ピアノ
もしも学生アパートが事故物件だったら?を意識して書きました。実は2年前から書きたかった小説です。
こうやって日常から入るホラーは結構好きです。
恒川美晴は入学するとき、とある先輩から事故物件の話を聞いた。美晴はそれを気にせず、事故物件の下の階の部屋205号室に入居することにした。その物件は大学からも近く、部屋も広く、かなり良い条件の物件だった。事故物件の下の階にあることを除いては。
恒川美晴の入学から7か月ほど経った頃から、彼女の住む部屋に異変が起こり始めたのだ。それは、毎日早朝に聞こえてくるピアノの音。聞こえてくる曲はショパンのノクターンという曲だろう。早朝に聞こえてきて、無理に起こされることで美晴は徐々に睡眠時間を削られていった。しかし、授業と文芸部でのサークル活動で充実していた美晴はそれほど気にしていなかった。
ある日の講義。1限の心理学の講義だ。美晴は同じアパートに住む友人の鶴田茉子とともに心理学を受けていた。いつもは真面目にノートを取っていた美晴であるが、眠気に襲われてシャープペンシルを握りしめたまま眠ってしまった。
つんつん。隣に座っていた茉子は美晴の肩をつついた。
「大丈夫?」
「……うん?えっと、多分大丈夫かな。」
目を覚ました美晴と茉子は小声でやりとりする。美晴はこの瞬間、初めて自分が心理学の講義で居眠りをしていたことを自覚した。眠気は自覚しないままにやってきて人を眠りに陥れるものだ。そして美晴は教員が授業内容を示すパワーポイントに視線を移す。美晴が居眠りをしていた間にスライドは何枚か進んでいた。
「あとでノート見せてもらってもいい?」
「いいよ。」
またもや美晴と茉子は小声でのやりとりをする。これ以降、授業が終わるまで美晴は居眠りをすることはなかった。しかし、茉子が見た美晴の顔にはクマができ、ひどくむくんでおり睡眠不足であることがわかるような見た目になっていた。
心理学の講義が終わった。2限は美晴も茉子も授業が入っていない。二人は大学の中庭にあるベンチに座る。秋の風が落ち葉を掻きまわす様子がよく見える場所だ。そして、二人がよく昼食を摂る場所でもある。
「聞いてよ、茉子。最近上の階からピアノの音が聞こえてきて朝早くから起こされるんだよね。」
ベンチに腰掛けた美晴は愚痴をこぼす。
「ほんとに?ピアノ置く人なんているの?」
「わからないけどいつも4時くらいから起こされて、二度寝しようとしても眠れない。もし心霊現象とかだったらホラー小説のネタにでもなりそうだよね。」
にわかに信じられることではないとわかっていながら、美晴は自分の身に起きたありのままの事実を告げる。
「もし疑うなら私の部屋に泊まってよ。毎朝4時くらいにピアノの音するから。」
「じゃあ、泊ってもいい?同じアパートだけど。」
茉子は言った。美晴はいつも部屋を片付けているため、いつでも人を呼べる。
その日の夕方、スーパーに寄った二人は美晴の部屋に上がる。美晴の部屋は小ぎれいで、収納の少なさも棚を使うことでカバーできている。そして、カーテンは緑色で全体的に目に優しい雰囲気の部屋だった。二人で夕食を作り、心理学で居眠りをしていた分のノートを写し、それぞれ入浴し、テレビを見ながら他愛のない会話を交わしているといつの間にか夜の12時近くになっていた。
「そろそろ寝よう。」
「そうだね。」
美晴の部屋にはベッドのほかに布団もある。その布団は美晴の母がこちらに来た時のためにおいてあるもの。しかし、この布団は茉子だって使っている。むしろ、母はまだ来ておらず、茉子専用の布団となりつつある。
二人はほどなくして眠りについた。暗い部屋で時間だけが過ぎてゆく。
そして、時計の針が4時を回った頃。ピアノの音だ。それに反応するように美晴の目が開く。その2分後くらいに茉子の目も開いていた。何者かが奏でるショパンのノクターンは美晴と茉子を無理やり起こした。その音色はなぜ隣の茉子の部屋では聞こえないのか、というほどにはっきりとした音色だった。
「ほんとに聞こえる!なんで?私の部屋では聞こえないのに!?」
茉子の部屋では本当にこの音が聞こえていなかったらしい。戸惑う茉子。その様子を見て、美晴はあることを思い出した。
この上の部屋305号室は事故物件である。なんでも、この部屋の住人だった女子学生が同じサークルの人から酒を大量に飲まされて急性アルコール中毒で死亡したという。飲まされた、つまりアルコールハラスメントを受けたのだから殺されたも同然だ。
「美晴?」
ぼうっとしていた美晴を見た茉子は美晴に声をかける。
「大家さんに話そう。」
美晴は言った。茉子もこれはただ事ではないと悟り、大家に話すことには賛成。
その日の昼、美晴は大家に連絡を取った。それに対する大家の反応は、「やっぱりか」というようなものだった。そして、大家は305号室には今年の4月から1年生が住んでいるが5月を境に見かけなくなったとの話もしていた。
「様子を見に行きたかったところだけど一緒に見に行ってもいいんだよ。」
電話越しに大家は美晴に言った。
「ぜひお願いします。」
美晴は答えた。美晴はこのとき上の住人の安否も気になっていたが、何より事故物件に対して好奇心を抱いていた。美晴自身が心霊現象が好きで、ホラー小説まで書いているくらいなのだ。
そして、その日の午後1時過ぎに美晴と茉子と大家の3人で305号室に行ってみることにした。アパートの3階から見える景色は2階から見えるそれよりも解放感があり、空や遠くの山がよく見える。
まず、大家がインターホンを鳴らす。ピンポーン、と音がするが返事はない。その30秒後くらいにピアノの音色が中から聞こえてきた。ショパンのノクターンだ。まるで、打ち込み音源のように情緒的なものを感じさせず、正確だが無機質だ。美晴の部屋で聞こえていたピアノもこのような音色。
「うう……」
茉子は震え上がる。その一方、美晴は全く動じない。大家がカギを開け、ドアを開けた。ピアノの音色がより一層聞こえてくる。
「山内くん?大丈夫ですか?」
大家がそれなりの声で中に向かって言う。返事はない。すると、大家は美晴に手招きし、二人で中に入った。
その光景は想像だにしないものだった。ビールとチューハイの空き缶とカップ麺の空容器が散乱する部屋。その真ん中には椅子に座った山内の姿が。山内は上の空のような顔でピアノを弾く真似をしていたのだ。もちろん、その場にピアノはない。しかし、なぜピアノの音色がするのか?それはじきに分かった。
山内の背後。そこに黒髪で2年ほど前に流行っていたような服を着た半透明の女性が半透明のピアノを弾いていたのだ。美晴はその女性と一瞬だけ目が合った。
「恒川さん!外に出ますよ!」
美晴は大家から手を引かれ、305号室の外に出た。
「お祓いを受けてきなさい。お金は私が出すからね。」
大家は美晴にそれだけを言い聞かせ、外に連れ出すと車に乗せた。車はそのまま、どこかの神社に向かっていった。