カフェでの一時
カランコロン――
大人しい鐘の音を耳にして、二人は喫茶店に入った。
落ち着いた木目状で、ランプが穏やかな光をかもし出す。
澪はマスターに軽く手を振ると、丁寧なお辞儀と同時に、いつもの『好きな席をどうぞ』と手だけで挨拶される。
「ありがとうね。バイク押してもらっちゃって」
「いいよ。久しぶりにバイク触れたし、なんだか嬉しかったからさ」
「そう? じゃあおあいこ!」
歩美は笑顔を撒き散らしながらメニューに目をやると、「むー」と子供のような声を上げた。
「どうしたの?」
「どれもおいしそうだなーと。オススメは?」
「カルボナーラかな。厚切りのベーコンと、パスタとクリームの絡みが濃厚で絶妙です」
「じゃあそれにする! 澪は?」
「俺はブレンドのコーヒーで」
「それだけ?」
「朝昼一緒だったからさ」
「そうなんだ? だからガリガリなんだよ。もっと食べなって」
「それもたまに言われるよ。すいませーん」
店員に声をかけると、マスターが反応し、二人を指していたのが澪の目に写る。
少しして奥からは出てきたのは、制服に身を包んだ女の子だった。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです、澪さん」
声をかけてきたウェイターは、小柄ではあるがタンポポのように元気な子。
加え、澪のことを知っている。澪もまた、彼女のことを知っていた。
「お久しぶり。加奈ちゃん」
「はいっ。お仕事忙しかったんですか?」
「うん。まずまずかな。加奈ちゃんはどう? 大学は楽しい?」
「はいっ! 澪さんのお陰で……あっ、ごめんなさい。今日は、その」
加奈は少し暗そうな顔で「デート、ですもんね」と口にする。
「え、そういうわけじゃないんだけど」
「と、とりあえずご注文お伺いします」
「じゃあ、こっちの子にカルボナーラで、俺にはコーヒーを」
「はい、承りました!」
「はい。よろしくお願いします」
澪がサラサラと伝票に書き写しカウンターへと戻る加奈の後姿を眺めていると、
「あぁいう子が好み?」
という、歩美の声が聞こえた。
澪が視線を戻せば、無邪気に微笑む歩美の顔が間近にあり驚いてしまう。
「びっくりした」
「びっくりさせたぁ! いぇい!!」
子供が悪戯に成功した時のような笑顔を浮かべながら、歩美は席に座ると「仲良さそうだね」と口にする。
「常連みたいな――いや、加奈ちゃんは妹みたいなもんだし」
「妹?」
「そう。頑張ってほしいなって思ってる」
「それ、分かる。私にも、血は繋がってないけどおねーちゃんと弟がいるからさ」
歩美は終始、嬉しそうに微笑んでいる。
それが、澪はたまらなく嬉しかった。
どうしてなのか分からないが、二人の間に距離はないように思えたのだ。
まるで、昔から知り合っていた者かのように。
「ねぇねぇ、私だけかな? なんだか不思議な感じしない?」
「え、何のこと?」
「私、こういう風に自然と、知らない人とご飯ってなかったから」
「逆ナンっぽい感じだったもんね」
「そうそう。人生初の逆ナン成功しちゃった」
「見事につられてしまいましたー」
「ふふっ、澪ってなんだか不思議」
「だから、何が?」
澪は、不思議と呼ばれたことはない。
自分自身を不思議なんて呼ばれるのも初耳だ。
「んー、雰囲気っていうのかな。なんでも許してくれそう?」
「例えば?」
口元に指を当てた歩美は、
「浮気とか?」
首を傾げながら口にした。
随分と素っ頓狂なことを口にするんだな、と澪は思う。
「浮気、ねぇ。されたことないから分からないかな」
「じゃあじゃあ、もしされたらどうする?」
「イタズラして、メチャクチャにするかも?」
悪戯を思いついた子供のような顔をする歩美がそこにいた。
「へんたーい」
しかし、極めて冷静だった澪にとって、それは餌に食いついた魚のようでしかない。
「誰も、ベッドの上でなんて言ってないからね?」
そう言い、グラスを手にとって水を一口。
