5.歩くような速さで(Not knowing what to say)
終業式が終わったにもかかわらず補習なんかやって全員学校に集めやがる。大丈夫か、御崎高校……というのは貴司の弁だが、テスト後二日の休みをおいた後三日間補習と銘打って普通の授業だ。しかもテストが返ってくるぶん、普段より憂鬱さは色濃い。
「思いっきり遊べる最後の夏よ! 遊ばなきゃ損!」
両手を腰に当てて、灰原がそう高らかに宣言する。
「だからさ、誰も反対してないじゃん」
耳元でうるさいなあ、と俺は机に伏せたままで答える。
補習一日目、昼休み。夏休みを目前に控えた期待感と補習という無益な存在に対する疑念が微妙に混じり合う、独特の雰囲気を醸し出す教室。
「まあまあ、テストがちょっとくらい悪かったからってそうスネんなって」
「日本史だけはそうはいかないんだよ……」
午前中の四限すべてでテストが返され、三限までは思ってたほど悪くないという感じだったのだが、四限で返ってきた唯一と言っていい得意科目の日本史が落とし穴だった。
「でも斉藤くん、今回は結構難しかったじゃない」
「そうなの?」
励まそうとしてくれる“いつものメンバー”の中で俺以外に唯一の日本史選択、対馬のその言葉まで灰原が遮る。こいつだけは妙にテンションが高いままだ。
日本史の鴨志田先生のテストは難易度が低いことも手伝って九割台が出ることもそこそこあったし、八割を切ったことも一年の時から通じて一度もなかったのに、今回は七十二点。平均点が七十点強だというから、ほぼピッタリだ。得意科目だからといって侮ったのが良くなかったのか、でもそれにしても逆にいつも俺の日本史の答案を覗いてはすごいすごいと言っていた対馬は八割台に乗せていて、そのせいでそんな励ましも素直には受け取りがたい。午後からは数学も返ってくる。
「まあ、その辺まで含めてもう、盛り上がっちゃうしかないのよ」
灰原の論理は強引にもまた、そこに帰着した。
トイレに行って戻ると、灰原が俺の席に腰を下ろしていた。
・ 海
・ 夏祭り(神社)
・ 浦安のねずみ王国
・ 山
・ 空
・ 北欧
寄っていくと何やら机に色々と書いてある。ちょっと待てそれ俺の机だしシャーペンも俺のだし、しかも何だよ、特に後ろのふたつ。
「どうもありきたりねー」
「そうか?」
俺のそんな相槌を灰原は気にも留めずに続ける。
「やっぱり浦安のねずみ王国かしらねー」
「でも凜、浦安のねずみ王国って遠くない? だって浦安にあるんだよ?」
光原がそう口を挟む。どのくらい光原は乗り気なのだろうか。
「でもさ、浦安のねずみ王国に行ったところで結局貴司とふたりで行動するんじゃねーの?」
俺としては茶化したつもりだったんだけどどうやらそれは図星だったようで、俺がもうひと言ふた言付け加えると灰原はいきなり、トイレに行くと言って席を立っていった。
俺と光原と対馬が半ば呆然と出て行ったほうを見つめていると、貴司がおずおずと口を開いた。
「……なんかゴメンな」
「私、凜にあんな一面があるって気づいたの、結構最近なんだけど」
と、対馬。
「ときどき、ちょっと疲れたりしない?」
光原、結構言うなあ。
「うーん、でもまあ、好きだからねえ」
物怖じもせずにそんなことを貴司が言うので、俺たち残りの三人は腰砕けになってしまった。発言がイメージできなかったわけではないけど、それにしてもサラッと言ってのけやがる。
光原は言葉に詰まっているし、対馬はなんだか恥ずかしそうにしている。ったく、誰が収拾つけるんだよこの雰囲気。
「まあ、浦安のねずみ王国については再考します。……それぞれに予定もあるだろうし、みんなで行くとなるとなかなか限られてくるよね」
