6話 見上げた空は霞んでいく
炎の濁流が押し寄せる。
冷たい空気を削る熱の壁は轟音を瞬く。残留する微光を上乗せした炎の剣は灼熱と共に。未だに高速回転する加湿飛行機の中軸を目掛けて、唐突に登場した少年は顔色を変えず、冴えた目付きは外形を捉えた。
傾斜に切り付ける。そこに躊躇は存在しない。
炎に包まれた小さな戦場。未知なる相手に対峙するシルエット。
脆い体では息をする行為さえも至難なのに。
夜弦を庇う形で目の前に立ちはだかる少年は。
何も動じることはなかった。
汚染の根源である霧を意図も容易く振り払い、怪物が生み出した火玉さえも利用する姿勢は、紛れもなく背負う覚悟の意志が段違いに掛け離れており、非常識の領域に辿り着いた叡知は真の姿を示す。
―――場数が違いすぎる。
爆炎を叩き付けるものの、寸前で上下左右に浮遊する車輪によって邪魔される。
「……」
ほとんど無傷の加湿飛行機。対して無反応の少年に変化はない。炎を纏っていた武器は日本刀であり、車輪の威力を相殺させていた。
読み合いという鍔迫り合いが始まる。
わずかな膠着が熱気を冷めて。
路地裏は肌が悴む本来の気温を取り戻す。
辺りに散らばった火の粉が時間を掛けて風に流された途端に、先にアクションを始めたのは有害物質をもたらす怪物だった。
聴覚を妨げる金属の爆音が。哄笑と共に二人を襲う。
路地裏の空間を制圧する超音波が建物に亀裂が走る。次第に地面に振動が起きる中で、四輪の内一つの車輪に刃物のような刺が展開し、少年の隙だらけな腹部を目掛けては高速回転を仕掛けてきたではないか。
―――危ない!
そう叫ぼうとしても、声は出せず。
激痛に苛まれている夜弦は自身の危機感を露にする。
体が痺れて動けない。無茶をした代償があの少年に迷惑を掛けているとは。悲痛な思いが届かない現実に後悔が募る。どんなに助ける術を振るっても、結局は足を引っ張ってしまうことを理解している。
当然。神栖夜弦は傍観するしかできなかった。
―――まずい。このままでは。
悲願的な予感を察するものの。想像はへし折るものだと考えた方がいい。
常識に囚われていたのは、夜弦の方だった。
加湿飛行機の方翼が爆発した。
刃物が付いた車輪は殺傷力を上げる為に回転して、攻撃の隙ができた少年の腹部を狙っていたハズだった。なのに腹部に触れるその寸前だった。それはまるで瞬間移動したかのような、何もない空間から車輪は登場する。
勢いを乗せた車輪はそのまま怪物の方翼を直撃し。
全ての車輪が砕け散った。
先程の使い捨てカイロとは比べ物にならない破壊の衝撃が伝播していく。黒煙を立ち込めた路地裏で少年は服に付いた埃を淡々と払う。
転がる怪物の正体が惨状を物語る。
金属で出来た表面とは違い部品はガラクタそのものだった。
粉々になった部分は関係のない工具の一部が入っており、最も衝撃なのか様々な玩具がバラバラに敷き詰めていたことを。見た目の精密とは掛け離れた粗末な代用が、子供の工作に似た杜撰さを垣間見る。
どういう原理でホバリングをしていたのか。あくまでも推測だが、そこまで考えに至らなかったのかもしれない。
何せ。想像で出来た『玩具』の怪物は、―――欠陥品そのものだから。
怪物の正体が玩具になれなかったモノ。
その特異性と非常識の連続に夜弦は驚愕を外せなかった。
常識が通用しない。
物理的法則さえも無視している。
感覚を通して。ようやく理解に辿り着いた。当たり前の日常と定義している概念に何の違和感を抱いていなかった夜弦。神隠しの真実を求めて、忘れた悪夢の続きを求めて、禁忌の蓋を開けた。その結果が異形の存在に慄然を覚えるだけで、自身の非力さという痛恨を身に染み渡らせた。
―――まだ。本当の意味を知らないということを。
眼前に佇む少年が見据える景色。
そこに映るのは、紛れもなく正真正銘の常識だろう。偽りで塗り固めた先入観を乗り越えた力こそが、異形の存在である怪物を対峙できるのだと推測する。
日本刀を持つ彼は、真実の常識を用いて怪物と戦っていた。
「立てるか」
「……!?」
背を向けたまま急に語り掛けてきて、不意を付かれる夜弦は目を白黒させた。
どう反応をすればいい。話し掛けてもいいのか。
他人と接することに躊躇がいる夜弦にとって面倒事は勘弁だった。迷惑を掛けているのは勿論夜弦本人であり、やはり面目が立たない。
―――というか。声は出せるのか?
