第三話 絶対等級でならべてみせて
日華に手を引かれ連れられた一室は、重々しい空気に満ちていた。人が四人ほど横たわれそうな大きいベッドには何重にも薄いヴェールがかけられていて、種を覆い隠す果実のように誰かを守っているようにも見える。扉の前までは錦や晦日、銀爾も付いてきていたのに、入室したのは青子と日華のふたりだけだった。柔らかな布の奥で誰かと言葉を交わしていた少年が、薄い守りの内側から青子を捉える。見てはいけないものを見たような気がして――けれども逸らすには遅すぎて、青子はみっともなく弱弱しい視線を向けることしかできない。少年の批難めいた双眸が日華を捉える。燃え盛る様に、翳るみたいに。揺らいで、でも離れない。蜘蛛の糸で作られているような薄く繊細な隠しで覆われていなければ、彼は視線だけでふたりを殺せたかもしれない。それ程までに切羽詰まった難詰が、彼の紅玉を満たしていた。
「――無礼ですよ」
「すまない。急いでいた。青星は?」
その問いに彼は答えなかった。代わりに、衣が擦れる音と共に、ヴェールの向こう側で誰かが動く。すぐに少年が手を貸して、“その人”は何重ものベールをまとめてくぐる。
青子は初め、天女が現れたのかと錯覚した。
波打つ青い髪は海の色よりも美しく深い。やつれた頬と、痩せた体躯は彼女の不調をはっきりとあらわしていたけれど、小さな顔に浮かんだふたつの真白は月明かりに照らされた新雪よりも神秘的に、力強く光っていた。聡明さをたずさえた微笑を向けられて、青子は咄嗟に頭を下げる。少年の彼女への態度や、部屋に置かれた高級そうな家具で判断しているわけではない。この人は、人の上に立つ高貴なお人だと、反射的にそう思ったからだ。
「顔を上げて。天野青子さん」
何もかも分かっている、何もかも受け入れるような柔和な声が青子を撫でた。顔を上げるなんて恐れ多い。そう思うのに、やはりこの声には、彼女には逆らえない。逆らうなんて“考えられない”。思うほどに青子の心は揺らぐ。揺れるのではなく、揺らぐ。ゆらゆらと、震える。
どんな顔で彼女を見つめればいいのか分からない。けれども、彼女に求められた以上、青子には顔を上げる以外の選択肢はなかった。ゆるゆると視線を寄り道させながら顔をあげる。天女の横には、銀爾よりも、錦よりも鋭く、熱した鉄のような瞳で此方を睨みつける少年が立っている。少し開いて此方に向けられたつま先でさえ、青子と――そして日華を拒絶するようだった。その真意は測りかねる。否、本当は知りたかったけれど、出来なかった。そんな余裕は青子のどこにもなかった。
「驚かせてしまったね。可愛そうに。――その様子だと、こなたらは誰も彼女に説明してあげなかったようだ」
あくまで“困った”と言った様子で呟く彼女に、最もこの場で幼い日華は、棒立ちで腕を組んだまま応対する。その横柄とも大胆とも捉えられる姿勢を青星は咎めない。彼女の性格なのか、それとも日華の人柄なのか、出会ったばかりの青子には分からなかったけれど、
「説明の時間は無いと判断した」
「日華!」
掴みかからんばかりに一歩を踏み出した少年を、青星、と呼ばれた女性が制する。雲色の瞳が少年の灼熱と交わった時、彼の苛烈な目は甘やかな夕焼け色へ変容した。色彩は変わらぬはずなのに、向けられる相手が誰かによって此処まで変わるものなのか、と青子はひそかに感動する。
「青星様、俺は……」
「分かっているよ、流火。君が僕を……心から想ってくれているのは。けれど、日華の言う通りだ」
苦しみと悲哀に染まった流火少年の頬を、優しく青星が包む。その様子を興味なさげに――否、無感動に眺めている日華を見て、青子は違和感を覚える。日華が、彼らのことを好きじゃないから事も無げにしているのではなく、そうするのが普通だからそうしているように見えたからだ。
