がじゅぬぶ
がじゅぬぶ、ということばを聞いたのは、誰からだっただろうか。もう遠い記憶のころ、私がまだ幼子だった時だろうか。それとも大学で隣になった女子から都市伝説として話されたものなのか。
それは分からなかったが、全くと言っていいほどあちらこちらで聞いても手がかりひとつなかった。
ただ一つわかっていたのは、それが妖怪とか、魑魅魍魎のたぐいのものだと言うことだった。
その言葉を思い出すようになってから、暗闇の中で何か濡れたものを引きずるような、そして水たまりを裸足で歩いたような音が聞こえるのを感じていた。時折なにかをすするような音がして、夢に薄気味悪さを加えていた。
ずる…………びちゃ。
ずる…………びちゃ。
ずぞおおおっ。
ぺちゃ。
ぺちゃぺちゃ。
延々とそれが続くのである。
そしてそれは徐々に近くなっていた。私はすでに夢を見ることすら億劫になっていて、家でよく深酒をしてから眠るようになったものである。
ある日取引先の青年にその話をしたら、まっくらーい瞳でじいっと見られて、「なんでそれを知りたいんだ」と言われた。
「なんだか、頭から離れなくて」
「お前、××村の出身?」
聞いたことがない村の名前が出てきて、首をかしげる。後で母の呆けかけた脳味噌に聞いたが、この村の関係者は一人もいなかった。
それでもくだんの夢をなんとかしたいという思いと、それに人間の好奇心というものはいつになっても止められるものではなく、村の場所をほとんど無理矢理に聞き出し、その場所へとまとまって取った休みを使って足を運んだ。
「ここが××村……」
普通の農村。人の手が入った里山で、所々に民家がある。うまそうな、畑から引っこ抜いたばかりの間引き人参を持った子供がこちらを見て驚いていた。
「あのう、すみません」
「な、なんですか?」
「ここいらで、がじゅぬぶって言葉を聞いたことはないですか?」
男の子の顔色が、夏だと言うのに青くなって、ぎゅっと恐ろしい表情に変わっていく。ほとんど白くなるほどに握りしめられた手が、大変に嫌悪だとかそういうものを示しているような気がしていた。
「がじゅぬぶ様をいちばんに見かけたこどもがいたら、ばあちゃんに知らせる決まりだから」
「え?あ、ああ、はい。その?」
「ついてきて」
男の子のしっとりと汗ばんだ手が私の手を握る。土くれが付いていたが、なぜか気にならなかった。いつもなら狂ったようにはたき落とすくせに、それがなんだか人の温度をしていて心地よく感じた。
「ばーちゃん。連れてきた」
「おやまあ、そちらががじゅぬぶ様ね」
その一言だけで、なにかがストンと胸に落ちたように感じた。がじゅぬぶとは何かではなく、私のことだったのだ。たしかに私自身のことを人に聞いたって答えてくれるわけがないだろうなと、納得した。
けれども私の理性が叫ぶ。そんなバカなことがあってたまるか、と。
「あの。がじゅぬぶって、妖怪の名前ではないんでしょうか?」
「神様ですよ。本質がどうであれ、私たちは神として扱ってきたのですから」
わたしには分からなかった。けれど、やはりどこか、がじゅぬぶという存在は凶々しく虚のような暗黒を持ち、ズブズブと中に沈み込みような印象を持っていた。
また私ががじゅぬぶなのかと問えば、老婆は静かに笑って、「依り代のようなものです」と答えた。
日本の神は酷く曖昧だから、神様といっても妖めいた、そう言う禍々しさを持っているのだろうか?土着信仰を専攻にしていたわけではないから、よくわからない。
何はともあれ、私はそのがじゅぬぶ様の依り代として此度のまつりごとに参加してほしい、と老婆がいう。私はまとまった休みをこの際だからと取ってきていた。
問題ないと伝えれば、老婆は頷いて、それから隣の家へ歩いていった。
「うん?」
そこで、とあるものを目にしてちょっと好奇心で手を触れてみる。黒電話、丸いフォルムにつやつやとしたそれが、廊下に置かれていた。ダイヤル式なぞ使い方すらわからない者も今時はいるのだろう、物珍しさに私は静かにそれを眺めて、不意に下を見た。
電話機の台の下、布のかけられた台の脚元、薄暗い廊下で、なお暗いその場所。そこから獣の目のような爛々とした何かが、こちらを見ていた。
「ひっ、」
身体中が粘ついた液体に覆われたかのように動くことができなかった。息が苦しく、じわじわ恐怖が体をさいなんだ。たらりと冷や汗がにじむ。