少し待ったけど灰原が帰ってくる風がないので貴司が話を進め始めた。結局、みんなで行くのは神社の夏祭り、あとはまあスケジュールが合えば街にでも繰り出そうか、ということであっという間にカタがつき、ついたころに灰原が戻ってきた。そして貴司が決定事項を伝え、ふたりの時は素直なのにね、と再び場を凍り付かせたところで予鈴が鳴った。
そうか、次は生物で席も替わるしな、と俺が机に消しゴムをかけつつ顔を上げると、言うまでもなく貴司は灰原に蹴られていた。化学選択の光原はすでに移動をすませたのかいなくなっていて、同じく化学選択の貴司も逃げるように教室を出て行った。
「ねえ凜、木田くんってやっぱりすごいね」
貴司が出て行ったのを確認して、対馬が灰原に話を振った。
「……私って、性格悪いのかなあ」
灰原はそれには答えずに、独り言のようにそうつぶやいた。そんなことないよ、と対馬がなだめる。
「そうかな」
「そうそう。いつも楽しいよ」
……なんか、今日の灰原は一輪車に乗れそうもない。
灰原は翌日にはそれなりに元に戻ったが俺のテストの悪い流れはなかなか元には戻らないようで、補習二日目の午前は古典がついに五割を切ったという大失態を筆頭に、またも思わしくない結果となった。
「和也、死ぬな」
今日も今日とて机に突っ伏している俺に、今日は貴司だけが構ってくれている。
「死ぬかも」
「どうして……どうして和也がこんな目に……」
「テストが悪かったからだよ」
ふたりでそんな会話をしながら、結局いくらか持ちなおして弁当を食べた。
「斉藤くん、ちょっと」
弁当を食べ終えたあたりでちょうど光原が教室に入ってきて、俺を呼んだ。
「今日放課後体育館裏、大丈夫?」
「オッケーオッケー。もう休みに入っちゃうしね」
学校での光原はやっぱりちょっと遠慮がちに落ち着いていて、でもその少しもじもじした感じも、それはそれで悪くない気もする。
「あ、あと……有働先生が呼んでた」
「えっ?」
「ほら古典、失敗したって言ってたけど、それじゃないかな」
でもわざわざオチをつけて、俺のテンションも落ち着けてくれなくていいんだけど。
職員室の入り口で、待ちかねたように先生は立っていた。
「おう、来たか斉藤。そこの第二面談室だ」
先生はおそらく見た感じ年齢は三十そこそこで、背丈は普通程度。授業の時は必要以上に男しゃべりで、そのせいか運動会などで着るジャージが異様に似合って見える。まだ結婚はしていないそうで、男っ気のあるタイプにも見えないが、本当のところは誰も知らない、というのが真相らしい。
「何で呼ばれたか、自覚あるか」
鍵穴に鍵を差し込んで回しながら、先生は聞いてきた。はい、と答える。こういう時まで男しゃべりなのか……怖いなあ。
「そっち側に座れ。クーラーつけてくるから」
そう言って一度面談室を出ていった先生は程なくしてやたら大きなクリアファイルを持って戻ってきて、座ってそのファイルの俺のページが開かれたころ、ようやくクーラーがやる気のない音を立てて風を送り始めた。
「今回は、どうした?」
まだ順位が返ってきていないのに、先生はそんなことを言う。こりゃ、先に覚悟しとけよ、ってことか。
「勉強のしかたが甘かったんだと思います」
「そうか。そう思うんなら、そうなんだろうな。全体的に少しずつ、落ちてるからな。ま、次はやれよ、としか言えないよな」
それから先生は、うーん、と俺の成績表と思しき紙に目を通して、言った。
「日本史はどうした? ガタッと来てるじゃないか」
「それは……得意だからそこそこでテスト受けたら、っていう」
むー、とうなる。コメントが貰えないのが一番不安だ。
「あとは、分かってるとは思うが私の古典だな」
「はい」
そうとしか言えない。中学の時から興味も持てずさぼり倒してきたツケなのか、高校に上がってからはたまのまじめに勉強したときも平均さえとれたためしがなく、しかもそんな中でも今回は最悪だった。
