ありのままに伝えるということ
仕事の休憩中にスマホを見ていると、久しぶりに由奈からの連絡が入っていた。
澪、今週の平日で時間ある?
何があったのか詳しくは知らないのだが、調子を取り戻したという話は澪も耳にしていた。
だが、もしかしたら積もる話もあるのかもしれない。
澪はそう思い、
休日出勤の休み入れてないから、木金だったら入れられると思うけど?
返事を返すと、すぐに既読が付いて返事が来る。
じゃあ、ちょっとご飯付き合ってよ。話、聞いて欲しいの。
* * *
俺、何してんだろ。
澪はそう思いながら、歩美の履歴書を眺めていた。
歩美が新たに望む会社は、IT企業。秋葉原にあるらしい。
以前渡した志望動機や、風俗店ということをさりげなくするためにサービス業勤務と訂正するなど、歩美の履歴書には変化も見られていた。
今回は、事前に履歴書の送付が必要らしい。その後、追って面接日の連絡が入るのだとか。
「うん、まぁ大丈夫だと思う」
「よっし、先生のお墨付きなら、とりあえず書類で落とされることはないね!」
次こそは、という意気込みの歩美をみても、澪の心はどこか不安定だ。
仕事の時は考えないようにしていたのだが、こうしているとどうしても考えてしまう。
「澪、最近冷たーい」
「そんなことないよ。あぁ、そうだ歩美。今週の木曜日、俺予定できたから」
「うん? どこかいくの?」
「だいぶ前になっちゃうけど、鬱になったって子の話しただろ? 由奈っていうんだけど、話したいって言うからさ、赤羽橋行ってご話してくるよ」
「ねぇ、それ私がついてってもいい?」
「俺としてはいいんだけど、相手側がね。話をしたい内容を言えなくなっちゃうこともあるからさ」
「ちぇー。澪の友達がどんな人か気になったのになー」
頬を膨らませながら膝を抱える歩美は、まるでふてくされた子供のようだった。
* * *
午後5時。赤羽橋駅。
澪は指定された降り口に向かうと、そこにはもう由奈が立っていた。
「ごめん、由奈。待たせた?」
「ううん。私も今来たところ」
「そっか、良かった。ところで……なんか、すごくお洒落してないか?」
長い丈のスカートに合わせた服装や、手を差しこんでも通り抜けそうな長い黒髪は、どこかのお嬢様のようだと澪に思わせる。
由奈の清楚な顔立ちもあわさって、それがより印象的になのかもしれない。
「変、かな?」
「いや、似合ってると思うよ」
「ありがとう」
由奈は少し気恥ずかしそうにして呟いた。
「で、どこで話す?」
「ねぇ」
「ん?」
「折角だから、少し羽のばそうよ」
由奈は、澪の両手を掴んだ。
勢い、に任せてなのかもしれない。
「いいけど。っていっても、どこか行きたいとこでもあるのか?」
「あそこ、とか」
由奈が指差した先にあるのは、地上から333mの高さを持つ名所。
東京タワー、だった。
* * *
そびえるビルや建物が、沈む太陽を削り取っているかのようだった。
辛うじて残った光が辺りに散らばって反射し、それなりの風景を見せてくれる。
澪は、その景色をただ真直ぐに見ていた。
「この時間には始めて来たけど、なかなか綺麗だよね」
由奈が隣で嬉しそうに微笑みながら、澪を覗き込む。
ところが、だ。
夕日は、終わりを示す心理的なキーワードであり、その一つ。
終わりは、新しい何かの始まりーか。
澪は、そんなことを考えていた。
考えながら隣にいる女性の存在に気づいて我に返り、
「こういうところは、もっと夜に来た方がロマンチックかもな」
何とかそう口にする。
イルミテーションによって飾られた東京。
その中心部はどのようなものなのだろうか。
「東京の夜景、見たことある?」
「ない」
「やっぱり、澪は損してるよ。このまま見てく?」
「いい。遠慮しとく」
「ほら、あっちも見てみようよ!」
「お、おい」
「いいからいいから!」
引っ張られるままに向かう先で、また景色を眺める。
「由奈、どうしたんだ?」
「私、彼氏とは別れた」
突然の言葉に、澪もいい言葉が出ない。
「それとね、今は一人暮らししてるの」
「何があったんだ」
「お母さんが、不倫してた」
「そう、なんだ」
不貞行為。
澪の頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。
法律用語の一つだ。
夫婦になったものには、自分を律することが必要になる。
