蓑虫の気持ちがちょっと分かったかもしれない
誰もいない廊下は既に薄暗く、夜の帳が間近であることを示している。
時々、設置されたランプに明かりを灯している使用人をやり過ごしながら、セインのいる部屋まで急ぐ。
全員の足音が、妙に響く気がした。
「ここです」
城の奥まった片隅で、パムルが足を止めた。
重厚な革張りの扉はピタリと口を閉ざしている。
「えらく立派な扉だね」
ジャムリムが見上げながら簡単の吐息をつく。
扉の周りは白い彫刻で飾られ、モチーフの草花が美しく絡まりあっている。
「客室ですから」
パムルがドアノブに手を掛けた。
がちゃり、と音を響かせただけで、やはりノブは動こうとしない。
兄妹から預かった鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで静かに回す。かちん、と、小さな音がした。
「待って」
小さいが、鋭い制止の声が上がる。キャルだった。
「お嬢?」
どうした事かと、訊ねようとしたタカの口をギャンガルドが塞ぐ。
視線で促された先を見れば、廊下の向こうの角に、揺らめく影が見えた。
耳を澄ませば、微かに足音が聞こえる。
「早く中へ!」
全員が隠れる場所はないと瞬時に判断し、パムルは全員を眼の前の扉の中へと押し込んだ。
慎重に、素早く部屋へと潜り込み、細心の注意を払って扉を閉め、鍵を掛け直す。
室内は真っ暗だ。
「ベッドの下へ!」
真っ先に目に付いた大きな天蓋付きのベッドへ、全員を押し込んだ。
カーテンの開けられた、大きな窓の外から、微かな明かりが室内を照らす他は、これといったものは見当たらない。
ふと、違和感を感じたところで、扉のドアノブが、音を発てて回された。
全員が息をひそめ、出来るだけ小さく身を縮ませる。
「おいたが過ぎますな」
男の声が響いた。
パムルの肩が、びくりと跳ねる。
静かに、キャルがスカートの下に隠している銃に手を掛けた。
「このように明かりを消して、何の真似ですかな?」
室内へ足を踏み入れた男の顔は逆光で見えなかったが、視線はこちらを向いていなかった。
と、いうことは、この部屋に居る別の人物へ向けられた言葉だという事だ。
自分たちが見つかったわけではないのだろうかと、警戒を解かずに息をひそめて様子を探る。何か、先ほどから違和感がある。
男も、同じ違和感を覚えたのだろう。慌てて室内用のランプに、手にしていたランプの灯を移す。
そこでようやく、この部屋に居るはずの人物の気配が、全く無いのだという事に気が付いた。
「しまった!」
大声をあげて、男が窓へ走った。
「くそ!」
外を見やってから何やら悪態をつくと、大急ぎで扉を開け放したまま走り去る。
あっけにとられたのはキャルたちだ。
ベッドの下の狭い空間で、お互いの顔を見やった。
「これは、何というか」
「ま、まず、こっから出ようぜ」
ベッドの下から這い出し、改めて室内を見渡せば、なるほど、自分たち以外は誰もいないではないか。
「逃げた?」
「みたいだね」
「ですね」
そうなると、全員でどっと肩の力が抜けた。
「だーから、言ったじゃねえか。あの賢者だぜ?」
がしがしと頭を乱暴に掻きながら、ギャンガルドが片眉を上げる。
「何よ。だってセインよ?あの足よ?無理でしょ。色々と!」
キャルが頬っぺたを膨らませた。
「さっきの男、あれだろ?執事って奴」
タカが聞けば、パムルがこくりと頷いた。
「彼が我が家の執事、カントです」
「なんか見た事あると思ったら、馬車で一緒だった男じゃないか?」
ギャンガルドが顎に手を当てながら呟く。
「あ!そうだわ!逆光で良く見えなかったけど」
山賊に馬車が襲われた時、他の乗客を背にかばった男の顔を思い出す。
初老の、中肉中背で、いかにもそこらに居そうではあるものの、着ている衣服は上物で、物腰も上品だった。