「古典は……嫌いか」
「はい、少しだけ」
先生のひどくからっとした人柄は、答えにくい質問も正直に答えさせる何かを持っている気がする。反射的に答えてしまった。
「今日はそれで呼んだようなものだからな。斉藤、授業は聞いてそうなのに……家では勉強しないタイプなのか」
確かに授業は聞いてノートもちゃんととるけど、そうなのかな。と考え込むと、先生は返事を待たずに続ける。
「ちょっとでも頭に残ってたらテスト前日に訳だけ見ておくのでもだいぶ違うぞ。嫌いでもいいから、点はとっとけ」
古典を教える先生にあるまじき、と言っていいような男らしい発言だ。
「勉強しろとか、あまり言わないんですね」
「お前みたいな根がマジメな奴は、点が取れるとやり始めるからな」
そういうのって俺に直接言っていいものなのかな、なんて思っていると、先生はばさっとファイルを閉じて、言った。
「まあ順位はそこまで落ちてるわけじゃないから心配するな。これを機に気合い入れてやっていけば、まだグッと伸びるぞ」
「はい」
なんとなく、こういうのがいい先生なのかな、と思った。
「それとだな、あとひとつ」
背もたれに寄りかかったり寄りかからなかったりして体をゆらゆらさせていた先生は、そう言って重心を前に移し、少しだけ身を乗り出して言った。
「なあ、光原と仲良くしてるのか」
えーっと。
「はい、そうですけど」
あっ、また言っちゃった。
「いや、あいつな。朝いつも予鈴が鳴ったころ教室行くだろ? あれってな、私らの職員朝会ギリギリまで私としゃべってるからなんだ。知ってたか?」
「いえ……」
仲がいいとは思っていたが、それは知らなかった。
「去年の秋口からずっとだな。光原は去年の私のクラスだったんだが、クラスになじめてない感じだったから呼んでみたら、今でもあんな感じだよ」
「そうなんですか」
「あんな噂があるだろ……それで一時、女子ともうまくいってなかったりもしてたみたいなんだ。でもまあ、その辺は灰原のおかげかな。そうかと思えば今年になって、お前とか木田とか。もう大丈夫そうだな、とは思っているんだが」
先生の口から呪いの話が出てきたのが意外で、俺がその旨を告げると先生はふふっ、と笑って、だけど何も答えてくれなかった。そしてしばらく黙った後で、困ったらいつでも何でも相談しろよ、とだけ言った。
「若者がひとりで悩んでたって疲れるだけだろ。もっと大人を頼れ。歳だけはまがりなりにも食ってきてるんだからな」
女の人とは思えない、独特の言い回し。
「先生もそこまで歳いってないでしょ、でも」
「何言ってるんだ。あたしゃもう、三十六だぞ。四十路一直線だ」
……。
本当に、読めない人だ。
教室に帰った頃に予鈴が鳴って、午後の授業は成績のことで呼び出しをくらったばかりのくせに久しぶりに居眠りをしたりしながら、なんとか乗り切った。
放課後は光原と約束通り体育館裏で会って、有働先生の話をしばらくした後、灰原の話になった。
「ねえ斉藤くん、最近凜、ちょっとおかしいと思わない?」
「なんだかキャラ変わってきた気もするよね」
どうしたのかな、と光原はつぶやいて、口をつぐんだ。この時間はちょうど日陰になる体育館裏に、生ぬるい風が吹き抜けた。
「なんか、張り切りすぎてるのかもな」
「仕切るの好きそうだもんね」
張り切りすぎている気がするのは、本当だ。だけど最近それがひどくて、ちょっとみんなをまとめるのにやっきになっているような感じもある。最初の繋がりが呪いだった俺や光原を、そして光原とはそのまた繋がりである自分の彼氏、貴司を、仲良くしていく上でひずみが起きないように、と頑張っているのかもしれない。
昼休みの先生の話も考え合わせれば、それが一番もっともらしいように思える。
