11.固く結んだ絆は(I felt her trembling)
熱を出した時に見る、あの夢を見ていた気がする。
「気がついた?」
知らない、真っ白なベッドに俺は横たわっていて、反射的に病室にいるとわかった。
どうして。サイレン。ブレーキ音。黒い影。
「和也、和也ってば」
「うん?」
ベッドの横の丸イスに、母親が座っている。
「起きたのね。おはよう」
「……おはよう」
状況が全く飲めない俺に、母親は全部噛んで含めるように説明してくれた。
歩道で信号待ちをしながら自転車にまたがったままで携帯を見ていた俺は、無謀運転のミニバイクを避けようとしたステーションワゴンに突っ込まれた。跳ね飛ばされた俺は気を失いはしたけど奇跡的に、と言うべきかケガと言えば左肩の擦過傷、つまりかすり傷だけ。ただし携帯と自転車はもう、使い物にならない感じだという。
「結局仕事抜けて、三十分しないうちに駆けつけたんだけどね、まだ意識が戻らないんですか、って聞いたら、眠っているだけです、だって。あんたものんきなモンよね」
「だって俺、知らないよそんなの」
俺がそう言い返すと、母親はつかみどころなく笑う。遺伝子の神秘、未来に受け継がれているものがある。
「今日は検査で、異状がなければ今晩には帰れるって。なんか前がつかえてるらしくて、三時からになるみたいだけど。大丈夫だったら明日は昼から警察よ。一応話、聞かなくちゃいけないんだって」
「警察?」
「ちょっとごちゃごちゃした事故だったからね。大丈夫よ、和也は悪くないんだから。携帯とか自転車とか関係なくても、車が突っ込んできたらいきなり避けられないでしょ?」
俺が軽く笑ってうなずくと母親は、そんなに時間もかからないみたいよ、と付け加えた。
「未来は?」
「家にいる。和也の友達には自分が伝える、って言ってたから、きっとタカシくんか誰かと来るんじゃないの? 今晩には帰れるから全然平気、とは言ったんだけどね」
真っ先に澪のことが浮かんだ。澪もきっと来るだろう。
また眠れなくなっていないといいが。
このあと朝ご飯が出て、終わったら先生がとりあえず傷のほうを診てくれるから、と段取りを説明していった後母親は、昼過ぎまではパートがあるから、と言いながら出ていった。そして去り際に、今晩には父親も帰ってくる、と付け加える。
明日からもともと休みをとっていたんだけど、こんなことになったからね、と。
「キミ」
母親が出ていってすぐ、隣のベッドから声がした。
「キミキミ」
「……俺ですか?」
俺がそう返事をすると、その声の主である三十代半ばといった感じのオジサンは、キミしかいないじゃないか、と言った。四つベッドがあってふたつしか埋まっていないのだと初めて知った。
「テレビカードいるかい?」
「え、いいんですか?」
「俺も明日には退院できるんだが、横着して買いすぎたんだ。今一枚半くらい残ってる」
オジサンはそう状況を説明したあと、ワタナベだ、と付け加えるように名乗った。
「あ、斉藤です」
「うん……斉藤くんは事故だろう? ケガもあまりないみたいだし。俺は職場のバレーボール大会で準備運動中にアキレス腱切っちゃってさ」
言いながらワタナベさんは軽く立ち上がり、ほい、とテレビカードを手渡してくる。足が悪いんなら、と俺もすっくと立ち上がり、ワタナベさんのベッドの側でカードを受け取った。
「準備運動、ですか」
俺が軽く礼を言い終わらないうちにワタナベさんはベッドの縁に座り直した。俺も戻ってとりあえずまたベッドに乗っかる。
「準備運動というか、ストレッチの後のボール回しだね。本当に言ったよ、ブチッ、って」
「俺陸上やってるんで、そういうのマジで怖いです」
「へえ、陸上かあ」
一応高校球児だった、とぼそっと付け加えたワタナベさんは、よく見るとまあまあガタイがいい。
「まあ大丈夫だよ、まだ若いから。俺なんかもう四捨五入したら四十かあ、なんて思ってたら三日前には今度は三十六だよ? しかもその誕生日を入院中に迎えることになるなんて」
「えーと、おめでとう、ございます?」
「めでたくないよ。ヨメももらえてないのに」
多少意外だった。そもそもまだ老け込んではいないし、感性も結構若そうなのに。
「話してる感じでは、すぐに見つかりそうな感じですけどね、いい人」
