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青と日のテラフォーミング  作者: 藤波
第一章 はじまりのセンテンス
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第一話 まっとうのカタヌキ

「好きです」


 上気した頬には玉のような汗が浮かび、太陽のひかりに照らされてきらきらと輝いていた。張り付いた前髪は額の上で波打ち、僅かなこそばゆさを演出している。

 何処からか運ばれてくる潮風を膝に感じながら、天野青子(あまのあおこ)は立ち尽くしていた。

 こういうとき、酷く自分が“別の世界のひと”になるのが少し寂しい。


「ごめん。気持ちは、嬉しいけど」


 本当に、と心の中で繰り返すけれど、それが本当なのか、正直なところ良く分からなかった。誰かに好意を伝えられるのは嬉しい。好きだと言われれば幸せを感じる。けれど付き合いたいといわれると、良く分からなくなる。何でも分かり合えるんじゃないかと思うくらいに、気が置けない友人が出来ても、その子から「好きな人、いる?」と聞かれると固まってしまう。あの人いいよね、好きじゃないけどカッコイイなと思う、告白されたらアリかな――。ひそひそと、とっておきの秘密を共有するあの蜜のような時間は、ショーケースの中のケーキみたいに可愛らしく甘酸っぱい。

 恋をするクラスメイトの瞳は、ショートケーキのいちごを思わせる“特別”が宿っていた。

 青子は、自分がショーケースの“外側”の人間だと知っている。彼らと同じように秘密を共有してもらいながらも、青子の中に特別はない。自分はふわふわとしたスポンジにも、洗練されたなめらかな生クリームにもなれない。スポンジとスポンジのあいだにぎゅっと詰まった、数多至極のフルーツなんて――とても。

 だからずっと、少しの羨ましさと、それを埋めてしまうほどの孤独感、そして、後ろめたさがあった。彼女らの“特別”の味を教えてもらっておいて、青子が差し出せるものなど「応援するね」という意味のない善意しかない。どれだけ自分が役立てるかもわからないのに。

 強い風が吹く。張り付いていた髪の毛を飛ばして、ひとつにまとめた髪が横に揺れた。いつの間にか自分が俯いていたのに気が付いて、顔を上げる。

 傷ついた瞳は、悲しみに歪みながらも、一寸の迷いもなく青子を見つめていた。ツキリ、と胸が痛む。

「……そっか」

 声変わりしたばかりの掠れた声が響いた。青子はもう一度「ごめん」と謝って、黙り込む。

 長らく隣の席だった彼は、中学生からの同級生で、話しかけやすい穏やかな人だった。物語でしか知らない“恋”というものをするのなら、きっと彼のような、凪のような人だったら、あたたかい想いを育てられると、そう思う。

 けれども、種がなければ芽は出ない。芽が出なければ茎は育たず、葉は宿らない。花になる日は、来ないのだ。


「……誰か、他に好きな人いるの?」

 首を横に振る。いない。これからできるかもわからない、と白状してしまいたかったけれど、出来なかった。

 それから、黙ったまま動かない青子に、彼が何かしらの言葉をかけてくれたのだけれど、どんな言葉も青子の内側からは生まれなかった。これ以上ここに留まっても気をつかわせてしまうだけだろう。部活の途中だから、と断って、屋上を後にする。室内へと続く扉を開けると、彼と同じ野球部のユニフォームを着た生徒が何人か入り口に立っていた。驚いて、急いで通り過ぎて階段を下りる青子の背中に「傲慢女」と声が掛けられる。

 突然、ナイフを投げられたような気持ちだった。

 足がもつれかけて、でもなんとか立て直して、知らんぷりをする。


 ……恋が出来なければ、傲慢になるんだろうか?

 薄暗い渡り廊下を走り抜けて、ぼんやり考える。想いに応えられない自分が欠陥品のように思えて苦しかった。ショーウインドウの外側、ガラス越しに見る恋愛は美しい。けれども、その「綺麗だな」という感覚は、その“なか”で魂をくべて、こころを燃やしている人に失礼なのだろうか?

 そうかもしれない、と思う一方で、自分が「恋」に染められているからと言って、色を知らないひとを攻撃してもいいのだろうか、という不満が顔を出すのも確かだった。雲がかかったように、自分の想いが曖昧になっていくのを感じながら、立ち止まりたくなる衝動を堪えて、前に進む。

 部活に戻らないと、と自分に鞭をうつ。

 帰るにしたって、部活中に呼び出されたから、荷物はすべて茶室に置き去りだ。

 戻ろう、戻ろう、と思いながらも、正面から茶室に入る勇気はなかった。自然と、普段は使わない外露路(そとろじ)に足が向く。茶室の壁と、ガラスに挟まれた砂利道は、透明を突き抜けた夕日に染められて、神秘的な赤を纏っていた。


 青子は茶道部と華道部が一緒になった、茶華道部に入っている。週に一度華道を学び、他の日は茶道を習ったり、何もない日はのんびり部員とお茶会をして、余ったお菓子を仲の良い先生に配ったりしている。

 茶室はそれなりに本格的で、外には室内であるものの、砂利道が広がっている。上品な人口砂利が敷き詰められた通りは「内露路(うちろじ)」という、茶室に入るための心を整える場所で、青子の学校では「外露路」とほとんど一体化している。一重露地を抜けると、手水鉢が置いてあり――茶道では(つくばい)と呼ぶ――そこで手と心を清めてから、靴を脱いで茶室に上がるのだ。

 あくまでお客さん用だから、部員である青子はあまり立ち寄らないのだが、なんとなく、少し気分が塞いだ時に、心を落ち着けるために、訪れることはある。例えば――いまのような時に。