貴族の執事なんぞしていると言われれば、なるほどと納得がいく。
「しかし、あんな風に正義感のある人間が、人攫いなんぞするもんなんだな」
だからこそ、セインも油断したのだろう。
「とにかく、セインが逃げ出したって言うならまた色々計画が狂うわ。多分、あのホテルに向かっていると思うから、こっちが先にセインを見つけないと」
キャルが部屋を出ようと、毛脚の長い絨毯を一歩踏み締めれば、パムルが首をかしげて窓際を指差した。
「あのう、あれは?」
見れば、カーテンの脇の壁際に、陰に隠れて車椅子がひっくり返っていた。
「セインさんって、歩けるのですか?」
「いや、あの状態じゃ、まだ歩くのは無理だぜ?」
セインの足を診ていたタカが、ごくりと唾を飲み込んだ。
彼の足は動かす事は出来ても、まだ立つのがやっとのはず。ぐるぐるに巻かれた包帯の下の足は、確かに治りが早いとはいえ、最後に包帯を巻き直したときはまだ内出血は引けておらず、赤黒いままだった。
「車椅子も無しに、どこへ行ったって言うのよ?」
キャルの顔から血の気が失せ始めた時だった。
「あれ?」
大きなカーテンの揺れる、大きな窓の外から、金属がこすれるような耳障りな音が聞こえた。
「……っ」
微かに、聞き覚えのあり過ぎる声も聞こえる。
「まさか!」
いち早く気付いたキャルを先頭に、全員で窓際へ駆け寄った。
「あら?」
確かに、声は窓側から聞こえたはずなのに、誰もいない。そういえば、さっきのカントとかいう男も、窓の外を確かめていた。
「ちょっと!どこに居るのよバカセイン!」
キャルが怒鳴った。
「ひどいよ!」
すかさず、小さめながら声が返ってきた。
「ここだよ!もう、凄くしんどいんだけど」
声がしたのは窓の下。
よく見れば、大きな窓にはそれなりに、転落防止用の桟がしつらえてあり、その一番端に、何やら変なものが引っかかっている。
「何これ?」
しげしげと見やれば、何やら壁か柱の一部を無理に抉り出したような物体に、金属の金具が取り付けられており、その金具には、丈夫そうな鎖がこれまた取り付けられていた。
どうも、声はその先から聞こえるようだったので、キャルは背伸びをして覗き込んだ。
見えなかった。
「タカ。持ち上げてくれないかしら?」
身長が足りなかったらしい。
「こんなんで良いか?」
「ありがと」
ひょい、と抱えられたまま、ようやっと覗き込む。
「…分かっててやってるでしょ」
鎖に掴まって、半眼でこちらを見上げるセインが見えた。
「いいよ、もう。自分で上がるつもりだったし」
ぶつくさと口の中で何か不満げに呟きながら、セインが鎖をよじ登る。
足が使えないから、腕だけで登るのは苦労しそうだ。
「うわあ!」
急に引っ張られて、セインは悲鳴を上げつつ慌てて鎖にしがみついた。
「何やってんだ?んなとこで」
犯人はギャンガルドだった。
「あ、ありがとう。でも、もうちょっと穏便にひきあげてくれないか?」
「なんで?」
予告もなく引き上げられて多少驚いたものの、引き上げてくれた事には変わりないので礼を言ったのに。
「うん、いいや。そのへん君だし」
ひとりで妙な納得をした。
「窓の下にぶら下がってるなんて、何やってるのよ」
キャルが、セインの前に仁王立ちになった。
「あー、ごめん?」
「ごめんじゃ済まないのよこのバカセイン!やっぱりあんたなんか引っこ抜くんじゃなかったわ!あたしを心配させるなんて良い度胸じゃないの!帰ったら紅茶!とびっきりの美味しいの淹れさせるから覚悟なさいよ!」
キャルの怒号が飛んだ。
「うん。わかった。ごめんね?」
ごいん
へらりと笑ったセインの頭に、ゲンコツが落ちた。
「痛いよ!」
「痛いようにしてんのよ!」
いつもは届かないセインの頭頂部も、足のせいで床に座り込んでいる今なら手が届く。
早く足を治してしまおうと、セインは心ひそかに決意した。