1話 邂逅
生まれて。初めて。
他人に憎まれた感触は、理不尽な罪悪感を残すようで。
無実。身の潔白を示しても。鮮やかだった日常を塗り替えてしまう非常識な暴走はどうやっても止められそうにない。
何が原因なのか。自分は誰かを傷付けてしまったのか。
反省すべき点は見付かる。改善をすればより良い方向に繋がるハズだと。
そうして人は沢山の努力を積み重ねてきた。失敗を成功に変える力に成し遂げた日頃の行いに、間違いは無かったとこれだけはハッキリ言える。
それなのに。答えは色褪せない世界に見捨てられてしまった。
けれど、代わりに一つだけ、分かることがある。
―――神栖夜弦は得体の知れないバケモノに追い掛けられていたことを。
「なんだよ、これ……」
弱い吐息が散っていく。乱れた呼吸は未だに落ち着きそうにない。
背負ったリュックの感覚が消えるほどの強烈な恐怖が襲う。視界を切り裂いていく実感は危惧感を呼び覚まし、狸寝入りした意識は覚醒した。頬を伝う汗が地面に滴るのを気付くまで、脳の整理が追い付いていなかった。
入り組んだ路地裏。
土地勘がなければ大人でも迷子になってしまう場所。
茂みに隠れる夜弦は手の震えが止まらない。力が抜けてしまいそうな、受け入れそうにない曖昧さに覆われている。微かな音でさえ緊張した意識は神経を削り、凌ぐ忍耐は消耗を増していく。
あまりの苦しさに胸ぐらを掴んだ。
何故。どうして。心臓の奥が焼けるように痛いのか。
全身に血が上る。込み上げる感情の起伏に、無意識に奥歯に力が入る。
憎しみのような。怒りのような。
マイナスのエネルギーが途方もないくらいに意識の中を押し寄せて。瞳を閉じてしまえば、拒絶した恐怖の根源が近付いてしまうのだ。
正体不明の女性のシルエットが今にも脳裏に刻まれていることを。
身に覚えがない人物。面識さえ皆無の赤の他人。
振る舞いの全てに目を奪う美しさが。畏怖という感情を植え付けた。稚拙な記憶は冴えていなくとも、染み付いた感覚だけは研ぎ澄まされていく。
だがしかし、過剰になればなるほど、正気を失うとは知らずに。
夜弦は真実を求めようと危険な橋を渡ってしまう。
「あ、あれが、もしかして、あの噂の都市伝説……?」
制服のポケットからスマホを取り出そうとするが、目を凝らすと、自分の手が震えていることに気付いた。
拒否反応を示す警戒心は解けず。意思を反して体は思うように動けなくて。
金縛りに遭ったかのような。束縛する僅かな時間が鬱陶しい。
動けと心の中で念じても悪足掻きだった。
融通の利かない体は何かに囚われた感覚が酷く、ようやくにしてスマホを持とうとするが、液晶仮面には自分の知らない顔が映っていた。
「―――ッ!!」
壮美に拒絶した。微笑みに見える姿が胸を刺す。
決して覗いてはいけない深淵を夜弦は焼き付いてしまった。
驚嘆した衝撃で地面に転がるスマホの画面は亀裂が走る。慌てて拾うとするが、伸びた影に覆われていることを感じ取り、隠れていた茂みを手放しては人の気配が失せた路地裏に懸念を抱えながら飛び込んでいく。
後味が悪い。生きた心地がしない。
おまけに夢に出てきそうだ。最悪としか言い様がなく、着々と距離を追い詰めるバットエンドに絶望だけが約束されていた。
彼女に魅入られてしまえば。
都市伝説の通りに、魅入られた人物は必ず呪われてしまうという。
「本当に、都市伝説が実在していたなんて……」
足音を殺して前に進む。
実感の湧かない虫酸が走るばかりで、いつ昏倒してしまうのか分からない状態。捕まるのが先か。こちらが倒れるのが先か。誰も想像付かない混沌の幕開けは期待を裏切るバッシングの連鎖を呼び起こす。
神栖夜弦は既に。鳥籠の中の鳥だった。
「そんな、道が消えた!?」
コンクリートの壁が突如積み上げて。
行く手を阻む非常識の存在は土地勘さえも無力にする。
辺りを確認してみれば、連なる風見鶏はバラバラに回転しており、風の行方を掻き乱す。金属音が木霊していく路地裏の場景は意図も容易く崩れた。
無人のビルがドミノ倒しのように倒壊していく。
その反動で風見鶏は欠けたピースみたいに地面に降り注ぎ、口を開けたまま絶句した夜弦がいる場所へ向かう。
脳の処理が追いつかない。
途端に割れたスマホの画面に光を放つことも気付くのを遅れて。