 室内に作られた上品な和の空間は、小さな箱庭を思わせた。

 高校に入ってから茶道をほんの少しだけ学んだだけだから、青子はその道に明るくないけれど、ここを含めた茶室が、神聖なものであることくらいは理解できる。ゆっくりと、石を蹴り飛ばさないように、にじり口へ近づいていく。

 自分の肌が、ガラスのカーテンウォールを通り越した、夜の匂いを纏った太陽に染められて、ビビッドな暖色になる様を見ていた。屋上で自分を映していた彼の、上気した頬を思わせる高揚の色。

 恋って、と思う。もしかしたら、こんな色なんだろうか。

 恋って、どんなものなんだろう。恋、戀、こい。

 糸と糸を、言葉で紡ぐ。そして、糸と言葉にながれているのは、たしかな心。

 そう書いて、戀。

 もし、恋が出来たら、と思う。伝えずにはいられないほどの、身を焦がすくらいの、きらきらした想いを抱けるようになったら。もしくは、それに代わるほどの何かを見つけられたら、何か変わるんだろうか。ショーケースの外側で、たった一人ぼっちで苦しむ“私”じゃなくなるのだろうか。ショートケーキの上にのる、透明の飴でコーティングされたいちごになれるのかな。私でも。

 そしてそんな自分を、私は歓迎できるのだろうか?


 赤かった肌が、紫のひかりに染められる。顔を上げて、透明越しに空を仰ぐ。

 雲が太陽を隠したのだ、と理解する。もう、(つくばい)は目の前だった。

 そっと、右手で柄杓(ひしゃく)を掴む。冷たい水を右手に掛け、持ち替えて、左手を清めると、心がじんわりと晴れていくのを感じる。もう一度右手に持ち、左手に少量の清水を注ぐ。静かに口をつけ、口内の穢れを祓うと、再び左手を綺麗にした。

 一見複雑に見えるこの儀式が、青子は気に入っていた。冷たい水に触れると、迷いや歪みやよどみが、本当に流されていくように思えたからだ。

 柄杓を立て、残った水で柄を清めると、元の位置に戻す。目を瞑り、にじり口の扉に手を掛ける。少し立て付けの悪くなっている戸を横にずらせば、穏やかな畳の匂いが鼻をくすぐった。

 急にこんなところから顔を出したら驚くだろうか。でも、正面から入るよりは、こっそり行けるだろう、と思い直して、そんなよこしまな理由でにじり口を使うのを、心の中で先生に詫びる。華道や茶道に力を入れている他の学校と比べれば、青子の部活はユルい。誰も咎めないとは分かっているけれど、それはそれとして、マナー違反であるのは確かだった。

 屈んで、中に入ろうとするけれど、やけに暗かった。部室にだれもいないのだろうか、と思いながら握った両手を畳へつける――否、つけたつもりだったけれど、そのまま両手は空をきった。

「……え、」

 動揺の声を搔き消す勢いで、身体が前へ倒れる。何もない暗闇に全身が飲まれ、丁度前転したタイミングで、視界がぱあっとひらける。ほんの一瞬、一秒にも満たない間に起きた出来事だった。


 ――その人は、感情の籠もらない金の瞳で、青子を見つめていた。


 畳のにおいに混じって、ひどく美味しそうな香りが空間を満たしている。青子の所属する茶道部が使っている茶室よりも、遥かに上等な広い座敷だった。息を呑む青子を無視するように、その人が顔を近づけてくる。青子よりも低い位置でゆるく結い上げられた髪が艶やかにひかった。服に引っかかったのか、赤い紐がしゅるりと解けて、頬に柔らかな髪が当たる。伽羅(きゃら)の匂いだ、と思う。昔一度だけ嗅いだことがある、なんとも言い難い――そう、例えるなら天国の匂い。


 突然現れた青子に、彼の周りに控えていた従者と、月色の髪を持つ麗しいひとと、鋼のような銀を纏った三白眼の若男はそれぞれ全く別の反応を示した。

 従者は叫び、美人は乾いた笑いを零し、鋼の若男は怒り狂った。けれどもそのすべての騒音を凌ぐほどに、青子は金の少年しか目に入らなかった。飛び掛かろうとする鋼の若男を片手で止め、少年は、青子を見ていた。蜂蜜よりも甘ったるい、琥珀よりもずっと透き通った色をした瞳なのに、彼の目には心がない。どうしてか、青子はそう思った。

「名前は?」

「天野、青子」

「そうか。青子。俺は、日華という」

 自分よりも小柄な少年は、軽々と青子を横抱きにしていた。抱いているというよりは、膝に猫がのっているような、そんな調子で、青子を見下ろしている。しばらくの間、青子は動けなかった。なにせ、にじり口を抜けたら急にこの場所に辿り着いたのだ。そんなすぐに、状況を把握できるはずがなかった。尋常じゃないことが起きている、くらいの想いはあれど、青子が此処を“自分の居た世界ではない”と理解するのは、三日後のことだった。

 そんなことよりも、青子が彼の膝の上に“落ちて来た”のだと理解するほうが早かった。もっともそれだって、彼がやはり感情の籠もらない声で自己紹介をし、鋼の若人が「いつまで乗ってんだよ!」と青子を放り投げてからだったけれど。


 なんでもない、ただ少しだけ落ち込んだ日のこと。

 天野青子はそんな――永遠に続くと思われた日常の一瞬で、見知らぬ国の扉を開いてしまった。

 そしてそれは、彼女が思うよりもずっと、彼女を“彼女”たらしめる非日常の幕開けなのだが――続きは、また次のお話で語るとしよう。

2021/07/13 執筆

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