番外 渦を巻く王さまの可否
「――なんでそんなこと言うんだよ!」
掠れた声が勢いよく喉から空気へと押し出されて、酷く不格好なノイズとなって鼓膜を震わせる。すべてが不愉快だった。自分がつよく苛立っているという事実に、1秒ごとに疲弊して動けなくなりそうだった。怒るのは嫌いだ。悲しむのも、乱されるのも好きじゃない。いつだって穏やかな、さざ波のような自分で居たかった。例え誰かを好きになるという、潮風のような変革が訪れたとしたって、渡 惺平は変わらない自分で居ようと努めていたし、事実今この瞬間までたしかに"そういう自分"を保てていた。
「だってあの女、渡が真剣に言ってんのに、何様のつもりだよ!」
「断るのは天野の自由だ」
「違う!」
普段声を荒げたりしない渡の怒りは、彼よりもずっと激しやすい友人の心に火を灯す。それは連鎖的に他の同級生にも広がり、それぞれの表情を険しくさせた。
「あの女、ごめんっていったんだぞ」
「断りの文句だろう。他になんて言えば正解なんだ、左奈田」
左奈田たちの横を通り過ぎて、階段を降りる。早く帰りたかった。一刻も早く"いつもの自分"に戻りたいのに、普段通りの渡 惺平が見つからない。己が今どんな人間として友人たちの目に映っているのか気にする余裕もない。ならばいっそ誰の目にも入りたくなかった。
「なんだよ、ごめんって。気持ちに応えられなくてごめんか? 好きになれなくてごめん? 思わせぶりでごめん? 謝ればいいと思ってんだろ。なめんなよ。ふざけんな……何様だ!」
「左奈田。天野を悪く言わないでほしい」
「なんで怒んないんだよ! ショウ!」
無視して階段を降り続ける渡の腕を、左奈田が引っ張る。あまりにも強い力で後ろに引っ張られたが、とっさに振り払った。よろけた左奈田が階段に尻もちをつく。いつもなら多分、ごめんと謝った。大丈夫かと手を差し伸べた。けれど今の渡に、その余裕は無かった。緑色の塗装が施された階段に背中を打ち付けた左奈田は「いってぇな」と舌打ちをして、渡を睨む。大きな窓硝子を背にした渡の背中を、夕焼けが照らしている。左奈田を覆うような自分の影さえも嫌だった。自分が、冷ややかな顔で左奈田を見下ろしているのが分かる。鏡などなくたって。
「意地はって格好つけんなよ! クソダセぇな!」
それでも尚、怯まずに吠える左奈田の真っ直ぐさが腹立たしかった。天野を傲慢だと謗るその口で、渡のこともダサいと断言してみせる。ただただ素直に、天野にも渡にも、言葉を投げつける。左奈田は自分らしく在れる方法を良く知っているのだ。飾らぬ自我で、てらいのない態度で接してみせる。「ごめん」と逃げた天野を許さず、彼女を悪く言うなと窘める渡の逃げも許さない。自分勝手な激情を、そのまま晒してぶつかれる。無理にでも、穏やかな波に隠した淀みを引っ張り上げようとする。
渡は左奈田の、そういうところが嫌いだった。
「――お前に何がわかるんだよ」
憎しみの籠もった声は、左奈田を沈黙させた。
「そもそも、俺は付いてきてほしいなんてお前らに頼んだか? 見世物にしてたくせに――ひとりで来てくれた天野を晒しモノにしたくせに、関係ない奴は黙ってろよ。迷惑だ。何様だ、はこっちのセリフだよ」
一番言いたくない言葉を口にしたら、二番目に言いたくなかったことも、三番目に口にしたくなかった感情も、全部するりと出て行った。みんなが息を呑んでいるのが分かる。此方を睨みつけていた左奈田の目が、揺れた。彼の瞳を見続けていた渡にしかわからないほど些細なゆれが、渡の心を強く乱す。やってしまった、と思った。
今度こそ大急ぎで階段を降りた。わたり、と誰かが彼の名を呼んだけれど、振り返らなかった。否、振り返ることができなかった。とうになくなっていた余裕は既に、跡形もなく瓦解していた。
「同じクラスに、同中の人が居てよかった。不安だったから」
