13.夢幻泡影(Please save me again)
家に帰りつくとなんだかにぎやかで、それもそのはず未来と灰原に加えて貴司までいた。
「ただ、いまー」
何となくおそるおそるな感じで声を上げると、三人ともが返事をした。
「「「おかえりー」」」
ハモっている。
未来と灰原はきゃいきゃい言いながらゲームをしていて、貴司がソファーでそれを見ている格好だった。
「心配するな。俺はさっき来たところだ」
「そんな心配はしてない」
第一声からそんな会話をしていると、灰原が画面を見たまま割り込んでくる。
「心配してたのは私たちのほうなんだけど」
何の心配だ。
「右も左もわからん十六、七の若者ですからな」
貴司も割り込んでくる。
「心配に及ぶようなことはなかったよ」
「うそぉー」
ふたりの下世話なセリフが、今日は妙に心地よかった。
「ちょっといいか」
未来と灰原のゲームがまだ続きそうだったので、俺は貴司を呼んで部屋に上がった。
窓を開けながら、まあそこにでも、と座らせる。
「夜中な、浪野が来たんだ」
「さてはそれがおジャマだったのか」
空気を悪くしないようにわざと選んだ言葉のようにも思えたが、俺は構わず続けて、来たときの状況、話した内容、その後の澪、と順を追って話した。
「ふうん……で、それからどうしたんだよ」
「ソファーでいろいろ話してたら、ふたりでそのままぐっすり」
ははは、と貴司は笑う。そして少し間があって、言った。
「光原さんは大丈夫なんだな。でも、やっぱりまだ、終わりじゃない。緊張しなくてもいいけど、油断は禁物、ってな」
ああ、と俺は強くうなずいて、またふたりで階段を下りた。
下りていくと未来と灰原はようやくひと段落ついたようで、かわるがわる話しかけてきた。
「ねー、未来ちゃん強いよ? 斉藤といつもやってんの?」
「たまに」
「凜さんだって、昨日が初めてだったのに」
ふたりは本当に楽しそうで、少なくともずっと前からの友達くらいには見えた。
「ちょっとトイレ」
未来がそう言って立つと、トイレの戸がしまったのを確認して灰原が俺を手招きした。
「ちょいちょい斉藤」
「何だよ」
なになになに、と貴司もついてくる。
「今日は家にいるの」
「携帯のショップに行かないといけないけど、他に予定はない」
「澪んちには、行かないの」
「多分」
灰原はふんふん、と目を閉じて何度かうなずいた。
「夜もいるわけね」
ああ、と返事をすると、貴司が灰原の斜め後ろに回って、にぃ、と笑った。
さらに声のトーンを落として、灰原は続けた。
「未来ちゃんね、おにいちゃんがいないとやっぱり寂しい、って言ってたよ」
言って、灰原も貴司と同じ顔をする。
「ば、ばか。なに聞き出してるんだよ」
「未来ちゃんが勝手に言ったんだもーん」
でも考えてみれば、どちらかが家にいないなんてどれくらいぶりだかわからない。
未来も俺も今年修学旅行だが両方秋ごろで、前回の修学旅行、三年近く前になるのかもしれない。それが一日空けてだが二度もあったわけだ。
そしてすぐに未来が戻ってきて、同じタイミングで灰原が、もう帰るね、と言った。
未来は少し不平を言ったけど、すぐにふたりで二階に上り、どうやら片付けを始めたらしい。
「なあ和也」
意味もなく階段のほうを見つめていると、貴司が言った。
「できるだけ早く、またみんなで集まろう。一度だけ、光原さん抜きで」
「今度こそ全部話せ、ってか?」
「ああ。かといってほじくり返して光原さんを不安にさせるのもよくないし……なんかいろいろ、ありすぎたよ」
そうだな、と相槌を打つ。
客用の布団をしまう物音や笑い声、何かをちょっと落としたような音がしばらく聞こえてきたあと、ふたりが下りてきた。
じゃあまたね、と灰原は出ていって、貴司もそれについて出ていった。
