【短編】失恋すると死んでしまう人魚の末裔の私は、たいてい記憶喪失
懐かしい歌声のような波のさやめきと、瞼から染み込んでくる陽の光とで目を覚まし、その日、私は始まった。
見覚えのない天井、カーテン。首を傾けると、理科教室にあるような大きな作業机の端っこで、よくわからない器材で変な液体をかき混ぜている白衣の男の人の姿が目に入った。
さて。ここは一体どこだろう。あの人は一体誰だろう。そして、そういう私も誰だろう?
「起きたか。そこに説明書があるから読んでおけ」
そんな私の疑問をよそに、その男の人は液体をかき混ぜる手を止めずに、もちろん振り返りもせずにぶっきらぼうにそう告げた。非常にどうでもよさそうだ。不思議なことにその声になんとなく安心して、私はその言葉を口にしてみる。
「あの、私記憶喪失みたいなんですけど」
「ああ。だからそれ、記憶喪失の説明書だから。俺のことは博士と呼べ」
はい?
◇◇◇◇◇◇
説明書は記憶喪失の説明書というより、記憶喪失になった私のための日常生活マニュアルだった。
私の名前は井口奏海。人魚の末裔で、失恋すると死んでしまう。泡にはならないけど、心臓がきゅっと動きを止めてしまうらしい。
で、私はこの度失恋してしまい、人魚の研究者である博士の研究所で、薬をもらって記憶喪失になっていると。恋してたことを忘れちゃえば、失恋無効ってことですね。うわー、私って超迷惑。
「はかせー。私ってすごくめんどくさい人ですねー」
「拾ってやった俺に感謝しろ。しゃべってねーで手を動かせ」
「はーい」
私は、すり鉢で何だかよくわからない鉱物を細かく砕いていた。博士はそれをやっぱりよくわからない機械にかけて、何かデータを取るという作業を延々と繰り返している。
私は、博士の研究所で住み込みのお手伝いしながら、近所のビーチハウスでバイトをして生計を立てているらしい。
「仕事だろ。もう行け」
「はーい」
数日一緒に過ごすうちに、実は面倒見のいいこの博士との生活がとても心地よくなってしまった。
私は、マニュアルに書いてあった仕事先のビーチハウスに向かう。初出勤だ。地図は頭の中に入ってるし、ビーチハウスがどんな仕事をしていたのかも知っている。白い砂浜を持つこの地域には夏も冬も海水浴客やサーファーが多く集まるので、そのための休憩所や食事を提供する施設が必要なのだ。店長には、私が記憶喪失になったことは既に連絡済だという。こんなめんどくさい私を雇ってくれてるなんて、本当にいい人だ。
「奏海ちゃん、また記憶喪失になっちゃったんだって? でも心配しないで働いてよ。体が覚えてるらしくて、前の時も二三日で思い出してくれたから大丈夫だよ。俺、店長の園田。そっち、バイトの下崎。奏海ちゃんの同僚だよ」
「へへー。ご迷惑かけますけどよろしくお願いします」
おおう、既に前科持ちだったのか。説明書なんてものがある時点でそんな気はしてたけどさ。
店長の言った通り、私は仕事もすぐに覚えたのか思い出したのかで普通に働けた。バックヤードで在庫チェックをしていると、同僚の下崎がやって来た。
「ごめんな。お前が記憶喪失になったの俺のせいかもしれない」
そう言って手を伸ばして私の髪に触ってくる。ゾゾっと寒気がして一歩下がってしまう。
「あ、ありがと。でも、そういう記憶全部忘れちゃったからもう平気! 同僚としてよろしくね!」
ないから! 寒気がするような人を好きだったって多分ないから! きっと君の気のせいだよ! ナイスミドルの店長の方がまだ可能性ありそう。
私は誰に失恋したのかはあえて博士に聞かなかった。掘り返すと恐ろしいことになりそうだから。せっかく記憶喪失にしてもらったんだからそんなことには惑わされず、平和に生きていきたい。
私は、研究所の敷地内の離れに一部屋をもらって住んでいる。博士は、研究所の二階に住んでいるけど、たいてい一階の資料室か、薬品が多く並ぶ実験室にいる。血液検査などのために研究所に来ることは多いが、それ以外でも仕事がなくて暇なときは、私はたいてい研究所に入り浸る。だって記憶喪失で知り合いもいないしやることないし。
「はかせー。私、何回記憶失くしてるのー?」
「覚えてねーよ。お前はすぐに惚れやがるからな。もうここはいい。外でまともな奴でもみつけてこい」
実験の手伝いで薬を混ぜながら問いかけると、博士からはそんな回答が返ってくる。原色の赤とか黄色とか黒とか、なんだか毒々しい色の薬は、混ぜるとさらにひどい色になった。
「え? 私そんなにたじょーな女なの? でも、恋して振られてきたら、博士にまた迷惑かけちゃうんじゃない?」