決めた相手以外を求めるのは、犯罪である。
少なくとも、日本という国では。
そういう環境から離れたことで、由奈は落ち着きを取り戻し始めたのかもしれない。
良くないことから逃げるというのも、一つの手段だ。
誰だって嫌なものからは逃げたい。
逃げることも悪いことばかりではないのだ。
少なくとも、命を守るということに関しては逃げて欲しい。
だが、もう一つの手段もある。
戦うということだ。
何も、戦うということは誰かを傷つけるということだけではない。
自分自身の弱さと向か会う。それもまた、一つの戦いではないかと澪は思うのだ。
そして、澪自身も分かっている。
自分が逃げ続けてきたことを理解している。
だからなのか。あるいは、考え過ぎてしまっているからなのか。
どんな言葉をかければいいのか澪は悩む。
その最中――由奈は突然、無言のままに澪の胸に顔を埋めた。
「えっ?」
「澪」
由奈は、そっと澪の体に手を回すのだ。
「抱きしめて」
あの場面に遭遇してから、何度も何度も考えてしまったのだ。
騙されているんじゃないかと。
ここで、別の女の子を抱き締めることだってできる。
力強く抱きしめることはできるはずだ。
でも――違う。
これは、違うと澪は思う。
ただ、抱きしめて、寂しさを紛らわせたいだけだ。
寂しさを誤魔化したいだけだ。
それは、何かが違うと、澪は思うのだ。
「由奈、ゴメン」
ゆっくり体を引きはがすと、由奈の目が潤んでいるのが分かった。
「何で――私じゃダメなの?」
心臓に、太い針でも刺されたような感触が澪を襲った。
「ずるいよ澪は! 本当に酷い!! 彼女作らないって言ってたのに、この間……品川で一緒にいた子誰なのよ!?」
由奈は周囲の人間が二人を見てしまうほど大声で怒鳴りたてる。
澪からすれば、品川を一緒に歩いた女性など一人しかいなかった。
歩美だ。
「アイツは、特別だ」
「へぇ、あーいう子が好みだったんだ!?」
呆れたような口調をしながら、その声には怒りがにじみ出ている。
「顔はいいし、スタイルもよかったもんね!! でも、知ってるんだよ。あの子、元風俗嬢なんだよね?」
「どこで知ったんだ?」
「あたし、東京出身だよ? 知り合いには風俗やってる子もいる」
少しだけ落ち着いて来たのか、由奈はか細く「そんな子よりも、私のほうが」と呟いていた。
「怒るぞ、俺だって」
澪の声は、至って平静だった。
実際には、平静を保つことで、なんとか自分を取り乱さないようにしているだけなのだ。
「騙されてるだけだよ!」
「騙されてるんだったら、それでもいいんだよ」
観念したかのように涙しながら俯いた由奈は、再び澪の体にしがみ付く。
しがみ付いていうのだ。
「一回だけでもいいから、抱いてよ」
大げさすぎるかもしれない。
けど、キリストのような気分だ。
助けて欲しいという奴を、助けてやりたくても、助けられない。
自分の中にある正しさが、それを邪魔する。
自分がもっと違う人間だったなら……違う方法もあったんだろうけど。
澪は思った。
思って、決めた。
「ゴメン」
目を閉じ、ゆっくりと、息を吸って吐くようにして謝ると、由奈は容赦もなく押した。
設置された柵に勢いよく背中をぶつけながら、澪は一言も漏らさない。
漏らさないままに
「最っ低!!」
由奈の、地獄に落ちろと念を込めるかのような声を耳にする。
ヒールの音が遠ざかっていくのは恐らく、由奈が離れていくからだろう。
これだけの騒ぎだ。誰も近寄るようなこともしない。
それを知ってか知らずか、澪は呟くのだ。
「知ってる。誰よりも一番良く知ってるよ。俺が最悪で最低な人間だってのはさ」
澪は、自分が憎い。
憎くて憎くて堪らない。
だから、変わりたいと願うのだ。
強くなりたいと願うのだ。
悔しいと思いながら、苦しいと思いながら、澪は必死に自分の下唇を噛みしめた。
瞼を閉じたまま、暗闇の中で。
* * *
近づいて来る足音が耳に聞こえた。
「澪、大丈夫?」
俯いている自分に、正面から優しくかけるような鈴の音。
声だけでもう、誰なのか澪には分かっている。
「歩美、いつからいたんだ?」
「実はね、こっそりついて来ちゃったんだ」
澪の左頬に、冷たく、ひんやりとした感触があった。
ゆっくり目を開けると、悲しそうにする歩美の顔が目に映る。
「何で、抱いてあげなかったの? 女の子の気持ち、分かってる?」