ドアが閉まって、未来とふたりで残される。
「洗濯、したか」
「ほとんど洗濯物ないから、まだ」
とりあえず話を振ったが、それもそうだ。
「……ごめんな、いきなりで」
もう少し気の利いた言い回しもあったかもしれないが、さっきの言葉が引っかかっていたのでできるだけ早く、と思って言った。
「いいよ別に。ひとりでも大丈夫だし、凜さんも来てくれたし」
そう言って、ちょっと口をとがらせる。少しだけすねているようなしぐさだ。
「楽しかったか?」
「うん」
でもまた、明るい笑顔に戻る。
わが妹ながら、まったくもってかわいいやつだ。
そんな感じでまた少し日常に戻り、昼までなんとなくテレビを見たあと久しぶりに自分で昼食を作った。野菜が多めに使えそうだったので、焼きそばにした。未来とふたりきりの食卓は、なぜだか少し懐かしかった。
後片付けまで終えると俺はすぐ家を出て、携帯のショップへ自転車を走らせた。
手早くすませて帰るつもりだったのだが、意外と時間をとられた。基盤は生きていたから修理が終わるまでに使う代替機にアドレス帳を移せるのだが、それに同意が要ったのだという。
帰ると居間に未来はいなかった。部屋に戻ったのだろうと思って手にまだなじまない代替機を開いて、貴司の番号をダイヤルした。
ワンコールで貴司は出る。
「はい、どした?」
「いや、携帯とりに行ってきたからさ、もう通じるよ、ってことで」
ふんふん、と貴司は軽く返事をして、言った。
「あのさ、みんなで集まるの、明日の午前中でいい?」
「俺はいいよ、別に」
澪とはまだ約束してないから、と付け加えようとしたが、踏みとどまった。率先して冷やかされにいかなくてもいい。
「未来ちゃんは?」
「多分大丈夫だと思う。あいつヒマだし」
「おにいちゃんがいるんだもんな」
「うるさい」
へへへへ、と貴司は電話口でも顔が想像できるような笑い方をした。
「それでさ、集まるのお前んちでいい? お父さんもお母さんも、明日の夜までいないんだろ?」
「ああ、そうしようか」
そして細かい時間の段取りを決めたあと、貴司は俺がみんなには伝えるから未来ちゃんにはよろしくな、と電話を切った。切れてしばらくはアドレス帳を眺めていたけど、澪に電話するのは夜で遅くないかな、と思って携帯を閉じ、階段を上がって未来の部屋に行った。
こんこん、とふたつノックをする。
「入るぞー」
うん、と未来は小さく口の中で返事をした。学習イスに楽に座って、マンガを読んでいる。
「エアコンつけてんのか。涼しいなあ」
「つけなかったらやってらんないよ。で、どしたの? 用事?」
そんなやりとりをしながら、俺はベッドに腰かける。
「いや、あのさ。明日の午前中、みんなで集まることになったから」
「あたしも?」
マンガから目を上げて聞いた未来に俺はうなずいて返事をした。
「うん。あと、澪抜きで」
「呪いの……話?」
未来はマンガを机に置き、言った。
「いや、そこまで暗い話じゃないけど、昨日もいろいろあったから」
「そう。で、どこに?」
「ウチ」
未来は少し驚いていたが、すぐにうん、とうなずいた。
用事が済んだので出ていこうとすると、未来はまたマンガを開いて目を落とし、ばいばーい、と小さく言った。
ドアを閉めると暑さが襲ってきて、自分も部屋に戻って窓を閉め、エアコンを入れた。
寂しかったらしい未来があの調子なところを見るに、どうやら人間にはそこにいるだけでできてしまうことがあるらしい、と何となく思った。
ひどく手持ちぶさたになった俺は宿題に手をつけたりなんてしながら時間を潰し、少し涼しくなり始めたころにスーパーに出かけたあと早めにミートスパゲティとサラダの夕食を作り、未来とふたりで食べた。