「今度は振られないやつ、好きになってこい」
博士は相変わらずどうでもよさそうな適当な返事を返してくる。ま、他人事だからね。
「ねえ、私って結構美人さんだと思うんだけど、なんでそんなに何回も振られるんだろうー? 惚れっぽくて軽い女だって思われてるってことー?」
博士は、私の軽口にそろそろめんどくさくなったのか、答えなくなってしまった。集中すると聞こえなくなってしまうのはいつものことなので、私はそのまま口をつぐんで手伝いを切り上げた。
浜辺でも散歩しようと研究所の敷地から出たところで下崎に会ってしまった。初日に変な感じになって以来、店長にシフト変えてもらってたのにな。
「おまえ、ここに住んでんのかよ。ここ、マッドサイエンティストが住んでて気味が悪りいって噂の家だろ」
「ちゃんとした研究所だよー。博士は別に気味悪くなんかないよ。愛想ないけど」
大人の対応、と頭の中で唱えて笑って言い返す。博士の事知らないくせに悪口言うな。
「お前さ、この家出たいなら、俺んとこ来いよ」
なんでそんな話になるのかさっぱりわからない。笑顔で拒絶する。
「大丈夫。家出たいと思ってないから。問題ないから」
「無理すんなよ」
下崎はそう言って私の腕をつかむ。私はやっぱり下崎に触られるのがだめで、ぞぞっと寒気がして固まってしまった。
「やっぱり怖いんだろ。可哀そうに」
こちらを見るその視線が気持ち悪い。だから何でそうなるの!! もうやだ!
「奏海! ……お前、何やってる!」
下崎は、道を降りて来た博士に怒鳴られると、舌打ちして去っていった。
「お前はどうして変な奴ばっか引き寄せるんだ」
心外だ。ほんとはちょっと怖かったんだから、お小言よりは優しくしてほしい。
「はかせー、めんどーかけてごめんねー」
だから私は、笑ってごまかしながら、博士の腕にそっと自分から腕を絡めてみた。そこから伝わる温かい感触は、安心に形を変えて私の体に染み渡っていった。
◇◇◇◇◇◇
さて困った。離れの自分の部屋を掃除していたら、日記を見つけてしまった。すごいな私。月に一度大掃除をする習慣になっていて、そのタイミングでしか見つからない場所に日記が隠してあるとは! そこには、私が一生懸命見ないふりをしていた、過去の恋の記録が赤裸々に語られていた。恥ずかしい……。その数なんと8回。そして、そのお相手は予想通り「全て」「博士」だった。そんな気はしてた。だって私、今回ももう、好きになっちゃってたもん。なんで、って思うくらい簡単に落ちてしまっていた。博士の横顔とか、声とか、仕草とかにひきつけられて目が離せなくて、ちょっと優しくしてもらったらころんと落ちていた。ちょろすぎじゃない? 私。このノートの隠し場所を見つけられなかった私もいるだろうから、本当はもっと多いのかもしれない。好きになったのは博士だけだという自分に、一途じゃんってちょっと安心もしたけど、その度に振られているという事実に結構えぐられた。どれだけ見込みがないんだろう。博士も迷惑してるはずだ。そりゃ、外に出て恋でも探してこいって言いたくなるよね。
でも、この日記はすごい。私が、毎回そんな風に落ち込むことまで想定済。そして、あきらめちゃえ、とまで書いてある。あ、あきらめちゃえ、は「他の人」を好きになるのはあきらめちゃえってことね。そんな無駄な時間を費やすなら、博士を落とすことに全力を注ぎなさいだって。少しずつ博士に気づかれないように、絆して、甘えさせて、心の隙間に入り込んで博士を落としてしまいなさいって書いてある。すごーい。私ってなんて前向き。ポジティブモンスター。非常に頼もしい。この日記に出会って、初めて自分が好きになれたかも。博士を落とすための作戦として、朝夕の挨拶から、起床の手伝い、食事、デート、スキンシップなど、もうこれでもかってぐらいやりたいこと一覧が書いてあって、感触がよかったものとか、悪かったものとかが記録してある。くー、頼りになる! 私も早速、今の心境とか心意気とか、やりたいこと一覧の追加なども日記帳に書きこんで、隠し場所にそっとしまう。
しょっちゅう失恋ばっかりしている私は、その度に薬を飲んでいてたいてい記憶喪失なのだろう。不安をあまり感じないのは、記憶喪失で博士の側にいるこの状態がきっと私の定常運転だから。やっと腑に落ちた感じだ。
この記憶喪失も未来につながる足がかりだと思ったら、そんなに悪くもない。失恋日記という大いなる味方も得たことだし、明日からは博士と仲良くなるように色々活動を始めよう!
