4.君が見せた笑顔(Her bright aspect)
さて、テストも明けた。終業式での校長の長い話も明けた。
ホームルームの後、散々貴司に茶化されながらも俺は光原と場所と時間の確認をして、俺は先に帰った。光原のほうが結構家が遠いから、しばらく学校で時間をつぶした後直接塾のほうに行くのだという。まあもっとも、持って行けばいい材料とかそう言うことも含めて前夜にほとんど電話で詰めてあるから、本当に確認にすぎないんだけど。
いつもより少しだけ飛ばして家に帰ると未来はもう準備を済ませていて、帰るなり俺をせっついてきた。
「ねー和也、まだ? あたし結構待ってるんだけど」
「わかってるって。でも、時間はまだあるの。言ってあるだろ?」
「でもはーやーくぅー」
そんな感じでまずシャワーを浴び、出てきてもなお未来はからんでくる。
「ねーねー和也」
下の名前で呼ばれていることがやっぱり少しだけ気になったけど、うん。光原なら大丈夫だろう。
「何だよ」
「今日さー、何作るんだっけ」
「バジルのパスタとラタトゥイユにしようかな、と」
「気合い入りすぎー。普段はお昼ごはんなんて、うどんそばそうめんのくせに」
うすうす解ることは解るんだろうけど、これを光原の前で言われないように祈るばかりだ。こいつのことだから、頼んでおくと絶対何もかも話す。だからとにかく、祈るだけ。物理的にも精神的にも距離が近いから、突拍子もない秘密も知られていたりするし。
「うるせーな」
「いいから和也、早く行こうよ」
「待ち合わせは十一時半なんだぞ?」
「いいじゃん、早く行っても……そうだ和也、エプロンどうするの」
ああそうか、エプロン洗ってねえや。いつも使ってるのはよそに出せる代物でもないし……まあ、いいか。
「ねえ」
「もうしょうがないだろ。なくても何とかなるよ」
「じゃあえーっと、あのね」
いきなりそう言って、てってっと和室のほうに入っていったかと思うと、ベージュの四角くて分厚いビニール袋を持ってきて俺に手渡した。受け取ると、ちょっとした重みがある。
「エプロン、買っといたの」
ちょっと照れたような顔で未来は言った。妙なの選んだんじゃないかと疑ったけど中を見ると意外に普通で、ベージュが基調でひもと腰回りはチョコレート色、そしてベージュの部分には赤茶系統の色の正方形が並んでいて、チェック模様に仕上がっている。
「え、いいじゃん普通に。どしたの?」
「んー、誕生日にはエプロンあげようって前から決めてたんだけど、いい機会だと思ってテストの後で選んできちゃった。ちょっと早いけど」
俺の誕生日は八月十七日だ。ついでに言うと未来の誕生日は八月二十四日で、俺はここ何年かはケーキを作ってやっている。プレゼントは人に選んでもらいたいけど、やっぱりある程度は自分が欲しいものが欲しいというわがままがちょっと形を変えた結果だ。
「へえ……ありがとう、助かった」
「じゃあ今年も、よろしくね」
まあ仲のいい兄妹ということでよろしいんじゃないかとも思う。でも毎年夏休みの宿題を追い込んでいる時に凝ったケーキを作らされるのは勘弁願いたいものでもあるのだが。
そんな俺の心中を多分知らずにへへへ、と笑う未来の、髪を高い位置でふたつにまとめた頭を、ちょっと撫でてやる。物心ついたときから何度も見てきた、何とも気持ちよさそうな顔をする。こいつこれで中三か、大丈夫かよ……と我に返りそうになるのを一応抑えて、そろそろ行くぞ、と言った。たまに貴司に言われるけど、もしかしたらやっぱりシスコンなのかも知れない。
そしてふたりで佐野塾まで歩いた。着いたのは時間ギリギリだったけど、同じくらいのタイミングで自転車に乗った光原がやってきた。またしても「ごめん、待った?」「今きたところ」の後、光原は未来のほうを見て何か言いかけたけど、未来がいきなり口を開いてそれを遮った。
「あっあたし、未来です。妹です」
明らかにテンパっている。いやいやそんなに緊張しないで、と光原は言ったけど、未来のその焦った様子は俺が初めて呼び出された日の光原のそれに少し似ていた。