片付けを終えてすぐさま部屋に戻ったはいいが、澪の食事にぶつかっても、と思って結局電話をかけたのは八時を過ぎたころだった。澪は開口一番、いつから通じるから解らなかったから電話できなかった、とちょっと不平を言った。
「ごめんごめん、用事でもあった?」
「ないよ。でも、しばらく一緒にいたから、ちょっと離れただけなのになんか、声が聞きたくなって」
ふと、ひとりのソファーで寂しそうにしている澪の姿が脳裏をよぎった。やっぱり昼間、電話しておけばよかった、と思った。
「ついこの間まで全然平気だったのに、なんかおかしいね」
「おかしくなんかないよ。これからはいつでも、かけてきていいよ。出られるときは絶対出るから」
澪は素直に、そうする、と答えた。
澪は家ではひとりだ。ひとりの家で、たとえ学校がある日でも二十四時間のうちの半分は過ごさなければならない。きっと寂しいし、それは普通じゃない。ひとりじゃない自分を見つけて、寂しさもそれについてきたのなら、それはきっと望ましいことだ。
そもそも、父親がいないという時点で俺にとっては普通じゃない。いくら単身赴任とはいえたまに電話をかかってくるし、休みが取れれば帰ってくる。そして俺には母親と未来もいる。澪は母親も行方知れずになったくらいだから、きっと本当の澪の寂しさは、俺には解らない。
そして、呪い。澪は完全に、普通から見放された存在だったと思う。自分のことを好きだと言った奴が消えてしまう。だからそもそも男友達なんて作れなかった。頭数だけで考えれば、友達を作れる可能性が半分以下になる計算だ。俺にしてみれば想像もつかない。
「……和也くん?」
「ああ、ごめんごめん。何話そうか?」
「うーん……」
お互いの声をただ聞いていたいだけの、至極中身に意味のない会話。だけど付き合い始めのカップルにはそれが普通なのかもしれない。まあ、普通よりは少し強いかもしれないが。
そして、そもそも俺と付き合っている、という状況も、澪にとってはありえなかったことだ。ふたつの好きが重なれば、隣を歩いていける。まだ俺たちは高校生で、多分それが普通。
頭の片隅ではそんなことを考えながらも、話しているのは呪いなんかと関係ないテレビや料理のこと。きっとそれも、普通の会話。
見放された普通を、俺がいて取り戻せているのなら、これ以上のことはない。
呪いを忘れられる日も、きっと遠くない。根拠はなくても、そう信じることだけならできる。
ひとしきり話したあと、どちらからともなく電話を切った。
話しているうちに澪の声のトーンがどんどん明るくなっていくのがわかって、俺は嬉しい気持ちになった。
翌日、俺と未来は適当に朝食を済ませてテレビを見ながら時間を潰し、みんなを待った。
未来は楽にしていたけど、俺は結局何を話せばいいものかと悩み体を硬くしていた。
ぐちゃぐちゃと俺が考えて頭を抱えているころに、チャイムが鳴った。未来がとりあえずインターホンに出て、すぐドアのほうに行った。
「冴さんだよ」
俺も続いて立ち上がる。
未来が開けたドアから、右手を振って対馬が現れた。
「おはよ」
「おはよう」
あいさつをして上げて、未来が飲み物を出そうとする。大きいペットボトルでサイダーがあったけど、対馬は炭酸ダメだからな、と耳元で小さく言って、アイスコーヒーを出させた。
「どうぞぉ」
自分は自分のぶんで注いだサイダーを飲みながら、未来はコップを持っていった。
ありがとう、と言ってコップを受け取った対馬の横顔が今までになく大人びて見えて、俺の心はちょっと揺れた。
「うーん、ちょっと早かったのかな」
手持ちぶさたにアイスコーヒーを飲みほしてしまった対馬は、つぶやくように言った。
「そんなことないでしょ。ほら、もう時間だよ」
未来が言うので時計を見ると、たしかにもう、約束の十時半。三人も遅刻か。
「どうしたんだろ。寝てるのかな」