歩美の言葉に、澪は何も言い返せない。
「一回、抱いてあげるだけでも、幸せを感じることだってできるんだよ?」
それを、わかっているようで、多分わかってなどいない。
「どうして、シテあげなかったの?」
それでも、優しく、穏やかな声は澪の耳を貫くのだ。
その言葉の一つ一つが、澪の心を苦しめていく。
耐えきれなくなった澪は、
「少し、黙ってくれ」
と、ようやく口にした。
それが精一杯だった。
だが、歩美はそこで終わらない。終わらせようなどとはしない。
「黙らない」
穏やかでも、それでも力強い響きが、澪の感情を突き動かした。
冷たい感触をくれる左手を払いのけ、胸のざわめきを一気に爆発させるようにして口に出すのだ。
「黙れよ! お前だって、他の男と一緒にいただろ? 頬にキスされてたよな」
「えっ?」
「随分とかっこいい男だったよなぁ」
「いつの話?」
「先週。先週の木曜だ。お前こそ、男の気持ち分かってんのかよ!」
「澪」
歩美は、目の前にいる男から目を逸らさない。
何を言われても、怒鳴られても、それでも目を背けることはしなかった。
「多分、澪が見たの、弟なの。」
「弟っていったって、血は繋がってないんだろ?」
冷静ながら、澪は怒っていた。
怒って、ありのままに感情をぶつけながら、最低だ、俺と――自分を戒めていた。
「俺は、歩美が幸せになれるなら、俺たちは、ここで離れるべきだと、思う」
器用な人間じゃないから。
だから、こんな風に終わらせることしかできないから。
それが嫌だった。
1か0か。有か無か。
それしか知らない。
それでしか測れない自分が嫌なのだ。
「澪は、私が幸せになれるなら、って言ったよね?」
歩美の両手が再び伸びる。
伸びて、澪の頬を捕まえるのだ。
「私の幸せは、私が選ぶの。誰かに選んでもらったり、誰かに与えられるものでもないんだよ」
歩美は、一度だけキュッと唇を引き締めてから、
「ねぇ、澪。本当のことを言って。私のこと、どう思ってる?」
そう、口に出した。
ありのままを伝えよう。
澪は思うのだ。
飾られた言葉なんかいらない。
真直ぐな思いのままでいい。
どう取られようが、どうやっていこうが、結局はもがいて生きるしかないのだから。
自分が避けてきた道なのだから。
だから、変わりたい。
変えて見せたい。
「好き、だ」
「っっっばかっ!!」
右頬を痛みが走った。
歩美に、平手打ちをされたのだ。
「バカバカバカバカバカバカ!!!!!」
その後も、何度も何度も澪は体を叩かれる。
叩かれてもしょうがないと思って、澪はそれを受け入れていた。
そうすることで気が済むのなら、いくらでも叩かれてやろうと思っていた。
けれど、数発殴られて終わる。
終わった後には、歩美がぬ根に顔を押し付けていた。
「澪が私のこと思ってくれてるくらい、私だって澪のこと思ってる!! 私なんかよりも、あの子のほうが絶対にいいじゃん!! 私みたいに薄汚れてないし、身も心も、キレイだよ!?」
泣きそうな声だった。
どうして泣かせてしまったのだろうと、澪は思っていた。
「そんなの知ったことじゃない」
「じゃあなんでフッたのよ!!」
「俺はお前が良いんだ!!」
飾らない感情のまま、澪はありのままに歩美を求めた。
歩美を求めて、抱きしめていた。
「お前じゃなきゃ、嫌なんだ!」
「バカ……言ってることさっきと違う」
「独占欲。それに、支配欲、だよ」
「バカ……本当にバカだよ、澪は」
食い縛るようにして涙をぬぐった歩美は唐突に「スマホ」と言いながら右手を差し出した。
「スマホ貸して」
「何をするつもりなんだ?」
瞼を赤く染めながら、歩美は言うのだ。
「何とかしてあげたいって思うくらい、大切な友達なんでしょ?」
そう、そこに間違いはない。
澪は、何とかしてやりたかったのだ。
部長の言葉は、きっかけでしかなかった。
かつて好きだった女の子に、友達として力になってやりたかった。
それだけのことだったのだ。
結果として、大きく傷つけてしまったのだけれど。
「そうだ。大切な友達の一人を、なくしそうだ」
歩美は黙って頷く。頷いて言うのだ。
「あぁいうお別れになっちゃダメ。だからね、一回。一回だけ、魔法をかけてあげる」
スマホのロックを解除して渡すと、歩美はラインを開いて文章を打つ。
「私に、任せて」
その言葉を、澪は疑うことすらしなかった。