高校の入学式で隣になった天野の表情は言葉に反して緊張していた。渡は、新品のセーラー服に身を包んだ彼女を見て、見慣れないなという感想だけを抱いた。中学の頃、何度か同じクラスになって、あいさつを交わす程度には交流があった。それを交流と呼んでいいかは微妙だけど、中学の時は不必要なくらいに男女のあいだに"さかいめ"のようなものがあって、言葉を交わさない相手と雑談をする相手では全然、違った。何がと言われると、上手く表現できない。多分、これは渡の場合だが――言葉を交わさない相手――交わせない相手の方が、恋愛対象として意識していたのだと思う。気恥ずかしくて気まずくて、視線が触れ合うだけで嫌悪に似た拒絶感が首元をぞわぞわさせる。その微妙な苦しみが嫌で、恋愛の類からは距離を置いていた。「クラスの女子だったら、誰が一番すき?」のような不躾な会話も、下品だとは思うけど、聞いている分にはどうでもよかったし、ただ集団の中で笑っているだけでも許される存在だったから、誤魔化してやりくりしてきた。
天野も、同じようにやりくりしている女子に見えた。教室中に響き渡るほど大きな声で繰り広げられる恋愛話を、天野はいつも笑って聞いていた。決まってそういう時、彼女は熱心に弁当のおかずを食べるか、飴玉を食べて、長い言葉を話せないようにしていた、とも思う。それは、渡の考えすぎだったかもしれない。けれど、彼はそう思っていた。
「よろしくね」
漠然と――似ているのかもしれない、と思いながら渡は「よろしく」とだけ言葉を返した。緊張せずにすむ相手というのは、彼にとって心地よい存在だった。強張ったり、乱されたり、らしからぬ言葉を紡ぐのは苦痛だ。誰にとっても――そして自分にとっても、変わらない自分でありたいと思っている渡にとって天野は話しかけやすい存在だったし、次第に自分らしく居られる相手になっていった。
だから渡は、まさか自分が天野に恋をするだなんて思っていなかった。正直、今もどこかで疑っている。これが恋なのか、という疑問が常に心を引っ掻く。でも渡は天野のことをもっと知りたかったし、一緒に居たいと感じていた。たくさんの言葉を交わし、自分の抱く心地よさと言う好意を、天野も抱いてくれていたら嬉しいと思うようになった。ドラマ的な燃え上がるような想いではないけれど、それは確かに恋なのだと、納得できる熱情があった。自覚してから、以前のように話すことは難しくなったけれど、彼女に対してだけ、自分らしからぬ緊張と想いの乱れを感じても、嫌だと思わなかった。その苦しみを跳ねのけてでも、話したいと思えた。普段あまり積極的じゃない自分がそんな風に思えるのは新鮮だったし、初めて秘密を打ち明けた親友は「お前、バレてないと思ってたのか?」と呆れていたけれど、まあそれもよし、と笑えた。
天野が同じように思ってくれたら嬉しい。でも、そうでなくても、しょうがない。
そう思っていたはずだったけれど「ごめん」と言われた時、上手く笑えなかった。笑う必要は無かっただろう。でも、笑えても良かった。気にしないで欲しいと、これからも友達でいてほしいと、言うつもりだった。何度もシミュレーションしてきたはずなのに、「ごめん」の一言で、突然現れた悲しみの波にのまれて、心がかたまってしまった。そのせいで、最も不適切な問いを天野にぶつけて、彼女を困らせた。
「……誰か、他に好きな人いるの?」
言ってしまってから、言わなければよかったと思った。彼女は、やりすごすときの表情を浮かべそこなっていた。ここにはお弁当も、飴玉もない。購買のパンも、ペットボトルの紅茶だってない。やりすごすための物が存在しない場所に、彼女を放り投げてしまった。誰でもなく自分がそれをやってしまったのが申し訳なくて、声を出す余裕を奪われた彼女が強張った表情で首を横に振るのを呆然と眺めることしかできない。卑怯者。無神経。最悪。自分勝手。自分が今までそうならないようにと避けて来たはずの醜悪を表現する言葉が幾つも浮かんだ。嫌なことをきいてごめん、気にしないで欲しい、これからも、普通に接してほしい、どれも自分のための言葉だった。
俺、こんなに嫌な奴だったかな。