「凜は違うと思うけど……あ、木田くん起こしてるとか?」
「あり得るなあ……亮はどうだろ。あいつは普段昼まで寝てるらしいからなあ」
まずいねえそれ、と対馬はどことなく楽しそうに言う。
俺がもう一度時計を見たころ、未来が言った。
「あたし、アキラさんに電話してみる」
「おい、亮にもそんな普通に電話できるのか?」
俺は尋ねたが、未来は大丈夫だから、と言っただけで階段を上っていってしまった。
「やっぱりそういうのって、おにいちゃんとしては心配なの?」
未来の足音が止まったころ、対馬は今度は昔のままのいたずらっぽい顔で聞いてきた。
「心配って、えーと」
「児玉くん、顔のつくりはいいもんね」
「や、違うって。そんなんじゃ……」
確かに未来もそういう年頃なんだ、とは思うけど、それを実感するような出来事はこれまであまりなかったから、俺のほうにもまあ、抗体がないのかもしれない。
「顔赤いよー」
「うるせー」
ふふふふふ、と笑ったあと、対馬は少し静かになってから言った。
「未来ちゃんもしあわせね。おにいちゃんに大事にされて」
赤くなった顔が戻らないのを自覚しながら、俺はああうう、と歯切れの悪い返事をした。
「うらやましいなあ」
「え、ああ……なんかごめん」
遠い目をした対馬の微妙な雰囲気を、さすがの俺も察知した。
「あ、謝らないで。言ったじゃん私、これでよかったんだ、って」
「うん……」
「私こそごめんね、また変なこと言って」
そのひと言で、俺は我に返った。だから思っていることを言った。
「でも俺、対馬のことも大事だよ。だって俺たち、ちゃんと友達してるじゃん」
上の階から未来の話し声が聞こえ始めた。ずいぶんかかったな、やっぱり亮のやつ、寝ていたらしい。
対馬はゆっくり笑顔になった。窓から差し込む朝日に照らされたその横顔、鼻の上のほうに、俺は初めて小さな傷跡を認めた。
少し赤くなって、言う。
「んもう、フッた女の子にそんな優しくしないの。その分まで、惚れた女の子をシアワセにしなさい」
自分の照れを隠すかのように腕を組んで、未来がよくするようなしぐさで少し、対馬は口をとがらせる。
がんばるよ、とだけ、俺は返事をした。
未来が戻ってこないうちにチャイムが鳴って、貴司と灰原が来た。どうやら対馬の予想は半分当たっていて、普通にもたもたしている貴司を灰原が引っぱってきたらしい。戻ってきた未来も混じってそんな話をしていたら、思ったより早く亮も来た。
「ごめんごめん、おはよー」
「もうお昼です」
相変わらずヘラヘラしている亮を未来がそう出迎えた。亮のやっぱりボサボサの髪は寝起きの感じも醸し出していたが、いつも通りなのでその辺はあやふやだ。そして役者がそろったところで、またしても灰原と貴司が仕切ってそもそも四人分しかイスがない食卓を離れ、居間に向かった。
それでも家族四人そろうこともあまりない居間はやっぱり手狭だったが、ソファーと座椅子を総動員してなんとか全員話す体勢に入った。
どうぞ、と貴司があごをしゃくる。
普段はバカみたいにうるさい連中が、しん、と静かになった。
ホーホー、ホホー。ホーホー、ホホー。
空気の読めないハトが一羽、どこかでひたすら鳴いている。
「事故のことまでは、みんないいんだよな。じゃあ、病院でのことからだな」
俺はそこで大きくひと呼吸ついて、改めて話を始めた。
「入院してた日の午前中、結構早い時間に澪がひとりで来てくれてさ、しばらく話してたんだけど、俺はピンピンしてるのにやっぱり澪は不安になっちゃってたみたいで」
「私たちがまた連れていったときは、あんまりそんな風には見えなかったけど」
「俺といたときはそうだったんだよ。自分のせいじゃないのに謝って、謝って。なんとか慰めてたんだけど、やっと落ち着いてきたころにテレビで俺のニュース見ちゃって」