「そういうことがサラッと言えるんだったらモテるんだろうけどね」
「そんなものですか」
「人がせっかくほめてるのに」
「あ、すいませんありがとうございます」
にっ、と笑ったワタナベさんの笑顔は、とても三十代には見えなかった。
「まあ準備運動でアキレス腱なんか切っちゃったらな。ただの笑いものだ」
言いながらワタナベさんはテレビをつける。俺もカードを挿して、スイッチを入れてみた。
夏休みに入って見られなくなった早い時間の情報番組で、こざっぱりした髪の女性アナウンサーが、少しのんびりした声で今日も全国的に晴れだと伝えていた。
それからしばらくして段取り通り朝食の後、笑顔のよく似合う七福神に混じっていそうな中年の医者が軽く肩の傷を診ていった。他に痛いところはないかと尋ねられたので特にないと答えたら、検査が大丈夫だったら明日からでも運動できると七福神スマイルで言ってくれたので、本当に大したこと無いのだと実感し自分の幸運さに胸をなで下ろした。しかも検査といっても事故で気を失ったから一応しておかなければならない程度のもので、引っかかることはほとんどないのだという。
階段の件といい何といい、逆に何かに守られている気分だ。
そしてテレビが三度目になる政治のニュースを流し始め、俺とワタナベさんが部活の話で盛り上がっていたころ、がちゃり、とゆっくる病室のドアが開いた。
俺はちょうどドアに背を向けていて、女の子だぞ、とワタナベさんが言ったので、未来かな、と思って振り向いたが、現れたのは澪だった。
ワタナベさんと目が合ったのかよそよそしくお辞儀をしてから、澪は俺におはよう、と言った。俺もおはよう、と返す。
「未来ちゃんが昨日教えてくれてさ。でも大丈夫だし寝てるし、っていうから今日にしたんだけど……ちょっと早かったかな」
「ううん、そんなことない。ごめんね、わざわざ来てもらって」
「それ、私が昨日言ったセリフ」
澪がまなじりを思い切り下げて、吹き出すぎりぎりといった感じの笑顔になる。俺もつられて笑った。
そして母親から聞いた通りにいきさつと今後の段取りについて話してひと段落ついたころに、澪は飲み物買ってくるね、と立ち上がった。いや俺立てるし歩けるし、とついて行こうとしたが、まあ一応入院中なんだから、と俺をおさえて行ってしまった。
あー、と頭をかいている俺に、ずっと黙っていたワタナベさんが口を開いた。
「今の、彼女?」
「はい」
「大事にしてる?」
「自分なりに、ですけど」
聞いてワタナベさんは目を細めた。大人の顔だ。
「じゃあ今は、大事にしてもらっときな。明日からはまた、キミが大事にすればいい」
俺は妙に納得し、ワタナベさんを尊敬しながらも言葉を出せずにいるとワタナベさんは、ちょっと散歩してくる、体がなまってて困るんだ、と言って病室を出ていった。広い病室にひとりきりになって、自分の側のテレビだけがただただ音を発している。
こういう気づかいが迷いなくできるのに奥さんはいないのか、とベッドに入り直しながら思うと、世界が少し不条理な気がした。
ほどなくして澪が病室に戻ってきた。手にはイオン飲料の青い缶がふたつ。
「あれ、さっきいた隣の人は?」
「んー、散歩だって」
アキレス腱切ってたけどもうほとんど治ってて、体がなまってるんだってさ、と付け加えると、澪は缶の片方を俺に手渡して自分は丸イスに座りながら、ふうん、と言った。
「和也くん?」
ちょっと間があったあとに、澪は尋ねた。
「なに」
「事故……怖くなかった?」
どうして、と聞き返すと、澪はうつむいて黙り込んでしまう。
「いやさ、一瞬だったしさ、ケガもしてなくてあんまり痛みとかもなくて、そもそもすぐ気失ったりなんかしちゃったからさ」
あわてた俺はまくし立てるように言う。でも澪は、顔を上げない。
「違うの」
「どこが」
「呪いのことは、考えなかったの」
垂れた前髪が目元を隠し、澪の表情はわからない。
一瞬だったんだよ? しかも、さっきまで寝てた。怪しい奴がいたわけじゃない。つとめて明るく口に出してみた。でもやっぱり、澪は顔を上げない。
「でも私は、わたし……」
「昨日は眠れた?」
うまく形をなさない言葉を遮って聞くと、澪は少し戸惑うしぐさを見せて、答える。