青星が振り返る。青子と再び視線が絡んだ。
「青子。僕は名を青星と言う。君を此処に誘ったのは天の御導きだけれど、それとは別に……僕は青子を待ちわびていた」
「あなたが、私を……」
それは、どうして。
問いかける間もなく青星が「まあ、掛けておくれ」とソファへ座るよう青子たちを促す。無言で腰かける日華の横へ青子が収まると、向かいに青星が座った。流火は彼女の傍らに佇んだまま、静かに俯いている。
「青子。――何も分からず、何も知らない君に、今から僕は酷なことを強いる」
「え……」
「僕はもう間もなく死ぬ」
流火の肩が震える。日華はやはり、なんとでもないかのように頬杖をついて青星を眺めていた。青星の乾いた唇を見つめながら、青子は口ごもる。ひどくやつれている、とは思っていた。けれどもそこまでだなんて――。出会ったばかりの青子に掛けられる言葉は何もないと分かっていても尚、人の死は哀しい。やるせない、と思ってしまう。その偽善を抑え込むように俯きかける青子に、青星は柔らかく微笑んだ。
「なに、僕はもう永く生きた。贅沢なほどに“生き永らえて”きたんだ。悲しみに暮れる必要はない」
「随分傲慢な言い様だな、青星」
日華が呟く。言葉の鋭さとは裏腹に、彼の言葉にはやはり、怒りも悲しみも無い。
「始祖妖に人の心は分からんか」
「先ほどから言葉が過ぎる。日 日華。これ以上青星様を愚弄するなら……!」
「流火」と青星が再度制する。けれども彼は止まらなかった。日華の――すべてを断じるような金色の刃がすらりと流火に向けられたからだ。
「愚弄するならなんだ、流れ者の火の粉」
それは嘲りとも糾弾とも性質が異なる言葉の剣だった。傷つける為に存在しない、けれども相手を傷つけることしかできない言葉の剣。暴力という冷たいひかりだ。向けられた相手は自分ではないのに、青子は委縮してしまう。傍に居るだけの青子が“こう”なのに、一体流火は――そう心配したけれど、彼の紅玉を見てすぐに、すべてが杞憂であったと考えを改めた。冷たいひかりを打ち消すほどの猛烈な怒りが、流火を包んでいたからだ。
「人でありながら人の心を持たない貴様に、青星様を悪し様に言う資格など無い」
吐き捨てるような言葉を向けられても尚、日華はまったく気にしていないようだった。先ほどまで向けていた剣を容易く手離して、形だけの笑みを流火ではなく青星に向けて見せる。一見“おとな”に見えるその態度は青子を困惑させる。
違う。日華はおとななんじゃなくて。
先ほどの流火の言葉がリフレインする。人でありながら、人の心を持たない。本当に――日華には。
考えてからすぐにその考えを打ち消す。青子は日華のことを何一つ知らない。知らないのに、こんなふうに思うなんて失礼だ。青子には関係のないことなのだから。そう思うのに――初めて青子に願いを口にしたこの少年の歪が、気になって仕方ない。
「つまり、俺とお前は同じ穴のなんとやら、らしいが」
「ぞっとしないよ、日華。でもそうだな、君はいつか……僕よりずっと、人になれると思うけどね」
「俺は元々人だ」
そうでした、と笑って青星が流火の手を握った。流火は少しだけ傷ついた顔をして、押し黙る。見ていられなくて、青子は思わず「あの」と話を切り出した。
一瞬で、流火の表情が外行きのそれにかわる。青星を見ていた横顔が青子に心ごと向いたのを確認して、青子は続けた。
「あ、青星様が……その、私に強いること、というのは……」
もっとはっきり言いたかったのに、言葉が詰まる。一歩歩くたびに、足元から壁が出現して、立ち止まるみたいに、刻まれた言葉が口から飛び出していく。けれども、黙っているよりは多分よかったと思う。
――オマエ、黙ってれば誰かが全部説明してくれて、助けてくれるとでも思ってんのか?