亮が黙ったままで、あちゃー、というリアクションをとった。
「一瞬でやっぱり、澪もミニバイクの少年ってのが気になったらしくて、パニックになって」
「無意識かもしれないけど、情報を入れないようにしてたんだろうね」
灰原の相槌で話は少しずつ前に進んでいく。ちなみに例の“少年”については、未だに何もつかめていないらしい。
「で、パニックになった澪さんは、どうしたの」
俺の隣に座っている未来が、横を向いて尋ねる。
「え、まあそこもなんとか」
「約束、したんだよな。いなくなったりしないから、って」
俺の歯切れの悪い返事を、貴司がそう補完する。俺はうん、とうなずいた。具体的にどうやって澪を落ち着かせたかは、まあ言わなくてもいいだろう。
「で、澪は帰って、有働先生が来たんだよ。これ、ちょっと見て」
朝ポケットに入れ直したあの紙を取り出して、隣の未来から回してもらった。ひとりひとりが読んでいる間に、俺は順を追って話した。貴司が先生に話をしてくれたらしいこと、浪野関連の書類の消失、面談資料の矛盾、いないはずの澪の父親。そして、二十年前の呪いの噂。その後貴司に話した、俺の決意も少しだけ。
そこまで話して見渡した五人の顔が笑顔じゃないけど明るくて、俺は少し救われた。
「で、次の日にはもうフリーだったから、朝から澪んち行ったんだよ。買い物行って料理作ったり、普通に話してたりさ、とにかく普通にしてた。でも携帯が壊れてたからその関係もあって、四時ごろかな。帰ろうとしたんだ。そしたらいきなり、帰らないで、って」
何かいい感じ、と対馬が言ったが、俺は首を横に振って続けた。
「多分澪は無理してたんだよ。でも俺が帰るだんになったときにそれがきかなくなった。そのまえにああやって澪と玄関で別れた帰りに、事故にあったわけだし」
空気が重くなるのを感じた。少しだけ話を、続けたくない気もした。
「誰かいれば落ち着くと思ってさ、いつごろお母さんが帰ってくるか聞いたんだ。そしたら澪はまたちょっとパニックになって、泣いて……お母さん、いないって」
少しだけ間があって、灰原がえっ? と小さく言った。
そのひと言を引き金にして、五人ともが顔を上げてこちらを見た。
「え? 私会ったことあるよ?」
「俺も、中学の運動会のときに見たよ。光原より背が普通に低かったから、何となく覚えてる」
対馬と亮がかわるがわる言ったが、俺はまた首を横に振った。
「違うんだ。俺と最初に話したあたりで、“消えた”らしい。もともと家にいないことは多かったらしいんだけど、いきなりだった、って。電話とかもだんだんかかってこなくなって……」
「それって蒸発とかじゃないの?」
未来が尋ねる。
「可能性はある。でも前までと全く同じ額の給料が先月も口座に振り込まれてたのを見せてもらったし、だとしたら連絡もつくはずだろ? 職場も変わってないっぽいし。でも、つかないんだって」
みんながそろって同じ、やたら難しい顔をした。
「ここからは澪の推測になるんだけど、話していいか?」
そのままの顔で五人とも、思い思いにうなずいたり、承認の返事をしたりした。
「自分は呪いに生かされているのかもしれない、って澪は言ってたんだ。澪が生きていくために必要だったから、母親がいた。でも澪が家事をこなせるようになって、その意味では自立したから、いなくなった。だけどお金だけは、入り続けてる」
「他の親戚とかは?」
「まったく、らしい。面談にお父さんが来たことになってるのは、澪が表面上普通に生きるための、ちょっとしたつじつま合わせ」
「そんなの……そんなのおかしいよ」
灰原は強い調子で言って、立ち上がった。
「ありえないよ。ねえ、斉藤もちゃんとそんなことないって、そんなのおかしいって、言ってあげたんでしょ?」
俺はまた首を軽く振って、答える。
