庭物語 -ハイドホール RHS Garden Hyde Hall
かずみは強い風が苦手です。意識をおし流されるような気がして。吸いこんでも吸いこんでも目の前の酸素が吹きぬけていってしまう、そんな焦燥感にかられます。
それなら防風生垣の向こうのバラ園にいればいいのですが、不思議な景色に魅入られて足が動きません。
イングランド中央部のなだらかな丘陵地帯、いくつもの丘が折り重なってうねるように続きます。ここは盆地の中の丘の上、風が渦巻きます。四方の丘も眼下の低地も黄金の小麦畑で、あちこちに散らばる林とちらほらみえる牧草地の羊たちはのどかなのに、自分ひとりが風の中。
王立英国園芸協会の管理するここハイド・ホール庭園、イギリスによくみかけるフジのからまるパーゴラの反対側、風当たりの強い南西の斜面にはニュージーランドかオーストラリアの岩山を切り取ってきたようなドライガーデンがはりついています。やせた土と風の間に育つ乾燥に強い植物たち。
かずみは花の色よりも植物の形の大胆さに見とれています。突き上げるニューサイラン、放射状のダシリリオン、そしてなびき溢れるスティーパ・テニュイッシマ。あたりの田園風景にそぐわないからより美しいのでしょうか。
「何だろう、この思い?」
風に洗い流されるかずみの心の中に何か透明な結晶があるようです。周囲に溶け合わない塊。荒削りだけどピュアで確かにそこにある思い。かずみは心の中を探りはじめました。
中学校にあがると見知らぬ生徒たちがいた。船で通ってくる子、バスで通ってくる子、遠くの小学校の卒業生たちだ。
かずみの隣のクラスに山の分校からきた麻田がいた。野球部に入って、頭をくりくりぼうずにして、乱暴で、目があうとなぜか追いかけられた。
かずみは男兄弟に挟まれておてんばに育ったから負けず嫌いで、はたかれると追いかけて仕返しした。報復すれば次はねらわれる番だとわかっていながら、追いかけっこは授業の合間をぬって長らく続いた。
いつ、どうやって立ち消えたのかはよく憶えてない。飽きっぽい射手座のかずみが諦めたのか、麻田が見切りをつけたのか。
その後すっかり忘れていたのに、中3になって思いもかけず同じクラスになった。野球部を引退した麻田は身長が180センチにも達して、少しくせのある髪をその頃流行りの不良っぽく整えていた。長い足を小さな机の下に折りたたんで、大きな上履きをはいて、腕白小僧は青年にかわっていた。
かずみはといえばどうだったろう。制服のスカートがウェストで止まるようになった、形だけしていたブラが身体にあうようになった。でもそんなことは意識にものぼらずに高校受験を目指していた。
麻田は話しかけると短い単語で返事をしてくれたが、昔の追いかけっこについては何も言わなかった。男友達と目があうと「何だ、ガンつけて」と言う彼が、かずみと目があうと鋭い光が消えるようだった。そしてかなり頻繁にふたりの目はあった。
でもエリがいた。家庭科で手編みを習うとかずみの親友は紫のマフラーを編み始めた。
「クリスマスに麻田君にあげるの。受け取ってくれたらそれだけでいい」と言うエリは恋心を隠すつもりはないらしく、「間に合いそうにない」と家でも学校でも編み続けた。
クラスの誰もが、誰のものになるのか知っていた。
お正月明けの新学期の朝に麻田はそのマフラーを堂々と首にしていた。眩しい紫の長いマフラーはガクラン姿によく似合っていた。
事情も知らず担任は、ホームルームの前に「その色は欲求不満の色だ」と冷やかした。エリはうつむいて赤面し、麻田は教師をにらみつけ、クラス中はどっと笑った。
かずみは「学校にはエリのマフラーしてこなきゃいいのに」と思ったが、麻田はそれから、意地でもはずさないつもりのようだった。
「エリとつきあってるの?」と訊くと、ぼそっと、「いや友達」と答えた。
次の記憶は春休みだ。麻田は地元の高校を選び、かずみは進学率の高い、街中の高校に合格した。学校が始まるまでの宙ぶらりんの春。買物から帰ってきた母が訊いた。
「あんた麻田君に会った? 近所で見かけたよ」
「え、知らない。うちには来なかったよ」
「あんたに会いに来たんじゃないの?」
「さあ、用があるなら玄関のベル鳴らすでしょ?」
母は不調法な娘をどう思ったろう。遠くに姿を見かけるだけでいいからと足が向いてしまうような恋心にはほど遠いところにいた。
彼を見かけたのはその時が初めてではなかったのだろう、母は押して言った。
「まだそこらにいるかもよ。ぐるっと見てきたら?」
確かに麻田はいた。近くの公園のベンチに。そしてかずみを待っていたようだった。
「よ、どうしてる」
「うん、制服も買ったし、通学路も確かめたし」
「電車通学だよな」
「うん、駅から15分歩き」
「そうか」
「珍しいね、こっちのほうに遊びにくるの。家ばかりで何もないのに」
「ひまだから」
会話はそこで途絶えてしまった。
ドッジボールにも狭過ぎるその公園は申し訳ばかりにブランコと滑り台があって、つぼみをつけたサクラの木が3本、西日を浴びていた。
「膝まくらしてくれ」
かずみは麻田の突然のリクエストに目を丸くした。父親だって弟だって、膝にのせたことなどない。
「いいけど、どうして?」
「疲れたから」
麻田はベンチの上に横たわってかずみの揃えた両膝に頭をのせて目をつぶった。
かずみはどこを見ていいのか悩んだ。麻田のくせっ毛は思ったよりふわふわしているように見えたが、触っていいものかどうかわからなかった。
頭の重さと温かさが伝わってくる。太腿がじんじんと熱かった。それがなぜだかも知らず、無邪気にも「ヒトの身体ってこんなに温かいんだわ」などと思っていた。
高校大学、留学を経て、かずみは通訳になりました。まだ駆け出しですが。
今日は英国園芸協会主催のシンポジウムで、日本から参加の皆さんのお手伝いです。
午後の部が始まるまでの昼休憩に庭を歩いていて、なぜ急に麻田を思い出したのかかずみにはわかりません。先程環境問題専門家の通訳をしたときの自分の首の角度が、麻田を見上げるときと同じだったのか、それともこの風と庭と景色が意識をかき乱したのでしょうか。
「麻田は私を好きだった。荒削りでピュアで、でもしっかりと彼の思いはそこにあった。私が幼さなすぎただけ」
距離も人生も遠く離れてしまった彼の幸せを心から祈りながら、かずみは次の仕事に向かいました。