10.知らない空が巡る(An invisible ambivalence)
翌日、俺は初めてひとりでその家を訪ねた。
チャイムを鳴らすとぱたぱたと足音がして、ドアが開く。
「いらっしゃい、和也くん」
「お、おじゃまします」
昨日の約束を事もなげに果たしてみせて、光原は――……いや、澪は俺を招き入れた。
「澪」
「なに?」
俺も一度口に出しておきたくて呼びかけると、澪はいつもより力の抜けた、聞きようによっては少し甘えたようにも聞こえる声で返事をした。
「ひと晩経ってみて、どう?」
他人が聞いても解らないくらい不親切で、しかもちょっと意地悪な質問。
「あんまり実感って、ないかな」
だけど澪は小首を傾げながら、なんでもないことのように答える。
実感、か。
立花とのことはあったけど、自分の中では他人と比べて異性とそういう意味であまり縁のない生活をしてきたように思う俺としては、あんな形で澪と知り合って休みの日にまで会うようになったこと自体まだ実感していなかったりする。だけど昨日のことはそれにもまして実感がなく、それどころかそんな大したこととも思えなくて、みんな言っていた通り、もしかしたらそれよりずっと前に、俺の気持ちは決まっていたのかもしれない。
「さい……和也くんは?」
「俺も、あんまり」
俺がそう答えると、じゅうたんに座った澪は、そういうものなのかな、と言いながら両手を横について脚を伸ばし、体重を後ろにかけて天井を仰いだ。少し伸びたのかもしれない後ろ髪が真っ直ぐに背中に垂れる。
昨日より少し可愛く見えたというのは多分気のせいじゃないけど、それは秘密にしておくことにする。
今日はふたりで図書館に行って、夏休みの宿題でもすることにしている。貴司にはせっかくなのになんで、とちょっとバカにされたけど、いまはそれでいい。
あまり難しいことを考えずに、とりあえず澪に会いたかったから。
とりあえずお茶を飲みながら、澪は今日行くことにしている御崎中央図書館について話してくれた。今よりもっと土地の安い時代に地域の文化水準向上のために助成金が出たとかで建てられた図書館で、規模としては大きかったが今では多少縮小されてその部分が学習室に充てられたらしい。個別の自習室ではないからそこまで静かではなくテスト勉強などには向いてないかもしれないけど、一緒に宿題をするにはちょうどいいかもしれない、という。小さい頃に何度か行ったことがある気がするが、もちろんというか、そこまでは知らなかった。
家でやっても同じだろうに、と思ってしまう部分もあるが、多分そうした部分が澪の真面目なところで、そういうのもなんかいいなあ、と思ったりしていた。
それから家を出て、自転車での移動になった。
図書館までは意外と長くかからず、だけど普段ひとりだったり俺より体格のいい貴司とだったりでしか自転車で走ることはないから澪のペースにそれとなく合わせるのに多少腐心した。
そういえば以前単なるクラスメイトとしての澪が自転車をこいでいるのを貴司と見かけたときに、貴司は確か「是非とも立ちこぎして欲しい」なんて言っていたけど、今日になって何となくそれが解った気がした。車通りも少ない道を並走しながらちらちら覗くじっと前を見つめて安全運転の貼り付いた澪の横顔は、そのまっすぐな感じが何とも言えない感じだった。
「なによ和也くん、こっちばっかり見てる」
「や、なんでもないよ」
「んもう、前見てないと危ないよ」
言いながらこちらを、澪もちらりと見る。風で流れるセミロングも、なんかいい。
「わかってるって」
まあ制服だしスカートだから、貴司はただ風が吹けば桶屋が儲かる感じで言っただけだったのかもしれないが。
「和也くんは古典が苦手なんだっけ」
少し手をつけてみてやっぱり放棄している他の教科とは違い、開いた形跡もない俺の古典の宿題を見て澪は聞いた。
「うん……でも何で知ってるの」
学習室には昼過ぎの微妙な時間というのもあるかもしれないが日本の未来は大丈夫かというくらい人がいなくて、中学生と思しき女の子がひとり何か必死に本を見ながらノートを書いていて、あとは小学校三、四年くらいの男の子が三人、自由研究でもするのだろうか理科系の本を並べてつつきあいながらぼそぼそやっているだけだった。