そんな風なファースト・コンタクトだったにもかかわらす、三人並んで歩く間に(なんと俺が真ん中! 誰か友達に見られたら貴司じゃなくても喜んでネタにしかねない)未来と光原は妙にうち解けて、すぐに“澪さん”“未来ちゃん”で呼び合うようになった。そして未来が早くも、そしてどこか予想通り「うどんそばそうめん」を言ってしまった頃、時間にして十分強かかっただろうか、光原の家に着いた。
事前の話どおりそこそこ大きな家で、だけど入れてもらった玄関から見えた向こうは少し薄暗く、中に誰もいないということがすぐに判った。時計を見ると、もうすぐ十二時。いい時間になるので早速、俺は料理に取りかかった。
ちょっと着替えてくるから、と言って自室に光原が入っていったので部屋は少ししんとなったが、すぐに未来が口を開いた。
「和也、澪さんいい人だね。ちょっと背が高くてびっくりしたけど」
「そうだな……でもそんなに背、高いか?」
「だってあたし、和也の知り合いで女の人っていったらあとは対馬さんぐらいしかわかんないし」
対馬と未来は小学生時代に町別班でのつながりがある。そして対馬の背丈は未来と同じくらい、百五十センチ台半ばあたりだろうか。光原は俺より少し低いくらいだから明らかに百六十センチ台、四捨五入したらもしかしたら百七十センチになるかもしれない。だとしたら結構高いな。灰原より少し高いくらいっていう印象があったんだが……あ、それはただ灰原が大きく見えるだけのことか。
「何ボーッとしてんの」
未来がそう言ったあたりで光原が着替えて戻ってきた。
修学旅行もまだだから光原の私服姿は初めてお目にかかることになる、下はジーンズ、上は水色のTシャツ。ジーンズが細いのも手伝って足がやたらと長く見える。Tシャツは完全に普段着といった感じだがそれでもやっぱりすこしぴちっとしていて、胸元は……予想していたよりは、すとんとしていて……ほらあれだ。モデルさん体型。そうそう、そうだ。
「よそ見しない」
未来にちょっと睨まれた。はいはい、と返事をする。だって、わき目もふらないのも失礼じゃんかよ。
「これから人と会う用事とかないよね? ラタトゥイユ、ちょっとだけニンニク入るから」
「あ、うん大丈夫。声かけしながら料理なんて、随分慣れてるのね」
「あんまりしょっちゅうじゃないけど、和也は器用だからね……って、澪さんウエスト細すぎー。うわコレ、しかもこんなにくびれてる、いいなぁー」
ちらっと目をやると、未来が後ろから光原に抱きついている。その辺にしとけよ、とか言いたくなったけど、やめた。光原のほうがむしろ、楽しそうに見えたから。
さて、だいたいの下ごしらえが終わって、いよいよここからが本番だ。
料理に関しては完全に我流だから結構非効率的で、ラタトゥイユの材料もパスタの材料もずらっとまな板に並べてしまう。トマト・ナス・ピーマン・タマネギあたりなんか微妙に混ざってしまっていて、これ以上悪化してしまわないうちに取りかかろうとしたら、ちょうどそのタイミングでふたりがやってきた。
「和也ー、おなかすいたー」
「私も見学させてもらいまーす」
そんなことを言いながらふたりしてキッチンの入り口に座り、特に未来はきんちょーしてる、とかエプロンの後ろたて結びになってる、とかなんかムダな動き多くない? とか散々好き勝手なことを言う。
光原は新しいエプロンを似合っていると言ってくれて、未来とふたりしてちょっと照れていたら、同じ顔してるね、と笑われた。
実はメインのパスタのほうはそこそこ作り慣れているから正直楽なのだが、張り切っていつも作らないのに付け合わせにしようと作るラタトゥイユのほうがちょっと大変だ。手順はあまり難しくないのだが、何せだいぶ前に一度作ったきりだ。大丈夫かな。
パスタを茹でる準備をしつつ、固いものから順に、途中でニンニクを足しながらオリーブオイルで炒める。それから塩コショウと小瓶で持ってきた白ワインを大さじ二杯ほど足して、とろっとするまで煮込む。なんとかパスタが出来上がった少し後くらいで出来上がり、まあとりあえず成功といったところか。
盛りつけまで終わったところでふたりは拍手をくれた。でも普段と違って、というわけでもないけど今日はなおさら美味しくなくちゃいけないから……どうかなあ。
皿を運びながら時計に目をやった。ささっと作るつもりだったのに、もう三十分近く経っているけど、まあいいか。空腹もきっとスパイスになってくれるだろう。