「おとといよりは。……だって未来ちゃんがかすり傷だけ、気を失っただけ、今は寝てるだけ、って何度も、とにかく大丈夫だって言ってくれたし、和也くんも昨日、好きだから大丈夫、って」
「よかった。澪が俺のせいでまた眠れなくなってたらどうしようかと思っ……」
「やめて」
さっき俺がしたように、澪は遮って言った。
「そんなに、優しくしないで」
「えーと、え?」
「和也くんがいてくれたら私はそれでいいのに、もうそんな、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめん……」
言いながら澪は、やっと顔を上げた。そして俺の目を少し見てイスから下り、白いタオルケットの下に伸ばした俺の足元に立てひざでやって来て突っ伏した。泣いている。
「ごめん……泣くなよ」
近い側の澪の手を、両手を伸ばしてぎゅっと握る。形のいいすらっとした指が四本、俺の手の中に納まった。
お互いにもう何もいえなくて、また病室には控えめなテレビの音だけが響く。
にぎやかなCMの音が止まって、ちらりと目をやるとこの時間帯によく見るアナウンサーがお辞儀をした。少し安っぽく見える地方局のスタジオで、ローカルニュースが始まった。
昨日午後四時ごろ、みどり市凪町の歩道で信号待ちをしていた男子高校生をハンドル操作を誤った乗用車がはねるという事故がありました。男子高校生は一時的に意識を失いましたが命に別状はなく現在は回復しておりけがも軽傷だということです。乗用車はその後――
澪がぱっと顔を上げて目元をぬぐい、ふたりして画面に釘付けになる。その後電柱とぶつかりかけて止まった黒のステーションワゴンが大うつしになった。
――乗用車を運転していた男性にけがは無く、警察は男性の供述と目撃者の証言から対向車線から飛び出した無謀運転のミニバイクを避けようとしての事故と断定するとともに、ミニバイクを運転していた少年とみられる人物を捜索しています。しかし現在までに少年の行方はつかめておらず、ナンバープレートもなかったという証言も得られており――
「ねえ、和也くん」
そう言って画面から目を切り、振り向いた澪の顔は明らかにこわばっていた。
「ねえ」
「何も言わないで」
「和也く……」
「何も、言うな」
立ったまま小さく体を震わせている澪の目からはまた涙がこぼれていた。
ベッドの縁に座るように体を移動させ、そして裸足のまま病室のつるつるした床に立つ。焦点の合わない目で小さくかぶりを振っている澪に半歩踏み出し、両手を背中に回して強く抱き寄せた。
「和也くん……?」
「俺はちゃんと、ここにいる」
俺に二の腕を挟まれる形になった澪の両腕はそれに抗うことなく、すぐに俺の背中に巻きついてくる。完全に体が密着し、肩から背中にかけて少し、涙のこぼれる感触があった。
儚いほどに細い澪の体は、だけど思っていたよりずっと、柔らかかった。
「俺はいなくなったりしないし、消えたりしないよ、絶対」
返事をしないかわりに、澪はもう一度強く俺を抱きしめる。
何もかも、澪そのものだけを見るんじゃなくて、澪が持つすべてを受け入れる準備が、俺はそのとき、できたんだと思う。
それからすぐに澪は帰った。いつまでもいてもいけないから、というのが言い分だ。
本当のところを言うともう少しでもいいからいて欲しかったし、澪も帰りたいというわけではなかったろうがそれはお互いに口には出さなかったし、何より澪の不安がいくらかは消えたようだったから、まあいいか、と思えた。
明日会えるようになったらすぐ会う、と約束をして、携帯はない、と言ったら、私一日中家にいるから、なんて言いだしたときにはさすがに少しだけ驚いたけど。
澪を見送って少しして、ドアががちゃりと開いた。
ワタナベさんが戻ってきたんだと思ってチャンネルを回しながら目をやると、有働先生だったのでまたもひどく驚いた。
「斉藤おはよう。くつろいでるな」
いつも通りの男しゃべりに、なぜだか少し安心した。
「ああ、えーと……はい」
「連絡もらって、大丈夫、ってわかってたけど来た。新聞にも載ってたぞ」
「ニュースでもやってました」
話しながら遠慮なく先生は隣にやって来て、よいしょ、と丸イスに座る。ジーンズだからいいんだろうだけど、足を開くのはさすがにどうかと思う。