そんなこんなで、色々チャレンジをしてみました。断られたり、うまくいったり結果は色々。今日は、朝一に起こしに行って散歩のお誘いをしたけど、すげなく断られました。先週は成功したのになあ。まあ、博士の寝顔が見られたからいいか。メガネをかけたまま寝ちゃってるのは子供みたいでちょっと可愛かった。
私はせっかく早起きしたので、一人で散歩に出ることにした。海辺の松林を抜けて、かみつくような波の音がうるさい岩場の方へ降りてみる。この辺りは、サーフスポットとも離れていて誰も来ない。泳いでみようかなあ。ちょっと人魚の血がうずくかも。
『……くすくす。ねえ、ねえったら』
誰かに呼ばれた様な気がしてきょろきょろと見回すと、5mほど先の岩場の影に大きな魚のしっぽが見えた。岩に弾ける波の音にばちゃんと水面を叩く大きな音が重なって、ひときわ大きな波しぶきがキラキラと飛び散ると、岩の上にはきれいな女の人が座っていた。
人魚だった。
『あなた、あの子の娘ね。陸に上がった私たちの哀しくて愛しい血族の娘』
ガラスを石でひっかくような、多分人が聞き取れない波長の声だろうけれど、私にはわかった。
「お母さんを知ってるの?」
私は、岩場へと近づいた。(多分)初めて見る人魚だが不思議と怖い感じはしない。優しい目だ。
『恋をしてるのね。ぐずぐずに溶けちゃわないうちに、早く食べちゃいなさい』
えっと、それはそういう意味でしょうか? 思わず赤くなる私に、人魚は重ねて告げる。
『ちゃあんとあったかい心臓を引っ張り出して食べるのよ。そうすれば、奪われた心はあなたの中に戻ってくるわ』
冷たい氷の塊を押しあてられたようにキンッと心が冷える。それが言葉通りの意味だと、私は本能的に理解してしまった。人魚は変わらず優しい目だ。ああ、残酷なことを言っている自覚はないんだ。「人魚」にとってこれは「普通」の事。
「奏海!」
博士の声が慌てた足音と共に林の奥から聞こえてきた。
『お母さんと同じ失敗をしちゃだめよ。食べちゃうのよ。一緒に海に帰るなら、迎えに来てあげる』
人魚は、するりと私の頬をなでると現れた時とは違って波の間に吸い込まれるように消えて行った。
「奏海! よかった。連れていかれたかと思った」
博士の慌てた顔やら走る姿やらはとても貴重だったはずなんだけど、私はその時人魚に言われたことを飲み込むことができず、しばらく呆然としていた。
◇◇◇◇◇◇
赤い血を滴らせて浅く脈打つそれを、私は両の手の平の上に捧げ持っていた。それはグロテスクな肉の塊なのに、この世の物とは思えないぐらい美しくて、甘美な芳香を放っていた。ぺろりと舐めると、その濃厚な血の味がワインのように私を酔わせていく。色と、匂いと、味と、手の平の感触と、全てが強烈に私の精神を支配していく。これを、口に含んで、噛み千切って、咀嚼して飲み込んで消化して私の血肉にして……そんな想像が私の心を侵食していく。うっとりとそんな幻想に身を委ねて、それを齧ろうとわずかに下を向くと、事切れたその人の姿が視界に入った。
「きゃあああ!」
私はきしむ心臓を押さえて、起き上がった。闇の中うっすらと浮かび上がる家具で、ここが離れの自分の部屋だとわかった。
『ちゃあんとあったかい心臓を引っ張り出して食べるのよ』