「テストの後へこんでたじゃん。それに有働先生もちょっと、グチってた」
そういえばよく話しているんだし、朝もいつも話してるって先生も言ってたな。
「うーん、かなり早い段階でつまずいちゃったからね」
「文法がわからないの?」
「文法とか単語はぼちぼちなんだけど、訳を読んでも何が言いたいのかよくわからないって感じ」
そんな簡単な質問がしばらく続いた後でいくらかアドバイスをもらい、俺はそのまま古典に、澪は数学に取りかかった。
有働先生とはタイプが違うだろうが澪もなるとしたらいい先生になれそうで、だけどこんなお姉さんが家庭教師だったりしたら日本男児は勉強どころではないだろう。その点は、俺が保証する。
でも時間が経つにつれ、全く集中力の切れない澪に引っ張られるかのように俺もだんだん集中していって、結局貴司の言うところの色気がない感じになってしまった。宿題が進んだからそれでいいとも思うけど。
「できたの?」
ひと段落ついた俺に澪は聞いた。
「それなり」
「わかった?」
「いつもより、ね。ありがと」
俺がそう礼を言うと澪は少しはにかんだような表情を見せた。
「あと、古文なら現代語訳で読んでみるのもいいかもね。図書館だから結構あると思うよ」
照れ隠しするように澪がそう付け加えたので、探してみるよ、と俺は言って立ち上がり、閲覧室に通じる階段へ向かった。
澪はやっぱり古典が好きなのだろうか。だとしたらそれはもとからなのか、それとも有働先生の影響だろうか。面談の時の先生の口調から言って、先生が澪の、ある意味でよりどころになっていたのは間違いないだろうから、きっとそうかもしれないな。
そんなことを考えながら、階段より少し前から続いている手すりに手をかけて階段を下りようとする。
中一のころにボーッとしていて階段を七、八段落っこちたのがきっかけで、手すりにつかまらないと何気なくでも階段を下りることができなくて、例えばさっき澪と上ってきた時も情けないながら手すりにつかまってきていたわけで、
下りなら、なおさらで、
どんっ。
だけどその行為にあまり意味がなかったことを、俺は思い知ることになった。
三分の一を下りきらないうちに突如背中に何かがぶつかるような感覚があって、手すりにそわせていた手を握る間もなく俺は小さな叫び声とともに階段を転げ落ちた。
階下でうずくまる俺をすぐに職員のひとりが見つけて駆け寄ってきて、澪も階段を駆け下りてきた。
「大丈夫ですか!?」
職員のその呼びかけに俺はすぐ立ち上がり、身体の無事を確認する。
「ええ、多分」
どこでどう受け身を取ったのか痛む部分はたくさんあるが、大きなケガはないようだった。少し体をはたきながら立ち上がる。
「和也くん!?」
「いや、大丈夫大丈夫。ごめん」
駆け下りてきた澪にそう声をかけた。一瞬でひどく憔悴したような顔が安堵の表情に変わる。
周りにはまばらに人だかりができていて、俺は大丈夫です、と言ってお辞儀をした。振り向くと、安心したように散っていく人影を焦点の合わない目でただ見つめている澪がいる。
その視線の先にいた小学生と思しき男の子は、俺と澪をちらりと見て走り去っていった。
「高橋くん……?」
何か嫌な想像があったので、澪のその小さな言葉にも、そして背中にぶつかった感覚のことも口に出さずに黙っていた俺に、澪はごめんなんでもない、と責められていないのに言い訳した。
それから三十分くらいをまた学習室で過ごしたが明らかに澪は集中できていない様子で、俺のほうも現代語訳の平家物語を眺めてはいたがずっと澪のほうばかり窺っていたので祇園精舎の鐘の声どころではなく、なんとなく暗い感じのままで図書館を出ることになった。弾まない会話をしながらペダルをこぎ、自転車を走らせる。
「なんかごめんね」
例によって佐野塾の前に到着し、自転車をふたりしてとめたところで澪は言った。
「何が?」
「私が誘ったから、あんなことになって」
「そんなこと言ってたら何もできないだろ?」
「でも」
「大丈夫だって。ほら俺、ピンピンしてる」
そう言って俺は、手足を大げさにばたつかせて見せた。
「……ありがと」
右の太ももが、少しだけ痛んだ。
「ありがと、じゃねーよ」
でもそれから、じゃあね、と言った澪の心の痛みのほうが、ずっと強く俺に響いた気がした。