「いいや、言ってない。今まで言ってくれなかったこととか、迷惑かけたこととか、そんなこと全部、もういいよ、ってだけ、言った」
灰原が言葉に詰まる。きゅっ、と唇を噛んだ。
「さすがだな」
誰もが解せていないという雰囲気の中で、貴司だけはそう言った。目で合図して、灰原を座らせる。
「今さら呪いがもともと嘘だなんて、そんなこと言えないよ。言っちゃったら、その通りになる気がするから、澪まで嘘に、なる気がして……でもありのままを受け入れれば、きっと呪いは解けるんだと思う。二十年前も、だんだん下火になってなくなったって、先生が言ってた。家の外では澪は多分、明るく遊んで話して、男友達だっている普通の女の子に戻った。俺は事故にはあったけど、ケガはほとんどない。貴司も亮も、消えたりしない。呪いはきっと、弱くなってる」
「やっぱり、さすがだね」
今度は灰原が言った。
ヴー、ヴー。
ちょうどそのとき、食卓においてあった俺の携帯(代替機)がバイブした。一番近いところにいた亮がひょいと取ってサブディスプレイを覗き、光原だよ、と言って手渡してくれた。
「ラブコールだね」
未来がそう言って、他の四人も冷やかしてくる。余計なこと言うなよ、と笑顔で念押しして、ボタンを押して電話に出た。
「もしもし」
「あ、和也くん。あのね」
「どうした?」
逸らした視界の隅に五人が集まってにやけている。
「今ね、神社にいるの」
「うん……」
突然のことに疑問を感じながらも俺は相槌を打った。
「来て、くれる?」
「行けるけど……どうしたの? 何かあったの?」
じりっ、じりっ、と這って近づいてくる貴司を足で追い払いながら俺は聞いた。
「うん、ちょっと」
「ちょっと?」
「多分、最後になると思うから」
瞬間、俺は完全に硬直してしまった。えっ、と言ったつもりだったが、声が口から出ていたかも怪しい。
そんな俺の雰囲気を察知してか、貴司は少し下がって大人しくなった。
「ごめんね、いきなり」
そんないつもの調子が、まだ信じられない。
「わかった、行くよ」
俺がなんとかそうしぼり出すと、ごめんね、ありがとう、と澪はいつものように言って、電話を切った。
携帯をたたんでポケットにしまいながら、俺は五人に言う。
「俺、神社まで行ってくる。澪が呼んでるから」
「ええ? 澪もずいぶんワガママになったものね、もう」
「違うんだ。なんか……」
「最後になると思うから、だろ?」
貴司の耳にもどうやら届いていたらしい。灰原を中心に、四人がはっとしたような表情を見せる。
「最後って……」
未来がおびえたような目をして言う。対馬と亮も、静止してこちらをじっと見ている。
「で、お前は何しに行くんだ?」
立ち上がって、貴司が尋ねる。
「最後だなんて嫌だよな。俺らだってそうだ、なあそうだろ?」
「うん」
「だから連れ戻しにいく。それでいいな?」
「ああ」
長身の貴司の真っ直ぐな言葉と強い視線が、俺に力をくれた気がした。
「じゃあ、行ってくるから」
玄関で靴を履きながら、見送りの五人にそう言った。
「急がなくていいの?」
焦るでもない俺に、灰原が尋ねた。俺は答える。
「いいよ。だって澪は絶対、俺をおいていったりしない」
みんなも少し力が抜けたようで、微笑んでくれた。ばーか、と貴司が言う。
「絶対ふたりで帰ってきてね。待ってるよ、私たち」
そう言って対馬は、昔の面影そのままに屈託なく笑った。
「もうついてけねーよ。がんばれな」
亮は肩を少し上下させながら言った。心のこもったヘラヘラだった。
「絶対最後になんかしちゃダメよ。斉藤ならできるよ」
できたらふたりの世界に入らずに一応連絡するのよ、と灰原はこんな時までしっかりしている。
「和也のことも澪さんのことも大好きだよ。だからがんばって」