人魚のセリフが、頭の中でぐるぐる回る。食べられるわけないじゃん、何言ってんだか。昨夜は落ち着きを取り戻して、笑いながらそう思って眠った。でも夢の中の私はたやすくそんな理性の縛りを超えてくる。私は人魚の末裔。人魚の本質は、ちゃんと私の中で生きている。悲しいくらい残酷に。
『お母さんと同じ失敗をしちゃだめよ』
お母さんは、この誘惑に打ち勝ったんだろう。でも、私は? 夢に見るぐらいにぐらぐらと揺さぶられている。
博士は人魚の研究者だ。きっとこの事実を知っているのだろう。お母さんのことも。でも、私に伝えはしなかった。あはは、そりゃそうだよね。食べられたくないもんね。動物園の猛獣と一緒だ。変に刺激して、野生の味を教えたくない。「研究対象」は、そばに置いて飼い殺しておくのがいいのだ。
あーあ。もう一つ嫌なことにも気づいちゃった。博士は私がいつもどうしようもなく博士を好きになってしまうことをすでにあきらめていたのかもしれない。そして、私の気を人魚の本能から逸らすために、あえてあの日記をあそこに置いたままにしておいたのかもしれない。一月に一度の大掃除って、博士が最初にくれた記憶喪失の説明書に書いてあったもん。日記帳が見つかるのは、ある意味必然だった。あの日記帳は、私が追いつめられてとんでもないことをしでかさないよう意識を逸らすのに、とても役にたっていたと思う。毎日博士と積み重ねるちょっとした恋の階段は小さな達成感となっていて、私はとても満足していた。博士に嫌がっている素振りはなかった。毎回失恋させるのに、応えるつもりなんかないのに、私が恋心を膨らませていくのを拒否しない。獣の本能を刺激させないよう、恋に飢えさせないようけれでも与えすぎないよう、確かに、昨日まではバランスがとれていた。
心臓が痛い。さっきから、心臓が変な音を立てている。
ああ、博士がそんな腹黒くて残酷な人かも、って思いながらも私は、博士が好きなことをやめられない。だから、博士の裏切りから受けるショックよりも、研究対象の自分と博士が結ばれる可能性がないことの方が、この心臓に痛みをもたらしている。
博士、苦しいよ。繰り返した過去の恋が私を押しつぶす。決して報われない恋に、そろそろ心臓がもたなくなりそう。
もう、あの日記は隠し場所にしまい込んだまま、開く気にもなれなかった。
それから数日は、痛みを隠したままどうにかビーチハウスにバイトに出た。サーファーの皆さんをロッカーへ案内したり、レンタル備品の貸し出しをしたり、お昼どきにはレストランのウェイトレスをしたり。店長は私の顔色が悪いことに気が付いて色々気づかってくれたけれど、私は大丈夫で押し通した。
その日はいい波が来ていたらしく人が多くて忙しかった。お昼に混むのが目に見えていて、店長が私にごめんねと謝ってヘルプのために下崎を呼んだ。
「なあ、つらいんだろ?」
仕事が忙しいから、下崎も私に直接絡んでくる余裕なんかないと思ってたが甘かった。お客さんがちょっと途切れてバックヤードに食材を取りに行った所を下崎が追いかけてくる。
「前の時も似たような感じだったもんな。店長は言わないけど、お前自殺未遂でもして記憶失くしたんだろ? その相手、あの時の、あいつなんだろ」
手が止まってしまった。気づかれた。私の馬鹿!