結論から言うと、大成功だった。
光原の性格を考えると、そしてまあ未来もそこそこの常識はあるのでまずいと言われることはないだろうとは思っていたが、それにしても出来すぎなくらい褒めてくれたし、未来も「これをいつも作ってくれればなあ」とけなすことも忘れなかったが料理自体は美味しいと何度も言った。バジルは夏バテに効くから、と言うと、そこは「おばちゃんみたい」としっかりツッコまれたが。
そしてしばらく三人でいろいろと雑談をした後さあ片付けかな、と立ち上がると、それは光原に遮られた。
「まあまあ、お皿くらい洗わせてよ。なんか悪いし」
そんなに気をつかってもらわなくても、とも思ったけど、テスト疲れも抜けきっていないしそこは甘えておくことにした。
今度は俺と未来が、台所の入り口に体育座り。
「未来お前、座りっぱなしじゃんか」
「だって、そういうことになってるじゃん」
未来と俺が小突きあっていると、光原が手を止めずに尋ねてきた。
「そういうこと、って?」
「和也は食事担当で、あたしは掃除担当なの」
「へえ」
「俺らさ、父親の単身赴任が決まった時小五と小三だったんだけど、まあ母親も働いてるしさ、俺らも家のことしなくちゃいけないな、って思ったときにもう分担したんだよ。どうしてこうなったんだっけ」
「包丁や火を使わなくちゃいけない危ない方が和也、でしょ。それにしてもあたしたち、それまであんまり手伝いとかしない子供だったよね」
そうなの? と少しだけ手を止めて、光原はこちらを見た。ふたりでうん、と肯定の返事。
「でも俺は掃除普通にできるぞ」
「ダメよ和也はガサツだから。整理能力まるでないじゃない」
言い合いをしながらぼうっと見上げる光原の横顔が少し緩んで微笑みを作る。
「斉藤くんちはにぎやかで楽しそうね」
「あとは母親だけだけど、まあそれなりにね」
そこはどうしても気の利いたことを言えずに、でも光原はふふっ、と今度はちょっと声を出して笑った。
「ちょっと澪さん、トイレどこですか」
「そのドアだけど……二階のトイレはウォシュレットついてるよ」
「あ、じゃあそっち借りまーす」
とにかく何か言わなくちゃ、と思考を巡らせているうちに未来は光原とそんな会話をしてから立って階段を上っていった。俺はひとりで座っているのもちょっとやりにくくなって立ち上がり、キッチンの戸のない入り口のへりにもたれた。
「……ありがとう」
そんな俺に向かって、あらかた片付け終わって石けんで手を洗っている光原は自分の手を見つめたままで言った。
「料理ぐらいいつでもするよ。美味しいって言ってくれて、俺も」
「違うの。あ、それもあるけどでも、あのテスト前のね。ひとりで我慢しちゃダメって言ってくれた時。すごく、すごくね、嬉しかったんだ。凜や冴や、他の女の子の友達はね、何があっても普通に接してくれて、すごく助けられてきたんだけど、やっぱりああいうのが、なんて言うのかな、まっすぐ嬉しいの。家帰ってからありがたかったな、って思うんじゃなくて、その場で。だからありがとうね、私が巻き込んだようなものなのに」
俺はそこにはすぐに反応した。
「うん、でも……最初はお前からだったかも知れないけど、そういうのっておかしいよ。今日誘ったのだって俺だしさ、今は楽しいじゃん。あんなの関係ないって」
「そうかな……そうだね。そうだよね」
「そんなに恐縮しなくてもいいよ」
「いや、あのね。ドキッとするんだ。慣れなくて……私ってこれまで生きてきて、まともにお前って呼ばれたことないから」
てへっ、といった感じで光原は舌を出した。
すいません、俺もドキッとしました。
階段を下りる足音が聞こえて、俺はさっきの位置に座り直した。でもすぐに光原はその俺と戻ってきた未来に、タオルで手を拭きながらリビング行こう、と促した。
そしてそこから二時間ほど、また雑談をしていた計算になる。
正直時間なんか気にならなかった。二時間ってのだって、気づいたら二時だったからそこからの逆算だ。
一応男ひとり女ふたりでなんとなくアウェー感はあったけど、それはそれでまあよくて、むしろ未来がいる分ふたりで話している時のようにしんみりすることはなくて、光原もなんだかいつもより楽しそうで、未来を連れてきたのは間違いじゃなかったな、なんてひとり心の中で確かめたりしていた。