「もっと楽にしててもいいとは思うけどね。友達なんだから、って思えば、背負い込んで欲しくはない」
「凜はマジメだからね。小学校の時なんかずっとクラス委員やってて、中学でも生徒会にいたらしいから……そういうところ、あるのかも」
だけどやっぱり昨日の昼休みは空回りが過ぎたんじゃないのかな。結局何も、解らなかった。
でも灰原がクラス委員だ生徒会だってのは、なんとなく予想通りだったけど。
その後夏休みには連絡して会おう、と半ば再確認にも近い形で約束をして、いつも通り一時間で、俺たちは別れた。電話一本できっと毎日でも会えるのに、夏休みになると発生するそのひと手間が妙に重そうに思えて、俺は物心ついてから初めて、夏休みなんか来なければいいのにと思った。
だけど当たり前のことだが夏休みはやってくる。
最終日のホームルームで成績表が返されて、先生の言った通り意外にも順位が落ちていないことに少しだけほっとした。
そして夏休みに入ったその日に、何の因果か風邪を引いた。
なんだか体が疲れているような気がしたのでエアコンのタイマーをいつも通り一時間にセットして早めに寝ようとしたが、体が火照るような感じがしてなかなか寝付けず、タイマーのほうもあと三十分、あと三十分と延ばし、設定温度も結局二度下げてしまって、元々風邪気味だったのがそれで決定打になったらしい。
「和也―、熱はどうだった?」
「三十八度一分」
母親は夏休みの間だけ普段パートのない日の昼間にもパートを入れてしまったので家にはいない。父親の単身赴任に伴って一大決心をして仕事を辞めたというくらい普通に働いていた人で、家でぼやっとしているのは性に合わないらしくやたらと何か働きたがる。まあパートだし、と思っていたがこの前自分で税金を申告して払わなければならないと言っていたからそれなりには稼いでいるらしい。
「食欲はー?」
「ない」
「じゃあ寝てたほうがいいんじゃない?」
必要以上にがちゃがちゃと音を立てながら未来が前夜からのぶんの食器を洗っている。そのせいかいつもに増して語尾が間延びしていて、頭痛も手伝ってかいくぶん耳につく。
「そうするよ」
そう短く答えて部屋に戻ったが、さほど眠れていないはずなのに明るい部屋ではなかなか寝付けないもので、現代文の授業で強制的に借りさせられた図書室の本が机の上に置いてあったので手に取り、読みたくもないのにぱらぱらとページをめくりつつベッドに寝そべってみたりしていた。
そんなのにもいい加減飽きたころ、ちょうど十時になったといういいタイミングで未来が部屋に入ってきた。こいつ、いつからノックしなくなったんだっけ。
「和也、ヒマでしょ明らかに」
「そりゃそうだよ」
とりあえず俺の学習イスに座って、未来はいきなり長居の体勢だ。俺がもう一度本に目を落として黙っても未来は未来で黙ったまま右の膝だけ抱いて膝頭にあごを付け、床に着けた左足を軸にして左右に六十度くらい、ゆーらゆーらと回っている。
ヴヴヴ……
それから三、四分してだろうか、そんなよく分からない感じの沈黙を破ったのは、俺でも未来でもなく携帯のバイブ音だった。俺の携帯かもとも思ったが、未来がすぐにポケットから自分の携帯を取り出した。しばらくディスプレイを見て、口を開く。
「あ、和也。澪さんにお見舞いに来てほしかったりする?」
下世話なこと考えないで、放っておいてくれればいいのに。
「ほら」
見せびらかすように突き出された未来の携帯のディスプレイには何やらメールが表示されていた。
差出人は“みおさん”。どのタイミングでアドレスを交換したのか、俺は知らない。
うそ!? 大変だね。昨日は普通にしてたのに。
大丈夫そう? 私も特に用事ないし、今も家にいるから、
行っちゃったりしてもいいかな?