消し屠る足場と共に。崩壊した路地裏は手を伸ばす夜弦を巻き込みながら奈落の狭間に吸い込まれてしまう。
叫声は瓦礫の海に掻き消された。野心は自身の非力さに飲み込まれた。
空洞に落とされる夜弦はそれでも抗う為にスマホを掴み、外の光を求めて伸ばしていた手は瓦礫の中に溢れた風見鶏を振るう形で握る。
すると、その風見鶏は鍵となり、解き放つ眩い光は幻影を殺す。
次の瞬間。
全ての景色が白の渦に飲み込まれ、吐き出された景色は見たこともない真っ白の公園に移り変わっていた。
「此処は……」
漆黒の太陽と青白い月に照らされて。
意識と感覚は取り戻す。地面の上に立つ重圧は静寂を押す。
建物のガラクタは何処にもない。あるのは寂しく隅に追いやられた遊具のみが空間を支配し、勝手に揺れるブランコに違和感を焚き付けるだけ。
注意を引く。或いは無機質なオブジェに誘われていると。
膝から崩れ落ちた。
「が……ッ!?」
とてつもないプレッシャーの登場に両手は地面に貼り付いてしまう。
鳥黐に行動を奪われた夜弦は力が入らない。抵抗しようとも、地面に摩擦は生じない。一体化。という言葉が相応しい奇天烈の現象は怪異そのもの。これまでもそうだったように、全て見渡せた世界は今も偽造によって出来ていた。
神栖夜弦は実際に生きているのか。本当は既に息を奪われてしまったのか。
―――分からない。
―――なんで、どうして、自分に呪いを注がれたのか。
―――真実を滅茶苦茶にした噂の都市伝説をブッ壊してやりたいほど。
―――悔しくてたまらない。
―――彼女の悲しそうな微笑みが、悔しくてたまらない。
だから。なのか。
決して、言ってはいけない名前を呼んだ。
呼んだ者は必ず呪われると謳われた、最忌の女性の到来を。
「縫子……」
ガマズミの花が咲いた。彼岸花も咲いた。
青白い月は目を見開き、極彩色の液状を流してはこちらへ落下していく。頭の無い蚕は飛ぶのを辞めた。代りに黄金の錦糸に吊るされた。
毛糸で出来た金魚はホオズキを夢中になって貪る。
ドロドロになって落ちた果実。その中身の正体はガラスの頭蓋骨。誰かの面影を残したまま肉体を失う骸達を、卵を割る感覚で踏み潰す足音が何処かで囁いた。
懐かしい。花の香りが指先を伝う。
だがしかし、いつまでも空虚を映す瞳は黙っていられず、崩れた姿勢に対して根性で楯突こうが、不意に視界に訪れるのは、黒のドレスを身に纏う女性の姿。黒のパンプスを履いた華奢な脚はこちらに近付いていく。
間違いない。
もう思い出すこともない、壮美な顔立ちはノイズに隠されてしまった。
それでも。戦慄した感覚の開花は衝撃をもたらす。
彼女は、『■■■』だということを。
「勝手に……。記憶にない名前が……」
見えない支配が鎧のない意識を侵略していく。
拘束された体は自由に。目の前で再び震える両手は徐々に熱が奪われる。
迫る闇が視界を覆う中で、狭い世界に現れるのは崩壊だった。
彼女の敵影は白い公園を巻き込みながら空間そのものを縦に裂く。裂いた亀裂から覗く無数の赤い目は瞬きを繰り返すだけで何もしない。こちらに囁く機械仕掛けの音声は録音のように同じ言葉を繰り返すだけで何もしない。
三次元の概念がデタラメになったこの歪な世界で。
絶望の最果てを刮目した一人の少年と、黒ドレスの女性は取り残された。
茫漠とした悪夢の連続に思考は追い付けず。
余りにも。無慈悲に。
ただただ。神栖夜弦は諦観することしか許されていなかった。
「何が、したいんだ……」
見たこともない花の束を手渡される。
赤色。黄色。桃花色。橙色。そして金色。一度見たら記憶に残る、鮮やかな斑紋が特徴の花は所持者が変わると途端に、中心部分は虹色の光沢を放ち、歪な世界に訪れる破滅の幕開けは下劣な想像力を置き去りにした。
全ては。
一人の少年の為に捧げた、被虐の物語なのだから。
「あんたは何がしたいんだ……ッ!!」
怒りは届かない。彼女に届きはしないと理解しながらも。
感覚と意識は通用しないと理解しても。
見えない本能は透明な心に炎を灯す。
視界は勝手に消えていく。
彼女の綺麗な笑みを見なくて済む。それだけが唯一の救いだったハズなのに。
その救いが、何かの勘違いだとは知らずに。
決壊と共に迎える消滅の到来は、胸を張り裂けるような、気分を害する後味の悪さだけが取り残された。
彼女が涙を流すのを最後に。
―――誰かが振るう聖なる業火に包まれた。