舌なめずりをしたような、じゅるり、ぴちゃっという音がする。
ずぞっ。
じゅる。くちゃ、くちゃ。
ぞぞぞぞぞっ。
ぞぞぞぞぞっ。
小さな虫が這い回るようなむずがゆい感触が、足の上を通り過ぎて行く。何匹も何匹も、叫ぼうとしても喉が引きつったように動くことはなく、そしてそれは絶え間なく襲いかかって来る。
それが膝の上に到達しようとしたその瞬間目の前の電話が、ジリリリリ!とけたたましい音を立てた瞬間、彼は目を覚ました。
廊下で倒れ伏していたのだ。
「……ハァ……は、ハァ、」
ふぅ、と長く息を吐き出すと、よっこらしょっと立ち上がって目の前の電話の受話器を取った。
「も、もしもし。今、家人は留守にしておりますが」
『ズズゥ……ハァ……プチュ、グジュ』
「もしもし?」
『モウスグ』
「はい?」
『モウスグタベル』
電話の向こうから、人の気配はする。いたずら電話かと、ふと視線が下に向いた。その電話の電話戦は、引きちぎられたように銅線の房を見せびらかせて切れていた。
「ぃいっ」
がちゃん、とそれを置くと、浅く早い呼吸を繰り返して廊下から部屋へと転がり込んだ。恐ろしいほどにものが溢れたその部屋は、大変に人の生きている気配がして、落ち着いた。おもちゃが散乱し、そしてその学習机には書きかけの宿題かなにかが置かれていた。
私を連れてきた子供の部屋のようだ。
「……な、情けない。幽霊なんているわけがない」
そうだそうだ、酒でも飲んで寝て仕舞えば、悪い夢を見たとはっきり言ってしまえるだろう。私はそれからすぐあとに帰宅した老婆に向かってそう言えば、花梨の入った薬膳酒を振舞ってくれた。妙に薬臭かったが、酒精はきつく、飲みつければ美味しいものかもしれないと、気がつけばべろんべろんに酔っ払って、泥のように眠りに落ちていた。
嗅ぎ慣れたようなそうでないような、生臭い香りに目を覚ました。未だ頭の中には酔いが残っていて、フワンフワンと地面が揺れる。
そのくせ足はしっかり前へ進んでいて、景色は流れ始めているのだ。
これは明らかにおかしくなったような気がしていた。何せ私は酔っ払うと自ら家に帰れるような者ではない。その場で寝入って朝まで起きないたちなのだ。
一度それで死にかけたことすらあるのだから、なかなかの悪癖具合である。
けれども今は、それを物ともせずに歩いていた。頭の中はグラグラと地面を認識していないのに体がぐらんぐらんと揺れながらもそれでも前に進んでいる。
半ば夢うつつのようなそんな進み方は、一軒の家の前で止まった。
どこか訝しげに首を傾げようとしたが、首がどこにあるのかわからない。腕は、目は、手がない。足もない。
それを不思議に思わず、私はその戸口を押しつぶすように開けた。そして目の前にいるひれ伏している少年の白装束を剥ぎ取った。
見覚えのある少年、奥で見守っている老人の孫だっただろうか。その矮躯にのしかかり、そしてぞるぞると元いた場所に帰って食べなければ、という思いが急激に沸き起こった。
嫌悪もなにも湧かなかった。ただただ強烈な獣欲と、それに似た空腹感が私を満たしていた。
ほとんど廃墟のような祠に入るやいなや、私は少年の手足を舐めしゃぶるようにぞるぞると『私』を這わせ始めた。くすぐったそうに身をよじるそれを、『私』が蹂躙する。
少年の小さな体が妙に甘酸っぱく、そして耐え難く美味しいもののように感じる。
その精気が吐き出されるたび、私でない『私』が喜んだ。興奮の頂点に達した少年の鼻からすうっと血が流れると、今度は別の殺戮に飢えたなにかが目覚める。
おぞましいほどの快楽と恐怖と苦痛。
血と、肉と、それから白い骨が鮮烈に脳裏に焼き付いていた。
充足感がとろとろと身を焦がすようにして、私はようやっと眠りについた。
ああ、これががじゅぬぶ様なのだ。
私は最後まで私でなかったし、私そのものだった。
目を覚ました瞬間、私は全てが夢であったのではないかと、その少年の姿を探した。それを訊ねた時老婆がわずかに身をよじらせたが、少年がいたという形跡すらその場にはなかった。おもちゃの一つもない少年の部屋、文字すら残されていないその部屋に私は頭を抑えてうずくまる。
たしかに私は彼を食べたのだ。
くだんの妖怪の名前も思い出すことができず、そして少年は痕跡を残していなかった。ただ一つ、私のワイシャツの中にぽつんと赤茶けた染みが残っていた。