俺はにらむように目を細めて(頭が痛いからだ)その文面を読み終えた。
文字ばかりのシンプルな文面。これまでに知ってはいたけれど、必要最小限しかメールのやりとりはしてこなかったから、まだ慣れない。女の子のメールって、もっとごちゃごちゃしたものだと思っていたのだが。
「なあ、お前は最初に何て送ったんだ?」
「うーん? 『お久しぶりです。和也が三十八度の熱を出したので、心配してあげてください』って」
携帯を閉じながら、未来はなんでもないことのように答える。
「なあ、どうしてそんなことするんだ?」
「来てほしくないの?」
俺が言葉に詰まると、未来は勝ち誇ったようににやあっ、と笑った。
「決まりね。さあ和也、片付けしなくちゃ。澪さん来ちゃうよ?」
来て欲しいなと、ちょっとだけ思ったことは懺悔する。
が、しかし……なあ、ちょっと。
宣言通り、未来はわやわやと俺の部屋を片付け始めた。
昨日帰ったままで放ってある鞄を机の下に入れることから始まり、適当に机の上の本立てに立ててある教科書類を手際よく大きさ別に並び替えていく。プリント類や収まりきらない教科書は手提げの紙袋にしまい、積んであったマンガ雑誌と一緒にすっかり納戸として使われている父の書斎に持っていってしまった。
「どうしてこんなに物が多いかなあ。元気になったら持って戻るのよ」
言いながら、シュシュッ。ニオイすっきり。
自分の部屋を目の前で消臭されるのは、あまり気持ちのいいものではない。
ひとつ空気抜きに開けてあった窓をもうひとつ開けて風を通し、消臭芳香剤独特の匂いも消散した。そんな素晴らしいまでの外ヅラ作りが終わったころ、チャイムが鳴った。
寝転がったままでいた俺は立ち上がったが、そういえば自分は病人だと思い直して窓をひとつ閉めただけでまた横になり、待つことにした。
寝転がった時の衝撃でまた少しだけ、頭が痛んだ。
光原が部屋に来るまでに、思っていたより時間がかかった。
閉じられたドアのほうからきゃっきゃ、という未来の声は聞こえてくるが階段を上ってくる音はなかなか聞こえず、俺はやきもきしながらベッドの上で上半身を起こしたり倒したりしていた。
それもいい加減頭が痛くて止めたころにようやく足音が上がってきて、俺はタオルケットの中で体を硬くして待った。
コンコン。
「斉藤くー……」
澄んだノックの音ふたつの後、ドアのすぐ向こうにいるはずなのに妙に遠くから聞こえるような声で光原が俺を呼んだので俺は体を起こしたが、その声を遮って未来ががちゃっ、と情緒のない音を立ててドアを開けてしまった。
「ちゃんと起きてるんだから」
妹よ、お前には日本人の心というものが足りない。
「おはよう、でいいのかな」
「こんにちは、よりはおはようのほうが言いやすいよね」
「いつも言ってるからね」
そんな感じのまったりした、体育館裏での話しはじめみたいなテンポで俺と光原の会話は始まった。未来の元気のいい、少しきいきいした声が嫌いなわけではないが、こんな状況だからやっぱり、光原の落ち着いた声が耳と頭に心地いい。
「じゃあいつも言えないから、こんにちはにしようかな」
「うん、じゃあ……こんにちは」
俺たちのそんな時間のかかる挨拶に苛立っているのか、光原の二歩半ほど後ろで未来はやきもきした表情をしている。
「意外にすっきりした部屋ね」
軽く周りを見わたしてから、光原は言う。
「“意外に”?」
ほんの冗談のつもりだったのに光原はやたら恐縮して、なんか男の子がきっちりしてるってイメージが持てなかったから、と細く答えた。俺が微笑み返しでいると、とうとう未来は我慢の限界だという風にしゃしゃり出てきた。
「あーもう、澪さん。部屋はあたしが片付けたんです、みっともないから」
そして光原が、そうなの? と尋ねてしまわない間に部屋を出て行ってしまった。
「そういうことです」
ばつが悪くなって俺が頭をかきながら言うと、光原はもう一度、優しく笑った。