「でも、うまくいってないからまたお前おかしくなってるんだろ? 慰めが欲しいんだろ? 他の男でもいいんじゃないか?」
舌なめずりするようなねばりつくような口調が気持ち悪い。でも、下崎の一言が、ぎりぎり保っていた私の心の琴線に触れてしまった。
「あいつの代わりに慰めてやるよ。俺んち、来いよ」
他の男、代わり。代わりの、他の男の、心臓。代替品の、でも、心臓。赤い、滾るような熱と、滴る血、馨しき香気で私を酔わせる、その胸に埋まった、ただの、ただの肉塊。
体の奥底からの衝動を押し殺すために、私は両手で体を抱きしめてしゃがみ込んだ。
『ああー!!』
「なんだよ! 変な声出して。おい、大丈夫か?……ひっ」
下崎が何を見たのかはわからないが、小さく、化け物っと叫んで飛び出していった。
「はは、は」
そうだ。私は人の殻を被った化け物。こんな私を博士の側にはおいておけない。失恋して、今度こそ死んでしまうべきなのだ。
◇◇◇◇◇◇
それから数日、痛みを隠してお仕事を続けた私はそろそろ限界を悟った。夜の静寂は心臓の痛みを加速する。私は痛みに耐えられなくて夜中に博士のいる研究所にやってきた。驚くことに博士は、こんな夜更けなのにまだ実験室で仕事中だった。
「はかせー。私、もうだめかも」
博士の姿を見て、安心したのと同時においしそうと思ってしまった私は、もう、壊れている。自分が怖い。死んじゃいたい。博士の姿を見ると痛みがどんどんひどくなって、立ってられなくなった私は、実験室の扉に肩をつけてずるずると床に座り込んだ。
「お前、また俺に惚れやがったのかよ」
博士は急いで近づいてきてしゃがみ込み、ちょっと困ったような痛ましいいものを見るような笑みを浮かべた。これは愛ではないだろう。研究対象の私に向けてくれた、ほんの少しの情と優しさ。でも、返されたそれを勝手に好意に変換して、私の心臓は痛みが少し和らいだ。浅ましい私の心臓。
「うん。ごめんなさい。何度も好きになってごめんなさい。でもはかせが好き」
「どうしたい?」
おいしそう。ああ、そんなことを考える自分に絶望が深くなる。
「記憶喪失はもう嫌なの。だから、もう、死んじゃいたいの」
あれからずっと考えてた。何度も繰り返す記憶喪失。終わりのない連鎖。決して愛されることのない呪いのような繰り返し。
あの日記帳。冷静になって読み直してみたらわかった。記憶喪失の回を重ねるとごとに、おかしくなっている。だんだん、博士を盲目的に愛する狂った文章になっていた。記憶をなくすほどの強い薬を私は何回飲んだんだろう。人魚に会って、本能に目覚めてしまった私は、きっと遠くないうちに狂って博士の胸に腕を突き立ててしまうだろう。それだけはいやだった。もう、この呪いから自分を解放してあげよう。残された選択肢は、死ぬことしかなかった。
「死んで逃げんな。心臓が欲しいんならやるぞ。それで終わりにするのも、ありだ」
私は息をのむ。博士がそのことを口にすることはないと思っていたから。死にたくないから教えてくれないんじゃなかったの? 隠してたんじゃないの?