四時になったことに気づいて、誰からともなく帰る雰囲気になった。光原はまだ早いからもう少しゆっくりしていけばいいのに、なんて言ったけどそれにはお礼で返しておいて、また来るからね、と言う未来に合わせ、また来ような、なんて言って大きめの玄関から光原の家を後にした。
家までの少し長い道のりを歩きながら、少しほうっとした気分で未来と話をする。
「楽しかったね、和也。期待してたよりももっとね。思ってたより澪さん明るい人だったし、思ってたより料理も美味しかった」
俺は左手に材料の残りとエプロンを入れた手提げだけを持って、未来は手ぶら。昔からの少し近い距離感で並んで、半袖の右手には未来の体温が伝わってきている気がする。
「思ってたより、は余計だぞ」
未来とこんな風に並んで長く歩くのは多分しばらくぶりだ。
「だって、あたしがいても気まずいだけだと思ってたんだもん」
「そうなるんだったら連れて行ってないよ」
逆に、こっちだって思ってたより打ち解けてくれて助かったくらいだ。でもそれは、口には出さないでおく。
「何で料理、作ろうと思ったの?」
「何で、って?」
「だってさ、失敗するかもしれないし、作り慣れたメニューなわけでもないし、男がいきなり料理作り始めたら、引いちゃう人だっているかもしれないんだよ?」
未来は少し首を傾げるように、俺の顔を覗き込んで言った。
「そんなんじゃ、ないんだよ」
俺は前を向いたままで答える。
「じゃあどうして?」
「俺らさ、ひとりで食事することってあんまりないだろ? お前は先に食べることもあるけど、すぐに俺とか母さんが帰ってくるし、俺が食べてる間は食卓かリビングにいるじゃん。だから思ったんだよ。せっかく行くんなら、って」
ふーん、と小さく口をほとんど開けずに言って、未来は目線を前方に戻した。
「いいんじゃん? 和也にしては」
「まあ友達からアドバイスもらったんだけどね」
「あー、何よそれ。あたしがホメたの半分返してよ」
「どうやってだよ」
バカなやりとりだけど、そうこうしているうちに佐野塾まで歩きついた。家ももう遠くはない。特に理由もなく、ふうっと溜め息をつく。体の力が、ちょっと抜ける。
「ねえ和也、ちょっと……」
「うん?」
未来は少し改まったように言って、あまり見ない真面目な顔をする。いきなりのことに、少しだけ体を硬くした。
「言えなかったけど、謝らなきゃいけないことがあってね」
「なんだよ、怒らないから言ってみろよ」
エプロンの件といい何といい、今日はいやに素直だな。ちょっと気持ち悪いくらいだ。
「えっとね、あたしがトイレ行ってた時の和也と澪さんの話、聞いちゃったんだ」
「えっ、ああ。でもそれくらい別に」
「澪さんがあの……“呪いの人”なんでしょ?」
「どうしてそれを?」
思わず足を止めて、未来の顔をじっと見つめる。どうやら今日という日、ただではすまないらしい。
家に帰りついて、居間で俺は床に座ってソファーにもたれ、未来は座椅子で向かい合う。今日も母親は少し遅くなるらしい。
「結局噂自体はどんな風なんだ?」
「学校の七不思議とかとそんなに変わんない。信じてる人はあんまりいないけど、内容が他よりリアルだから知ってる人は多い」
「光原の名前は?」
「出てくるなら、もうとっくに言ってるよ」
未来は必要以上にしゅんとなってしまって、さっきまでのはしゃいでいた感じとの落差が俺を余計に滅入らせる。
「普通の……噂なんだな」
「うん」
「絶対に誰にも言うなよ。我慢してるのは、誰よりあいつなんだから」
むう、と未来がうなるように小さく返事をしたのを聞き届けて、俺は階段を上って自室に戻った。
ベッドに腰かけるとすぐ、ポケットから取り出した携帯で貴司に電話をかける。
普段より長くかかったが、貴司は出た。通じると同時に、無意識に立ち上がる。
「もしもし、どうした?」
「貴司、今どうしてる?」
電話口が少しざわついている。おそらく家にはいないのだろう。
「ああ今、映画見終わって……」