それからいくらか病状について話した後、十五分ほどいつもよりさらにゆったりしたペースで俺と光原は他愛もない話を続けた。俺は熱を出したとき決まって死んだ自分を客観的に見て悲しみ続けるという悪い夢を見るので、今朝方もそれを見たという話をした。光原はいつもではないがだんだんと指がなくなっていく夢を見るという。そして、でも同じような夢を病気するたびに見るという人を自分以外に知らなかった、というので意見が一致した。
「やっぱりみんなあるはずだよねえ」
「俺もそう思うんだけどなあ」
「ねえ、ほんとに」
でも俺は、まなじりをずっと下げたままでいる光原の笑顔の優しさに、悪夢さえ溶けていく気がした。前髪が伸びてきたからなのかそれとも暑いからなのか、少しヘアピンで髪を上げているのも、なんかいいな、と思った。
「それ――」
がちゃん。
「澪さん、紅茶入れたから飲もうよ。和也は休んでないといけないんだし」
これ以上ないほどにむかつくタイミングで未来が登場した。
「あ、そうね。ごめんね、私ったら」
しどろもどろに謝った後、光原はまたまなじりを下げ直し軽く首を傾げ、まるで「しょうがないわねえ」とでも言うかのように気持ち肩をすくめた。
未来に手を引かれて部屋を出ていくその姿は、背丈の違いも手伝っていくぶん母娘のそれにも見えた。
ふたりが出て行った後、程なくして俺はうとうとし始めたらしい。深くはないが、眠りに落ちていたようだ。そこまで自分の寝覚めを意識している人はあまりいないかもしれないが、俺は目覚めたときまず意識だけが戻る。そして意識だけで夢の中から戻ってきたことを確認し、確認が出来しだい体も目覚めて起き上がる、という感じだ。その作業にさほど時間はかからず、目覚ましなどを使わずに自然に目覚めたときの寝起きは悪いほうではない。
「ひゃんッ!?……」
そんな感じでいつも通り体を起こしたのだが、隣でいきなり光原がそんな驚いたような声を上げたので俺のほうも驚いてしまい、現状把握にいつもより時間がかかった。目を開けたときにはベッドの脇に腰かけていた光原は、俺が完全に意識を取り戻すころには立ち上がって二歩下がっていて、少し顔を赤くしているように見えた。
「えーと俺、起きないほうがよかった?」
「いやそんな、ちょっとびっくりしただけ。あのっ、私もう帰るから、だから、えーっと、ごめんね。私が来たいから来ちゃったみたいになって、結局何もしてあげられなくて。……じゃあお大事に、ゆっくり休んでね」
光原はやたら焦りながら部屋を出ていった。
結局何も、ってことは、もともと何かしてくれるつもりだったのかな。
うまく目覚めることに失敗した俺の頭は、そんなことをぼうっと考えていた。
それからすぐ未来が、これ澪さんが持って来てくれたのよ、と大きめのコップに入れたスポーツドリンクを運んできた。光原は大きいペットボトルで持ってきてくれたらしい。さすがにエアコンを点けなかったからかひどく汗をかいていて、そのスポーツドリンクは染み込んでいくようで気持ちよく、飲み干したころには体も少し軽くなっていた。汗の染み込んだシーツでは居心地が悪くなったのでそのまま立ち上がり、空のコップを持って未来と一緒に一階に下りた。
ソファーに腰かけてテレビを点けるとそこでやっと昼を過ぎていることに気付いて少し焦った。チャンネルを回しているとちょうど、サングラスの司会者がお決まりのセリフを言っていた。
「なあ、未来。お前朝めしと昼めしどうしたんだ?」
「朝は早起きしたからお母さんと食べたよ。お昼はさっき、澪さんとそうめん食べた」
「光原と? 光原が茹でてくれたのか?」
「へへへ……わかる?」
「当たり前だ」
ちょっとだけ気合いを入れて立ち上がり台所のほうへ行くと、皿も鍋もザルも、そして紅茶のカップも綺麗に洗ってある。
「洗ったのは?」
「一応、ふたりで」
「そうか」
何か自分も空腹を感じるには感じたが、結局そのままなんとなく部屋に戻ってしまい、なんとなく汗の匂いの残るベッドに横になった。そしてすぐにまた眠り込んでしまった。