「ピンピンしてるな」
「まだ一応検査はあるんですがね」
「そうか、まあ大丈夫だろ」
そして先生はバッグから封筒を取り出しながら、それとな、と言う。
「古典なら間に合ってます」
「違う違う。まあ、それでもよかったんだがな」
「そ、そうですか」
先生は軽く組んだ足の膝のところに両手を片方ずつ乗せて、前に体重をかけた姿勢になった。少し距離が近くなって、もう一度それとな、と口を開きなおした。
「木田が来たんだ」
「貴司が、ですか?」
「浪野のことを知りたいってな。一昨日だ。それで取り急ぎ調べたんだが……」
先生はちょっと怒っているときにする、何やらめんどくさそうな感じの顔をした。
「転出の手続きがされていないから資料は残っているはずなんだが、見つからないんだ。私の書き込みがある指導要録は残っていたんだが、それ以上にちゃんとした資料はない。成績も全員の一覧でしか残ってなくてな、誰かが処分したのかとも思ったが……普通はとっとくものまでないんだ」
「どういうことですか」
「解らない。本当ならありえないことが起こっている。極めつけは面談だ。浪野の親と面談はした覚えがないんだが、私の筆跡で、した、と記録があった。他の資料はもうなくて……それともうひとつ」
「まだあるんですか」
「全く同じケースがあとひとり、あったんだ。光原だよ」
光原ですか、と俺が調子を変えて食いつくと、先生は目を一瞬軽く閉じて口の端で笑い、少し首を傾げた。先生も知ってるのかなあ俺と澪のこと、と少し肩身が狭くなる。
「私は面談した覚えはないんだ。でも、メモ的なものだけ見ていくとなぜか今年も去年もしたことになっている。私の思い違いかと思ったりもしたが……相手は熱心なお父さんだそうだ」
「お父さん……!?」
「おかしいよな。母親とふたり暮らしのはずなのに」
「そのお母さんも、なかなか家にいないそうですが」
そうだよな、と先生は首肯する。
「おかしい、おかしいよな。私には、解らない」
「呪いの噂と、何か……」
関係はありますかね、と言おうとしたら目で制せられた。
「教師が率先してそんなもの信じるわけにはいかないだろう」
「でも」
「わかってる。その話――光原の噂と関係があるつもりで私も話したんだ」
苦虫を噛み潰したどころか、噛み潰している最中の顔を、先生はした。
はあ、と曖昧に相槌を打つと先生はしばらくしてまた、今度は丸イスの後ろ側を両手で持って体重を後ろにかけ気味に口を開いた。
「私は御崎のOGなんだ。あまり言わないようにしてるんだが」
「そうなんですか」
「そう。二十年も前の話になるけどな。言わないのには、理由がある」
先生は上を向いて天井を見つめている。こういうのを遠い目というのだろうか。
「光原のことだ」
「またみお……や、光原ですか」
俺があわてて言い直したのに気付かないはずはなく、先生は少し表情を和らげてこちらに目をやり、無理しなくていいぞ、仲がいいのはいいことだ、とあごをしゃくった。わあっ、と顔が熱くなる。
「まあ、それでだ。私がいた二十年前、一年生のときにあったんだよ。似たようなことが」
俺は目を丸くして先生を見たが、先生は気に留めることなく同じペースで話を続けていく。
「クラスにいたんだ。同じ噂があった子が。仲がいいって噂になった男子がな、ひとり消えたんだ。今回と同じように不可解な消え方だったのかはもう知ることはできないだろうが。でも私たちのころはそのひとりで終わってそこまでだった。噂だって一年経って二年経って下火にもなった。でも私にとってあれは決していい思い出でも、無視できる記憶でもない。私が光原に構いすぎるのも、そういうことなのかもしれない」
先生は難しい顔をして言い、さっきの封筒をやっと俺に手渡した。
「今はまだ見るな。それは私たちのころに出回ったもので、呪いの噂が文章にされてばらまかれたうちの一枚だ。それをどうするかはお前に任せる。だがこれだけは言わせてくれ。私は光原のこともまだ、単なる子供じみた噂として終わってほしいと思っているし、光原のことを信じてだっている。色々調べた、今でもな。それともうひとつ、万が一光原の身に何かあったら……」
「ありません。澪は大丈夫です」