「傷はもう癒えている。解毒をしておいた。多分、声は出せるハズだ」
「え、……え!? ほ、ホントだ!?」
気付いてみれば。
息が苦しくない。力が沸き上がり、気力を取り戻す。
玩具の怪物と対峙して傷付いた心身。それが完全に治癒されていた。最初は霧が晴れたお蔭で毒を吸い込まずに済んだと考えていたが、火の影響で服の一部が焦げていたのに。いつの間にか修復されていて、単純な理屈では説明しようがない謎の力が仕組まれているのだと思案を巡らせる。
謎の力を扱う者は。
暴走した玩具の怪物が反撃を目論もうとしても。
―――迎える結末をさえも。見越しているかのような気がしてならなかった。
激昂に燃えて。
路地裏を駆け抜けて飛翔する。
方翼を失っても。最期の悪足掻き為に爆発した怪物は火を荒らげて。
「……!」
「まずい。このままじゃ民間に被害が……!!」
濃霧に隠された世界を飛び抜けて。
邪魔する者が届かない場所を手に入れた怪物は高速回転を繰り返す。
たとえ中身であるガラクタが散乱しても。
お構い無しに流星群となって罪なき人々が暮らす街に降り注ぐ。怒られても全く反省しない子供のような、ワガママに嘲笑う金属音の声が鳴り響く中で、見上げるだけの夜弦はあまりの事態に狼狽するが。
絶望を凌駕するほどの、絶対的な差を見せ付けるのは。
「―――」
ゆっくりと身構えて。
一輪の煌めく光の後光は燦々と呼応する。
空気が震えた。溢れた滴は宙を昇り、大地を轟かす。ただならぬ重力は少年の周囲を廻る。やがてノイズを含んだ衝撃波は日本刀を纏う。
今までとは比べものにならないほどの。支配という名の波動が。
至高に辿り着いた者の渇望が。意思を背負うと共に。
―――人間の枠を凌駕した。
柄を握る少年は途端に、濃霧に隠された世界の頂きを越えて飛翔していく。
それは本当に現実なのか。夜弦は疑いを払拭できないでいる。
だが、それでも。この光景に偽りは無い。
憎悪を抱いて雨上市に降り注ぐ傲慢の流星群に対して、一閃を描く少年は日本刀をしなやかに振るう。刹那の間に瞬く銀の残像は鮮やかに。朧気に灯す悲哀の後光の衣は闇を葬り去る術の救世となり、優しく包み込んだ。
無防備となった怪物の本体はそれでも抵抗を止めない。
衝突するであろう人間に向けて。影が覆い尽くすほどの巨大な顎と噛み砕く為の毒牙を生み出す。人類を蹂躙する禍々しさの具現化は次の瞬間を見逃していた。
迎え撃つ炎の構えは。
衝突する以前に。答えは到達していたことを。
「―――朧蛍」
ほんの一振りが勝敗を喫する。
燐光を発した斬撃は浄化の鐘を鳴らすと共に。
時計回りに巡る閃光の雨霰は怪物の巨躯を木っ端微塵にした。
淡い光を放つ明星の輝きが雨上市を包み込む。
暖かな太陽の強豪な光が差し込む時、本体である中軸は飲み込まれる上に煙霧となって消散していく。ごくわずかな静寂は終わり、荒れ狂う暴風は衝撃波に変えて轟きながら、雨上市に晴天を取り戻す。
そして。路地裏に落ちる、―――蝌蚪の玩具は二つに割れた。