してやられた歩美は「今のズルイー」と言いながらも楽しそうに笑う。
「ねぇねぇ、そういえば、澪っていくつ?」
「ん、25だよ?」
「うっそ?」
「マジ」
「27くらいだと思った」
「いい意味では落ち着いた大人っぽい。悪い意味では落ち着きすぎたおっさん」
「言えてる。言えてる。女の匂いしないもんねー。ヤニの匂いはするけどー」
「そういう歩美は、21くらい?」
「女の前で歳の話するーふつう?」
「話を振ってきたのは歩美からだよ」
「今、さらっと呼び捨てにしませんでしたか?」
「何で敬語なんですか。気にしない気にしない」
「まぁ、若く見られたから許します! 24だよ。一個下だね」
落ち着いてるようで、落ち着きのない子だ。
でも、だからこそかもしれない。
放っておけないという女性は、こういう子のことをいうのかな。
澪はそんなことを考えていた。
「彼氏さんがほっとかなそう」
「え、彼氏とかいないよ?」
「――以外。歩美くらい可愛い子なら、身近な男は放っておかなそうだけど」
「身近って言っても、客かボーイくらいだったからね」
呆気らかんとした声に、澪は気づく。
「キャバとか?」
「ううん。ちょっと前に辞めれたんだけど、風俗」
辞めれたんだけどという言葉に、澪は引っかかるものがあった。
恐らくは金銭的なものだろう。風俗をする子には、そういう子がいると聞いたこともある。
のだが、深く追求するのも失礼な話であることに変わりはない。
何せ、ほんの数分前にあったばかりの子なのだから。
「まぁ、風俗とかも大変だよね。究極の異性サービス業って感じするし」
「驚かないんだ?」
「え、別に驚くこと? っていうか、身体とか平気なの?」
「しかも、何気に気遣ってくれてるし」
「そりゃあ、仕事でやってる分にはリスクもあるからね」
「あのさ、澪、私と寝てみたいとか、そういうのも思ってないでしょ?」
唐突な言葉だった。
澪は、ハッキリと口に出されたことで逆に意識してしまう。
改めて歩美を見れば、そう。長い茶髪を首もとで結び、細く整えられた眉毛。
強い意思と自信のあるような、それでいて何もかもを包むような大きな眼差し。
きゅっと引き締まった細い唇に、露もストンと落ちてしまいそうな細い顎。
胸も、ふくよかというほどではないが、それなりにはありそうだ。
首筋など、かぶりついてみたらどうだろうか――と観察。
学校、会社とった集団であれば、誰もが一度は抱いてみたいと思うだろう。
「歩美くらい可愛い人とならしてみたいけどね。だけど、道具みたいにはしたくない」
性欲の対象にするだけなら簡単だ。そんなことならいつでも、誰とでもできそうな気がする。
相手を選ばなければ、の話でもあるけれど。
澪は冷静になってそう考えた。
「……へぇ?」
「何ですか、そのジト目」
「チキンなのか、それとも女たらしなのか。澪君はどちらですかね?」
流石に、この言葉には澪も少しだけカチンと来る。
「歩美」
「何?」
リスのようにキョトンとした歩美を、澪は真っ直ぐに見つめた。
「俺、歩美の真っ直ぐな目、好きかも」
「ちょ、え?」
「物腰は柔らかそうなのに、芯はしっかりしてそうな強い眼差しをしてる。それにー」
徐に歩美の手を取った澪は、追い討ちと言わんばかりに声を繋げる。
「色んなことをして、頑張ってる手だと思うよ。荒れてて痛々しいけど、この手も俺、嫌いじゃない」
「ちょ、ちょっと!」
勢いに任せて手を戻した歩美の顔は、微かにだが紅のように染まっていた。
「そーやって女の子口説いてきたんでしょーもー!」
「思ったことを口にしただけだよ」
「手も出した。もー、じゃあ私も言うけど、澪は不思議すぎ! 普通、元風俗嬢とかなら、軽く抱けるとかそういうのでしょ。ほんっとにもー、調子狂うなぁ」
「嫌?」
「ん、んー……悪い気は、しないんだけどね」
そう言いながら、歩美は恥ずかしさを隠すようテーブルに顔をつけ、目を細めながらコップの輪郭を指でなぞっていた。