せっかくさっき確かめたのにもう一度その可能性を提示されたくなくて、俺は遮ってしまった。
先生はあまり動じることなく続ける。
「強いな。お前といれば光原は安心だ」
言い切られてまた俺の顔は熱くなった。なんとまあ物怖じせず何でも言ってしまう人だ。
なんて考えているうちに先生は立ち上がり、さっさと帰っていこうとする。
「不安にさせたり不快にさせたりしたのなら申し訳ないが、今日は主にそれを伝えにきた。じゃあな、病院にいる間は一応大人しくしとけよ」
最後に、さっきのは最初はひとりで読むんだぞ、と先生は付け加えて、ドアを開けて出ていった。
それを見送ったあとすぐ、俺は思い立って手に持ったままだった封筒を開いた。
中には封筒の大きさの割に小さすぎるB5サイズくらいの紙がしかも八つ折りで入っていて、開いてみるとなるほどそれらしい文章が印字してあった。
◆
その女の子は、呪われています。
その女の子は、あなたを吸い寄せます。
その女の子に、あなたは吸い寄せられます。
呪いは、あなたを吸い込みます。
呪いはもう、あなたから離れません。
呪われたあなたを、世界は決して許しません。
いつまでも、いつまでも。
遠くへ、遠くへ、どこまでも。
◆
いかにもひと昔前といった感じがするワープロだかタイプライターだかの粗い字体で、長くないその文章が間を開けて紙全体を使って刻まれている。コピーを繰り返したからだろうか文字はひどく読みにくかった。しかしこれが澪と同じ呪いだとすると、その呪いは昔から伝わってきた伝奇、つまり本当の、正統派の呪いではないことになる。しかも単なる思いつきの都市伝説にしてもどことなく文章が稚拙な気がして、もしかしたら私怨かも、とも思ったが、だけどやっぱりやたらと不気味だった。
そしてその紙は、二十年という歳月を考えても必要以上に、しかもわざとらしくぼろぼろな気がして、もしかしたら先生もかつて呪いに傷つけられた過去を持っているのかもしれない、と一瞬だけ思った。
ワタナベさんも帰ってこないうちに、今度は貴司がやってきた。次から次へと、入れかわり立ちかわりってやつだ。
「来てやったぞー」
「ヒマなのか?」
「ひでー言い草だな。まあ夏休みだからな」
「ヒマなんだな」
「夏休みにヒマな奴なんていねえよ。ヒマに見える奴でも、実は青春の無駄づかいに必死なの」
はん、と軽く鼻で笑ってやる。全身の力が抜けていく気がする。
「で、まあ来てくれたんだよな。大丈夫なのに」
「あらかた未来ちゃんから聞いちゃったから、具体的な話はもういいからな」
「そうか」
「で、これまでに誰か来たのか?」
自転車で一緒に通学することがなくなったから、なかなかふたりで話す機会もない。一緒に走りに行った日もあったけど、それも毎日じゃない。
「澪と、有働先生が来たよ」
「ふうん、結構来るねえ」
そのせいか、いつものようなテンポが会話にない気がする。貴司はなぜか少し無気力な感じで、そのことが俺に次の言葉を急がせた。
「先生のところ、行ったんだって?」
貴司は少し俺の顔を見てから言った。
「行った」
「浪野のこと、先生から聞いたよ」
「そうか」
貴司の返事は、ひとつひとつがやたらと短い。
「なんだよ、ハキがないなあ。普通は見舞いって元気づけに来るもんだろ?」
そうか、そうだよな、と言って貴司は笑うけど、やっぱりその表情に力はない。
「どうしたんだよ、言ってみろよ何でも。元気づけるまでもなく俺は元気だし」
「じゃあ……なあ和也、和也はこれからどうするんだ?」
「どうする、って?」
「呪いのことだよ」
まだピンと来ずに俺がもう一度聞き返すと、貴司は随分時間をかけてから言った。
「和也自身は光原さんのこと好き、って気持ちが決まって、光原さんのほうも決まった。それをお互いに伝えもして……でも、それで終わりじゃないだろ? まさか今回のことが呪いと無関係だなんて思ってないよな?」
「思いたいけどね」
「俺は俺なりに、噂を知ってる奴にも話を聞いてみたりして、あまつさえ先生にも話してみたりした。あの妙な紙も、見せてもらっただろ?」
受け取って今持ってる、と俺は答えた。
「どうしたら呪いは解けるのか、どうして呪いはかかるのか、全然解らないだろ? ヒントも何も、まだない。だったらこのまま、死にはしなくても悪いことが続いていくんじゃ」