枕元に少し、いい香りがあった気がした。
結局目を覚ましたのは夕方で、階段を下りていくと母親が帰ってきて料理をしていた。だいぶ気分もよくなったので熱が下がっているか測るつもりでいたのだが、母親が明日は休みをとったからゆっくりしなさいなんて言ってきたのでやめてしまった。どうせ明日も安静か、なんて思いながら母親の中年っぽいねちっこい語尾の話をしばらく聞いていたのだが、どうやら母親は俺がそうめんを茹で、食器を洗ったと思っているらしい。未来がどうやらそう伝えたようだった。
スポーツドリンクのことも追及されたので、それは未来が買ってきた、と言っておいた。
翌日は本当に終日部屋に幽閉されたのでずっと漫画を読んでいたところ、昼ごろに灰原からメールがあった。明日空いてたら遊ぼう、というもので、さすがに明日は出られるだろうと思ってそのまま同意の返信をした。そして立ち上がり着ていく服を選んで椅子の上に置いた後、はたと思いついて熱を測ったら平熱だったのでまたベッドに戻って漫画を再開した、そんな一日だった。
そして夜十一時ごろに寝たのだが、さすがに寝すぎだったのか六時半には目を覚ましていつもするように携帯をチェックすると、日付が変わったころに灰原から時間と場所を指定したメールが届いていた。十時に駅前、か。
階下に下りていくと何やら料理をしているような音が聞こえてきた。何かしら食べ物の匂いもする。台所に顔を出すと、未来が母親と一緒に朝ごはんを作っていた。
「あら、早いのね」
「昨日も早く寝たから」
「熱は?」
「昨日のうちに下がってるよ」
俺と母親がそんな会話をしている間にも未来は味噌汁用なのだろうネギを必死で刻んでいた。母親はそちらのほうもチラチラ見て、そう、そう、気をつけて、などと言っている。
「どうして未来がネギ切ってるの」
「この子も味噌汁ぐらい作れないと将来大変でしょ」
「料理ができる女子って思ってるほどいないと思うよ」
「ええ? でもできて損はしないんじゃない?」
未来は危なっかしい手つきで、一心不乱といった感じにネギを刻んでいく。少し口を尖らせ、目を細めている。
「この子も何を言い出すかと思えば『料理できるようになりたい』って……好きな人でもできたのかしら。和也がいないとき困るから、なんて言い訳して」
未来はそこでやっと、顔を真っ赤にして手を止めた。
「んもう! お母さん、ちょっとは黙っててよ!」
母親はそこで洗濯が終わったことを告げるメロディーがちょうど鳴ったのをいいことに逃げていってしまった。仕事をしているからなのか、ああいう感性は若いよな。
後を任された俺だけど、もうほぼ出来上がっていたので特にすることはなかった。
「そんなにたくさん切ってどうするんだ」
俺がそう言うと、未来はまた顔を赤くして、そっか、と言った。
「なあ、母さんには俺がそうめん作ったって言ったのか」
母親が物干しに上がったのを確かめて、俺は未来に尋ねてみた。
「言った。めんどくさかったから」
「スポドリは?」
「聞かれなかった」
包丁を置いてまな板を流しながら、だけど口は尖らせたままで未来は言う。
「あれは俺が、未来が買ってきてくれた、って言った」
それには特に反応を示さずに、未来も聞き返してきた。
「あのさあ」
「なんだ」
「和也と澪さんって、付き合ってんの」
俺は食卓の椅子を引いて座ろうとしていたが、ちょっとした動揺もあってか椅子に足を踏ませてしまった。小さく声を上げてしまったが、何とか平静を装って座った。くそう、地味に痛い。
「付き合っては、ないよ」
未来は表情を変えなかったが、意味深に溜め息をひとつついた。
「じゃあさ」
予想できない質問ではなかった。
「じゃあさ……好きなの?」
ただ、そこまで考えが及んでいなかっただけだ。
公開のために読み直しながら、自分の文章力・描写力の無さに辟易中です。
この章の展開は映像的すぎて更にその傾向が顕著。少しゆっくり読んで……って、遅いか。