もう、あんなふうに思われたくなかったから。
「ああ、悪かったね。青子」
青星が居住まいを正す。白い衣が花びらのように寄れて、波打ち、艶やかな青い髪が映える。
「君には僕の代わりになってもらいたいんだ」
え、と喉の奥の方で、疑問が花開く。想像しなかった答えを種に、予想しない花を咲かせていく。一瞬の芽吹きに、またたきの唐突に、青子は再び混乱の中へ落ちる。今日もう何度、こうして口を開き戸惑ったことだろう。けれどもその中でもとびきり、理解に苦しむ答えだった。
「君には、この国――四雲国が生まれ出ずしその時から生きる始祖妖、青星の代わりになってもらいたい」
「え、あの、すみません、ちょっと、待ってくださ――」
「僕は永く生きすぎた。そのくせ、召される時を読み間違えてしまったんだ。……今この時、僕が死すれば、この国の“人間”に勝利無し。僕の先見の才がそう告げる。神から与えられた僕の祝詞が断ずる。故に青子、僕の代わりに青星となり、君が未来を導いてほしい」
「私は、ただの……、いや、あの……そうじゃなくて、とにかく私はそんな……」
できっこない。この人の、このお方の代わりになるだなんて。無理。出来ない。できっこない。烏滸がましい、甚だしい、お門違いだ、しらじらしい、みっともない、有り得ない、不可能だ、無理、やれない――無理に、決まってる。
たとえ。
「お願いだ、天野青子。僕の異能にも劣らない才を持つ君にしか頼めない。頼まれて、くれないか?」
こんなに、縋るような、泣きそうな顔で頼まれたとしても私には……私は。
先ほどまでの柔らかな笑みはどこにもなく、青星の青白い顔には悲痛とも祈りとも捉えられる希求があった。
どうして、と思う。
どうして、日華も青星も――あの子も。青子に。青子なんかに、求めてくれるんだ。青子は、与えられるなにかなんて何一つ持っていない、無力で無知で無価値の「私」でしかないのに、どうして。どうして。
目を逸らして、目を瞑ってしまいたいのにできない。
青星の、朝、部屋に差し込む痛いほどの白光に似た瞳が青子を逃がさない。青子にしか頼めないのだと言った日華の甘言が、心を包んで離さない。本当に出来ないことはすぐに断れるくせに。たやすくごめんなさいとあやまれる癖に、出来ないと、できっこないと本当に思っているのに青子は、青星の切実な願いを退けられるほどの言葉を持たない。
青星が手を差し伸べる。
青子は――弱い。
無力で、何一つ、至らない。
だからいつだって、伸ばされた手を取ってしまう。それが、青子を求める指先ならば無条件に。青子に拒否権がないようなものであればあるほど、それは呪いのような甘さを持って青子を引きつける。青子の持つ傲慢よりずっと煮詰められた驕傲を前にすると、青子はどうしたって、その手のために何ができるかを考えてしまう。強い想いの前に、青子は流されてしまう。
そう、今思えば流されたんだと思う。
ほだされたのだと思う。この夢のような、あり得ない状況下で判断が鈍ったのではなくて。青子は流された。青星の、流火の、日華の、晦日の……それぞれの想いの激流に巻き込まれて、思わずこたえてしまった。答えて、応えて、しまったのだ。
「……なにを、どう、したら」
私は、何をすれば。
そう答えた青子の瞳が白と交わる。この世界の名の一部を占める雲の色が、青子の瞳に重なって重なって、包み込んでいく。
「――ありがとう、青子。……では、あとは任せたよ。赤星」
「はい」
赤星と呼ばれた流火が頭を下げるのと、青星が青子の手を離すのは同時だった。
そうしてあっという間に、青星は青子の前から姿を消した。
残ったのは青星の色彩に染まった天野青子と、俯いたままの流火。ソファに腰掛けたまま、表情を変えない日華のみ。
星が。
星が瞬く。
月がくらむ。
太陽がかがやく。
爾うして天の野へ
青の意志を引継ぐ子
錦を纏って流れゆく時
四雲の詩篇がうたわれる。
2022/03/06 執筆