「長くはかからないからそのまま聞いてくれ。未来が学校で呪いの噂を聞いてるらしいんだ。個人名は出てこないけど、それなりにみんな知ってるらしい。そんなに広がってるって、知ってたか」
「知らないな……でもふたつ下だし、学校もさほど光原の出身と離れてない。ありえない話じゃないんじゃないか?」
俺が相槌を打とうとすると、電話口でガサガサと大きな音がした。俺が携帯を少し耳から離したその瞬間、いきなりスピーカーから大きな声が放たれた。
「斉藤! 何そんなことでビビってんのよ!」
「は、灰原?」
俺はすっとんきょうな声を上げる。
「いまさらヨソの子が噂知ってたからって何? そんなの大丈夫って大きく構えて……」
またガサゴソッ、と音がした。少しもめている声も聞こえる。
「……すまんすまん。でもまあ、凛の言う通りだよ。だって“何もしなくていい”んだろ? お前が焦ったりするのが、多分一番ダメだって。だったら何があってもぼーっとしてろよ。光原さんがああやっぱり大丈夫かも、って思えるぐらいにさ」
俺が言葉に詰まって曖昧な返事をすると、デート中だから切るぞ、と言って貴司は電話を切った。
言われたことを飲み込むのに少し時間がかかったけど、なんとか理解して、納得した。なるほど、と思った。
それにしてもなんか、男前だな。貴司も灰原も、どっちも。
未来にもちょっと伝えておこうか、と思ってもう一度階段を下りたが、居間には未来はいなかった。また階段を上り、未来の部屋のドアを二回ノックして、返事を待たずにドアを開けた。
「入ったぞ」
返事はない。未来はすでにパジャマに着替えてベッドのへりに座り、上半身はベッドに横たえている。
「どうしたんだ、疲れたか?」
俺が少しだけ無理をして笑い、そう言うと未来は上半身を起こした。うつむいたままで少し足を開いて座り、手を足の間に置いた。
「用事?」
明らかに落ち込んでいる。
「いや……貴司にあのこと電話したらさ、怒られたよ。『大したことでもないのにお前がそんなに焦ったら、光原さんも不安になるだろうが』って。それもそうだよな、って思ったから、伝えにきた。それだけだから、眠いんならメシまで寝てていいぞ」
未来は答えずに黙り、うつむいたまま立ち上がってゆっくり歩き出した。なんだよ愛想ないなあ、と思った、でも。
俺の隣を通り過ぎるのかと思ったところでいきなり、直立している俺に体ごともたれかかってきた。どうしたんだよ、と両手で抱きとめる。左側の鎖骨と肩の間あたりに額をぴったりつけて、やっぱり表情は読み取れないままで未来は言った。
「どうしてかな」
何がだよ、とか俺が割り込んで言う前に、未来は続けた。
「ねえ、どうしてかな。あんな明るくて、優しくて、キレイで、いい人な澪さんがさ、どうしてこんなことになるのかな。そんな噂、流されるのかな。ひどいよ、そんなの……」
二度鼻をすすって、未来の肩は震え始める。
「事実は、あるにはあるんだ。取りようによっては、でも」
未来は泣き出して、涙が俺のTシャツの前側、腹のあたりにこぼれてシミを作った。ねえどうして、と小さくまた、つぶやく。
「光原が悪いわけじゃないって、判っただろ? 俺たちはきっと、それだけでいいんだよ。貴司の言う通りな」
しばらくして未来も落ち着いて、だけどそのままの姿勢で俺は右手で、昼間より少し強くまた、未来の頭を撫でてやった。しっかり結わえてあった昼間より、少し髪が柔らかかった。
やがて頭から右手を離し、左手も一度、下におろす。そして両手で未来の肩をたたき、しっかりな、と言った。未来はようやく泣き顔を上げて、少しだけ笑った。
顔は洗っとけよ、と部屋を出て行こうとしたが、呼び止められた。
「和也」
「なんだ」
「また、遊びに行こうね」
そうだな、と俺は答える。未来は左手の甲で涙をぬぐって、今度はいつも通りに笑った。それを見て俺も笑い、部屋に戻る。
椅子に座って、一日のことを思い返してみた。
光原の笑顔はまだ目の奥で眩しいままで、あの笑顔があるんなら俺も笑ってなくちゃいけないな、そんな風に思った。
この作品も少しスロースターターかもしれませんね、僕の悪い癖です。
ここまでお付き合いいただけたのなら、出来れば次も、そして最後まで読み通していただきたいと押しつけがましくもお願いしたいところです。