知らないでいる彼女に、セインは申し訳ないと思いつつ、馬を近づける。
「うん、それでね。ラルなら、この城下町にも、城内にも詳しいだろうから、ちょっと案内を頼みたいんだ」
それは、せっかく逃げ切れても、再び城へ戻るというのだろうか。
「状況によりけりかな?まだ、君達から話を聞いていないからね」
セインの言葉に、ラルは眉をひそめる。
「で、ここの領主のお姉さんたちの嫁ぎ先って、遠いの?」
「あ、あの、近い方もいらっしゃいますが、その?」
「そっか、近いのもいるのか」
にこやかなセインに、ラルはこの男が何を考えているのかさっぱり分からず、なんだか不安になった。
「君たちに迷惑はかけないし、僕らもあの城には戻りたくないし、大丈夫。何もしないから」
それは嘘だと分かったが、ラルはとにかく、何か企んでいるらしい、曲がった眼鏡の男に頷いて見せた。
「良くは分かりませんが、出来うる限りご協力するように仰せつかっております。私に出来る事でしたら、なんなりと」
眼鏡が曲がった原因を知っているだけに、無理にかけることもないだろうと思う。
「ありがとう。助かるよ!」
曲がったフレームを気にしつつ、嬉しそうなセインをちらりと見やり、ラルは笑った。
「まず、眼鏡を直しましょうか」
「へ?」
そんなに自分の言葉は意外だっただろうか。
きょとんとするセインに、ラルはくすくすと笑った。
「やれやれ、女性って、やっぱり強いよね」
ぽつりと、セインが呟いた言葉は、聞かなかった事にする。
「さ、皆様もうすぐです!しっかりついてきて下さいまし!」
大通りを横切り、裏路地を行く。
馬でこんな事が出来るのも、あの変な条例で、道に人がいないおかげだ。何が幸いするのか分からないものである。