「よせよ」
「でも」
反論しかけて、貴司はやめた。しばらくまたぼんやりした空気が流れて、性懲りもなくテレビの音だけが取り残される。
「俺さ、さっき澪と確かめたんだ」
しばらく考えて、俺は気持ちを言葉にする。
「まず聞くんだけど、貴司は俺が消えない理由は何だと思う?」
「それは……知り合いかたが違うからじゃないか? 亮も言ってただろ、光原さんから声をかけたのは初めてだ、って」
その答えを聞いて、俺は例の紙をまた封筒から出した。
「本当なら消える奴は『吸い寄せられる』って……でも俺は、俺のことは澪が選んだ」
「どういうことだよ」
「もとから違うんだ。これまでに消えた奴よりはもっと、俺と澪の繋がりは強いんだよ」
「でも、和也はこんなことになってるぞ?」
俺が答えをすでに用意していることを前提として、貴司は促すように聞いてくる。
「俺とのつながりもあって澪に接することになったお前は、どうにもなってない。亮だってそうだ。普通のクラスメイトよりずっと、仲良くできてるだろ? 先生も言ってたよ、噂は自然に下火になっていった、って。だからもう誰も消えない。そんな楽天的にはいかないかもしれないけど、俺と澪がおおっぴらに付き合ってたら、澪が本当は普通の人間なんだってみんなわかってくれるよ。そうなったときに、こんなことも起こらなくなるんじゃないかな」
貴司は中指で左目をこすりながら、口だけで少し笑った。
「目からウロコ、だな」
「まあ確証はないんだけどな。で、澪と確かめたこと、ってのは、何があっても離れない、いなくなったりしない、ってこと」
「でも例えば、もっと大変な“事故”があったら?」
「何かあるごとに、俺は澪と解り合えてる気がする。だから今は、その“事故”も、まんざらじゃないんだよ。死んだりしないのが前提だけど、それは多分大丈夫」
「愛の力、ってやつか。むかつくなあ」
冗談の口調で本音を言う、いつもの貴司がやっと戻ってきた。これまでずっとしてきたように、ははは、とふたりで笑う。
「それとさ、結局俺、対馬には話せてないはずなんだけど、呪いのこと」
「ああ、それなら心配いらないよ。凜に頼んであるから。それと」
ぱん、と手を軽く叩いて、貴司は立ち上がった。
「もうすぐみんな、来るはずだぞ。未来ちゃんが連れてくるはず……」
がちゃっ。
そら来た、と貴司は飛び上がったが、顔を出したのはワタナベさんで、貴司はぎょっとして小さくなった。ワタナベさんはまた、なんだかにやにやしている。
「あんまり笑ってると怪しいですよ」
「いや、変なのもいるもんでさ、若者の集団がいるなあ、と思ったらキミの彼女も混じっててね、一度来たはずの病室の場所を忘れた、って。どんだけ夢中で来たんだよ、って……おーい、入っていいよお」
またドアが開いて、開いた向こうに未来がいて、対馬がいて、灰原がいて、亮もいて、そしてまた、澪もいた。
ワタナベさんの余計な演出をなじりながらも俺は五人を迎える。
みんながかける思い思いの明るくて温かい言葉と、また調子づいてきた貴司の言いぐさ。
ちょっとくらい隣の人を気にかけろよ、というワタナベさんの冗談も混じって、さっきよりももっと明るい、澪の本当に楽しそうな笑顔もあった。
澪とみんながくれたこの時間に、俺は胸が締め付けられるような温かさを感じた。
結局検査ぎりぎりまでみんないて、ワタナベさんも巻き込んでずっとわいわいやっていた。
それはもう、看護師さんがたしなめに来るぐらいだった。
別れ際に俺と澪は明日会う約束を再確認して、みんなに全力で冷やかされた。
それももう、看護師さんがたしなめに来るぐらいだった。
余談。「すべてへ」というのがこの小説のタイトルですが、19(ジューク)の楽曲に同名の曲が存在します。
小学生の頃に聴いたことはあったはずなので偶然ではなく、しかしそこから取ったというつもりもありません。無意識というか、忘れていました。
気付いたときにはこの辺まで書き進めていたのでもはや変えようにも猛烈な違和感に苛まれ変えられず、どうせ素人だしとこのまま投稿、そして落選から掲載へ、という流れをたどって今に至ります。
でも権利者からの訴えがあればもちろん変更するつもりです(自意識過剰)。