未来とはずっと一緒に暮らしてきたけど、こんな真っ直ぐな言葉は初めてだった。
「誰も心配なんかしてないから、行ってこいよ。信じられないくらい信じてる」
最後まで貴司は、そんな格好いいセリフを吐きやがる。これでやらないわけにはいかない。
「じゃあ、行ってくるよ」
ゆっくりドアを開けて外に出て、それが閉まるのを見届けたあと、ゆったりと母親の自転車にまたがってこぎ出した。
こぎ出すと急いでしまったのは、怖かったからじゃない。
好きな人に、少しでも早く会いたかったからだ。
驚くほど早く神社に着いた。長くない石段の下に自転車を置いて駆け上がろうとすると、石段の真ん中に人影がある。
浪野だ。
「やっぱり、来たんだな」
「来ないなんてあり得ないよ」
あの夜よりはいくぶん、優しい顔をしているように見えた。
「光原は“呪いを解いてくれる人”を探していた。呪いは本当は、解かれるのを待っていた。でも光原が探し当てたのは、“好きな人”だった。光原はそれで満たされて、お前さえいればいい、と思うようになった」
数段上に立ち俺を見下ろしている浪野の言葉ひとつひとつが、俺の心に直接響く。
「呪いはお前を邪魔した。お前と光原を、呪いは許そうとしなかった。だから呪いは、お前たちを傷つけた。俺も呪いのひとりだし、本当は光原の世界すべてが、呪いなのかもしれない。でもそのお前が今、呪いを解こうとしている」
あの夜も、そして今回も淀みなく話し続けていた浪野が、そこで言葉に詰まり、黙り込んだ。明らかに何も言えなくなっている浪野に、俺は口を開いた。
「もう、いいよ。俺だって、澪がいれば、それでいい。でもその他に澪と分かち合える何かがあれば、もっといい。だからもう、行かせてくれ。俺は何かをしに来たわけじゃない。ただ、澪がいるところに会いに来たんだ。澪を、迎えに来たんだ」
「解っている。ずっと手荒なまねをしておいて……最後まで、すまなかった」
浪野はそう言うとかたく目を閉じ、うつむいた。
「もう、会うことはないだろう」
「……ありがとな」
俺の心に浮かんだ唯一のかけるべき言葉、それを口に出した刹那、大きな風船のはじけるような音がして、浪野は俺の前から消えた。
俺はしばし呆然としていたが、思い直して歯を食いしばり、石段を駆け上がった。
やたらと広い境内の真ん中あたりに、澪はぽつねんと立っていた。
俺の姿を見て澪は少し笑ったように見えたが、その場を動くことはしない。
俺は駆け寄っていき、少しだけ息を弾ませながら声をかけた。
「どうしたんだよ、いきなり」
澪はまた、ごめんね、と前置きして答えた。
「呪い、解けちゃうみたいなの」
解けるのか、と俺が小さく尋ねると、澪はひとつうなずいて、言う。
「うん。でも私が、呪いそのものだったみたい」
「呪い、そのもの……」
「そう。だから、最後になるの」
その時、目に映る澪の姿が一瞬蜃気楼のようにゆらめいた気がして、俺はかぶりを振った。
「そんなの」
「私だってイヤだよ。でも、解けちゃうの」
言葉がうまく出てこなくて、俺はただ唇を噛むだけだ。
澪はひどく優しい顔をして、また言う。
「ごめんね。もうひとつだけ、黙ってたことがあるの」
今度は澪の指先が少し、ノイズのようにちらついた。これはきっと、錯覚でも見間違いでもない。
「先生が話してくれたっていう二十年前の話、私ももう知ってたんだ。そしてあの話にはもう少しだけ、続きがあるの」
その女の子も、卒業を前にして、消えちゃったんだよ。
先生がひどく苦々しく語った意味が解った気がした。俺に最後まで伝えてくれなかった理由も、どことなく解った。
でも、納得はいかない。
「だからってどうして、澪が消えなくちゃいけないんだよ」
「言ったでしょ、生まれる前のことを覚えてる気がするって。多分呪いはずっと、私ひとりだったんだよ」
