ピエロを気取る人
都内のビル。
その一角が澪の所属する会社の本社だった。
係長や課長、他部署の人達や久しぶりに会った者達へ簡単に挨拶すると、澪はベランダへと向かって行く。
そこに、ターゲットが見えたからだ。
羽山由奈。
かつては、人事部で期待のホープとして担ぎ上げられていたほど優秀な人材、のはずだった。
彼女は今、ベランダに設置されたイスに座り、長い黒髪を揺らして夜風に打たれながらグラスを傾けていた。
「由奈、久しぶり」
澪はビール片手に、なるべく自然に話し掛けるようにした。
「澪。久しぶり。元気?」
「まぁ、程よくやられてるよ」
澪は苦笑いを浮かべた。
それもそうだ。何だかんだ言いながら、部長と会話した直後にはトラブルが発生しててんやわんや。
報告書作成に、トラブル対応表の作成と仕事も盛りだくさん。
「聞いたよ。リーダー研修の資料、澪が作ったんだって?」
「もう二年前の話だぞ、ソレ」
「最近メールもしてないしさ、なんだか言いづらくって。でもすごいね」
「できることをやってるだけだよ。そういえば……由奈、休みがちになってるって聞いた。大丈夫なのか?」
「うん。まぁ、良くないことが重なっちゃって、精神的に参ってるのかな」
「良くないことかぁ。色々あるもんな」
由奈、随分変わったな。昔はそう――もっとアグレッシブだったと思うけど。と、澪は思う。
「薬とか、ちゃんと飲んでる?」
「うん。飲んでるよ」
「そっか。俺も、鬱になった時は睡眠薬とか飲んでたよ」
「澪が?」
由奈は至極意外そうな声を上げた。
「そうだよ。寝付けなくて、やべーってなってさ。胃も痛くなって、あの時は大変だった」
「そうなんだ」
「うん。だからさ、困ったことあったら言えよ? 話聞いたりとか、それくらいしかできないんだけど」
「うん、ありがとう」
由奈は、小さく俯きながら、片手で持てるはずのグラスを両手に持って回している。
グラスの中では、水面がその動きに合わせ小さく揺れ動いていた。
「そんな風に、寂しそうにしてる君を見て、俺は少し心配になった。だから、気晴らしをしよう!」
「えっ?」
澪は、由奈の肩に手を当て、
「由奈、社内の飲み会終わったらもう一件行こう? 由奈みたいな綺麗な子と飲みたい気分なんだ」
少し影のある瞳を見つめながら、言い切る。
普段、こんなことを言えるような人間ではないことも重々に承知している。
のだが、これはやはり、歩美という人間から関っている成果かもしれないと、澪は前向きになって考えてみた。
歩美という女性は独占欲というものよりも、多くの人達に幸せになってほしいという願いのほうが強いらしい。
そのためになら、グダグダ悩まないで行動しろと言いきる始末だ。
「……社内でナンパ?」
「そんなつもりはないんだけどなぁ」
「私、彼氏いるんですけど?」
「彼氏がいる女の子を口説くとか、難易度高そうで面白そう」
適当な言葉が口から軽々と出てきてしまう。
よくもまぁ、数日でこんなになってしまうものだなーと、澪は自分のことなのに関心してしまった。
「なら、どうしてあの時……」
「何か言った?」
「ううん。なんでもない」
「では姫、注文の多い同僚のよしみで飲みにつきあってくれますでしょーかっ?」
などと言いながら、澪はピエロになる。
半分は不安で泣きそうになりながら。半分は笑っている。
そんな道化を演じながら、中世の騎士が姫をダンスに誘うかのようにひざまづいて頭を垂れた。
「しょうがない。同期のよしみだし、付き合ってあげます」
困った顔をしながら、由奈は差し出された手に自分の手を重ねると、客席からは「ひゅーひゅー」という声が上がったのだった。