「お前は、俺の心臓で自由になれる。自由に生きていける。俺が死んでも、お前が罪に問われないように全部手配してある。お前が本当に欲しいんなら、やる。奏海が欲しいなら全部」
なんで博士がそんなこというのかわからない。だから、ずっと考えてた私の気持ちだけを伝える。
「ううん、いらない。食べたくない。でも、間違って食べちゃうと嫌だから、私が死んで終わりにしたい。博士も怖いでしょ。自分を食べちゃうかもしれない化け物が側にいるんだよ。博士を怖がらせたくないの。早く死んじゃいたい。だって、私、だんだんおかしくなってる。記憶喪失はもういや」
「別に、怖くねーよ。お前が欲しいならいつでもやるって言ったろ」
博士は、私の頭をなでた。また、心臓の痛みが和らいでくる。
「お前のしたくないことは分かった。じゃあ、お前のしたいことは何だ? 欲しいものはなんだ? 死にたいだけじゃねえだろ?」
博士はいつの間にか床に転がっていた私を抱き上げていた。
早く終わらせてくれればいいのにと思いながら気づいた。ああ、そっか。これは儀式だ。きっと、言わないと終わらないんだ。
「はかせ、私、告白するから優しく振ってね。死んだらかいぼーしていいよ。役に立ててね」
一番欲しいものは、Yesの答えだ。でも、そんなものを口に出すほど、私も落ちぶれてはいない。
「博士。私は博士が好き。人魚の告白に、答えを頂戴」
答えと心臓がはじける瞬間を待って、私は目をつぶる。すると、唇に温かいものが静かに触れて、そっと離れた。
「ああ、俺もずっと好きだった。だから、奏海の失恋はもう終わりだ。待たせたな」
私の心臓は弾けなくて。
とくん、と、この時初めて、次へとつながる時を刻み始めた。
◇◇◇◇◇◇
「お前の父親と母親の話だ」
博士は、別の意味で落ち着かない心臓を抱えた私の手を引いて、夜の浜辺まで連れて来た。夜の張り詰めた空気は、いつも以上に潮騒を響かせる。
「お前は、俺の恩師と人魚の末裔の女性との間にできた娘だ。先生は事故で妻と娘を残して死んでしまった。そして、お前の母親の心臓もそれに耐えきれなくて亡くなってしまった。小さな娘を残して」
私たちは、浜辺に二人で座りながら波を見つめていた。初めて聞く両親の話が死の話なのは悲しいけれど、私は記憶がないせいであまり実感がわかない。でも博士の顔は、今まで見たこともないくらい苦痛に歪んでいた。
「お前の母親は、お前をとても大事にしていた。でも、愛した夫の心臓を食べることはとうとうできなかったんだ。先生の妻も死に、残された娘は母親を奪われた。俺は後悔した。側にいたのに、何一つ救えなかった自分が不甲斐なかった。だから、同じことを繰り返さないために、先生の研究を引き継いで人魚を幸せにする薬を作ることにした。奏海。お前が将来恋をして、誰かと一緒になって子供を持った時に、その子供がお前のように母親を亡くすことがないように、そんな薬を作りたかったんだ」
博士は、遠い目をして波の向こうを見つめてた。
「薬は二つ、作ってたんだ。一つ目は記憶喪失の薬だった。これができた頃、奏海が初めて俺を好きになった。だけど俺は、一回りも年が離れてるしお前を幸せにする自信もなかったから、迷わず記憶喪失の薬を飲ませた。奏海を他の誰かに託すために。でも、お前は何回繰り返しても俺に惚れやがる。根負けだ。だから、二つ目の薬ができたら、お前を受け入れると決めていた」
「薬、できたの?」
「ああ、さっきな。人魚は脳の作りが特殊で、扁桃体からの神経伝達が心臓に直結してる。その特定のシナプスを恒常的に遮断できる薬――つまり、人魚が失恋しても死ななくなる薬が、さっき、できた」
博士は、ポケットから、小さな薬瓶を取り出した。
「飲んで」
私は、その薬を飲み干した。甘くて、苦い、長い、長い時間と想いが込められた優しい薬。
「これで、これで、もう大丈夫だ。お前は、俺に何かあっても絶対死なない」
そうつぶやく博士の声には嗚咽が混じっていた。
「ずっと謝りたかった。俺はお前の中から、父親と母親の存在を消してしまった。本当にすまない」
そっか。博士は何も知らない私の分の記憶と罪まで、今まで全部背負って生きて来たんだ。
「許さないよ、はかせ。一生許さないからその代わり、はかせが私に父さんと母さんのことをいっぱい教えるんだよー」
私は、博士の貴重な泣き顔を楽しむべく、博士の顔を覆っていた手を無理矢理はがして、無理矢理にキスをした。
博士は一年に一度、結婚記念日に私にこの薬を飲ませる。神経回路は再生してしまうので、毎年薬を飲み続ける必要がある。
でも、子供が大きくなって独り立ちした今、博士は私がこの薬の中身をすり替えていることを知らない。
毎年結婚記念日に、私はあの日記帳を開く。
博士の知らない、大事な私の、恋の記録。
集英社 短編小説新人賞に数か月ほど前に応募した作品です。
「もう一歩の作品」でした。
賞に応募して、初めて名前がのりました。ちょっと嬉しい。
お気に召していただけましたら、↓の★をぽちぽちっとしていただけますと嬉しいです。