まるで当たり前の事実を伝えるかのように話す澪に耐えきれなくなって、俺は叫ぶように言った。
「だったらひとつだけ、聞かせてくれ」
返事はなかったが、俺は続けた。
「いつ、自分が呪われてる、って思ったのか、教えてくれ。噂が先なのか、呪いが先なのか」
「噂よりは、少し後だよ。多分小学校の、三年くらい」
あまり迷うことなく、ちょっと思い出す程度の間だけをおいて澪は答えた。
「じゃあ、澪は呪いそのものじゃないじゃんか。ただの噂じゃ……」
「違うの。男の子が消えるのは、物心付いたときからずっと。みんなが騒ぎ出したのが、小学校に入ったころ。それで、その時には、夢を見たの。その次の日から、私は呪い呼ばわりされるようになった」
穏やかすぎる澪の口調に俺は言葉を失って、代わりに澪がそのままの口調で夢の話を始めた。
「今の私くらいの背かっこうのお姉さんとね、私は公園で出会ったの。ひどく傷ついて、疲れたような顔をしてた。それでね、『それは呪いだよ、ごめんね』、って言って私の手をとった。しばらくはそのままでいたけど、お姉さんは『がんばるのよ』、って言って、消えたの」
まるで風船が割れるみたいだった。澪は少ししてそう付け加えた。
また耐えきれなくなった俺は、今度はゆっくりと口を開く。
「それはただ、自分で自分に呪いをかけた……狂言だなんて言わないけど、半分は思いこみで、それが呪いになったんじゃないか?」
否定されると思っていた。何も答えてくれないかとも思った。
でも澪は、穏やかなままの口調で答える。
「そう……そうかもね。私はただ、生まれる前からずっと、和也くんに会いたかっただけなのかもしれない。私が私にかけたのが私の呪いなら、多分私自身で解けるはずだし、まるっきり誰か別の人がかけた呪いなら、多分解けることなんてないはずだもんね……でも、呪いは解けるんだよ」
「どうしてだよ……俺には、解らないよ。俺はこれからずっと、澪と一緒にいたいんだ」
「私もそうだよ。でも、呪いが解けるのも、私が消えるのも多分、和也くんのおかげだよ。もう誰も悲しまないし、苦しまない」
澪はさらに優しく笑った。
「もうやめてくれ、そんなこと言うの」
澪の表情が途端に曇る。きっと澪も、笑いたくなんかないはずだ。
「澪がいなくなったら、俺が悲しいし、苦しい」
俺がそう言うと、澪はまた優しい笑顔を作り直した。
「ううん、大丈夫。和也くんは、大丈夫だよ」
「大丈夫なんかじゃ……」
「和也くんは、いつも大丈夫って言ってくれた。すごく強いし、優しいひとだよ。だから大丈夫、呪いが解けても、いつもいつまでもきっと、大丈夫」
大丈夫、とまた何度か繰り返して、澪は右目からひと筋涙をこぼした。それを合図に、俺の目からも信じられない量の涙があふれてきた。
「ごめんね。でも本当に、好きだったよ」
ヂリヂリヂリ……と、澪にちらつくノイズがひどくなる。涙のせいで声が出なくて、せめて前に出て澪に近づこうとしたが、見えない何かに押さえつけられるように進めない。
ヂリヂリヂリ。
ヂリヂリヂリ。
「ごめん、もう限界みたい。もう呪いが、本当に解けてなくなっちゃう。でも大丈夫だよ、和也くんはきっと」
ヂリヂリヂリ。
「きっと、私がいなくても」
ヂリヂリヂリ。
「だいじょうぶ」
ノイズの音にかき消されてほとんど声は聞こえなかったが、言っていることは伝わってきた。でも、そんなはずない。そんなわけない。そんなの、耐えられない。
飛び散るノイズが光を発して、その光が澪の姿をくらませ、少しずつかき消していく。
最後まで澪は何か口に出そうとしていたが、それは結局解らないままで、やっと見えない何かを払いのけて駆け寄り、澪を抱き留めようとして飛びついたけど、澪のあの細い体の感触はなくて、目一杯叫んだ愛しい名前もかき消され、自分の耳にも届かなかった。