言葉が尽きる寸前で「部活の途中だから」と天野が終止符をうつ。風が止んだ。去っていく背中を見る勇気がなかった。浮かれている自分が嫌だと避けてきたはずなのに、とっくの昔からずっと、渡は浮かれていたのだと思い知った。はじめから天野と渡は別の人間だった。似ても似つかないほどに。
「傲慢女!」
親友の鋭い言葉が届く。行き場がなくなった想いを持て余す渡に、その鋭さは痛かった。だってそう思えたら随分と、楽だったから。
「――なんでそんなこと言うんだよ!」
それは、俺のセリフだよ、と渡 惺平が呟く。親友のやさしさに逃げる愚かな渡を詰る。卑劣なのは、渡のほうだ。
それから家に帰って、ご飯を食べて、テレビを見てお風呂に入って、自室に戻った。携帯電話の電源は家に帰る前に切っていた。宿題を済ませてノートをとじたころには、日付が変わるギリギリの時刻になっていた。立ち上がって、部屋を出る。寝静まった廊下をそっと通り抜けて、キッチンへ向かった。ケトルに水を入れて、お湯を沸かす。カフェオレが飲みたかった。
冷蔵庫を開けて、父親が出張土産で買ってきてくれたレーズンサンドを取り出すと、テーブルにふたつ置く。ほんとうはひとつは姉のぶんだけど、今日くらい良いだろう、と思う。ケトルのお湯が沸いた「カチ」というささやかな合図が聴こえる。牛乳をあたためようと思ったけれど、再び開けた冷蔵庫にはお茶しか入っていなかった。仕方なく、コンビニで買ってきたときにもらってきたのであろう、コンビニのロゴが入ったコーヒーフレッシュを取り出す。スティックコーヒーをだまにならないように丁寧にお湯に溶かし、コーヒーフレッシュを垂らした。くろぐろとした水面に、白蛇が這う。
取っ手がぬるい。持ち上げて、テーブルに置いて、座る。すべての動きに違和感がある。まるでコントローラーで動かされているみたいだった。銀のフィルムを丁寧にひらいて、レーズンサンドを齧る。――甘い。
目を瞑る。
お前に何が分かるんだよ、と左奈田を詰る資格は無い。自分でも自分が分からないのに、左奈田に偉そうに言える立場じゃない。見世物にしたと糾弾しておいて、渡だって嫌がらなかった。ついてこられても、本気で拒否しなかった。ひとりで屋上へ行くのは怖かったから。天野はひとりで来てくれたのに。はじめから渡は、ずるかった。
珈琲を口に入れる。苦みの中に、牛乳とは違う、ぬるりとした甘さがする。コーヒーフレッシュをいれた珈琲はどうして、カフェオレでもなんでもなく『コーヒーフレッシュをいれた珈琲』の味がするんだろう。ぬるぬるして、溶け合ってなくて、でもひとつにはなっている、不思議な味。
多分明日、ごめんといえばみんな許すんだろう。俺たちも悪かっただなんて謝って、気にすんなと笑う。そうされるほうがずっと辛いだなんて思わずに、渡もあんなデカい声だすんだなとおどけてみせる。そういう奴らだ。大人ぶって、穏やかそうに振る舞って、どこまでも至らない渡とは違う。意地っ張りでカッコつけで、素直じゃない渡とは。
レーズンサンドを口に入れる。咀嚼する。もう一個も開けようと思って、やめた。姉に悪いな、と思ってしまった。これは姉のぶんだから、やっぱり残しておこう、と冷蔵庫にしまう。笑えた。自分らしさなんて、自分のことなんてわからないと言ったくせに何処かで、渡の人格は渡に染み付いている。見失っても尚、刻まれている。
珈琲を飲む。学校に行きたくない。でも、多分明日になったら行くし、みんなにも謝るし、天野にだって挨拶するんだろうな、と思う。
『なんで怒んないんだよ! ショウ!』
――あのさ、左奈田。
怒ってる。もうずっと、怒ってるよ。俺。
机に散らばったレーズンサンドの欠片を、片手で払ってもう片方の掌へ落とす。立ち上がって、手を洗った。歯を磨いて、眠ろう。残ったカフェオレもどきを飲み干して、カップを簡単に洗うと、洗面所へ向かった。変わらない自分でいたかっただけなのにいつのまにか、自分を変えられなくなっていた。
混ざり合えない乳白はたったひとつの王冠になって、夜の帳を彩る。
玉座に座らないことだけが、渡のプライドだった。
2022/01/17 あけましておめでとうございます