家に帰りついてドアを開け、いつも通り未来がおかえり、と言うのを聞いてそこですっと肩の力が抜けた。自分がそんなにもこわばっていたということに気付いて驚いていると、未来が尋ねてきた。
「ねえ和也、どこ行ってたの」
「ん、図書館」
答えながら、ソファーに腰かける。ちょっと伸びをして目をやると、未来はにたーっ、と笑って言った。
「誰と?」
「み、光原と」
「ふたりで?」
「……まあ、そう」
俺が一度うつむいて、未来の顔を窺いながら言うと未来は少し肩をすくめ、ははは、と笑った。
「やっと、付き合い始めたの?」
「うん」
「好きになったの?」
「うん」
「好きって、言えたの?」
「うん」
新聞のテレビ欄を眺めながら、本当に何気ない調子でとんとん、とぶつけられる質問に俺は短く答えていくことしかできなかった。
「あ、リモコンとって」
「うん」
未来はリモコンを受け取ると、テレビをつけてチャンネルを回しながら、そっか、と言った。
「俺が思ってた反応じゃないな」
「何言われると思ってたのよ」
「ほらもっと、えー本当に? とか、とてもじゃないけど釣り合わなーい、とか」
ソファーに座る俺が足を伸ばせばギリギリ届くくらいの所に座椅子で座っている未来はぴくりとも動かず、画面に視線をとどめたままで言った。
「言わないよそんなこと。だって……お似合いだと思ったもん」
普段面白いお笑いタレントや意外と美味しかった新しいスナック菓子の話をしているときよりずっと、平坦な口調。
「そ……」
「和也は和也だけど、あたしの自慢のおにいちゃんだよ」
だからおにいちゃんはやめろ、と言おうとして、だけど軽く振り向いて見た未来の横顔があまりにマジメだったから、俺はそれきり何も言えなくなった。
そしてしばらくは夕方のニュース番組をふたりで眺めて、未来はいつものように世の中の芸能人や代わったばかりの総理大臣をおおざっぱに批評していたが、またしばらく黙った後で平坦な口調に戻って言った。
「ねえ和也」
「何だよ」
「いいこと教えてあげよっか」
俺は曖昧な返事しかしなかったが、未来は構わず続けた。
「この前和也が熱出してさ、澪さん来てくれたじゃん。で、和也寝ちゃってたじゃん」
「そうだな」
「和也が起きたとき、澪さんすぐそばにいたでしょ?」
「うん……そうだったよな、確か」
「あの時ね」
さっきのにたーっ、とは違う、どことなく楽しそうな笑顔で未来は言った。
「澪さん、和也にキス、してたんだよ」
思考停止。平静を装おうとするまでにも少し、時間がかかった。
「いやー、見ちゃいけなかったかなーって思ったし、多分澪さんは誰にもバレてないと思ってただろうし、言うべきじゃないかなー、とも思ったんだけど、付き合い始めたんだったら、いいよね。あっでも細かくどのあたりにしたのかとかは見えなくて残念、ドアが開いてたから廊下からね……」
確かにびっくりするほどすぐそばにいたし、ひどくうろたえていたと寝起きながらに記憶しているけど、でも。
俺がまたしても何も言えずにいると、ひとしきりひとりで盛り上がっていた未来はやがてまた真顔に戻る。
「本当か、それ」
ようやく俺が聞くと、未来は黙ってうなずいた。
「そっか、でも……」
「和也っ」
何故か言い訳を始めようとする俺を遮って、未来は言う。
「澪さんのこと、守ってあげてね。澪さんもきっと、“和也に”そうして欲しいと思ってるはずだから」
妹だてらに、こいつは。
言い終えて未来は立ち上がり、あたしのことも誰か守ってくんないかな、なんて言いながら階段を上っていった。
その背中を見送った後すぐ、俺は携帯を手にとって澪に電話をかけた。
明日もまた会おうよ、と約束を少し一方的にとりつけて、でも声のトーンはいつもと同じに戻っている澪にも気付いて、俺は少しほっとしながら細長い溜め息をひとつついた。
だけど、次の朝だった。
朝七時過ぎというかなり早い時間に澪から珍しくメールが来ていたことに、九時過ぎに起きて気付いた。
『朝早くごめんなさい。せっかく約束したけど、今日は会えません。ごめんなさい。また、私から連絡します』
寝ぼけなまこで文面をなぞって、意味がとれるなりぱっと目が覚めてがっくりきた。
昨日の未来との話に触発されたつもりはないのだが、とにかく今日は会いたかったから。
『ううん、大丈夫。気にしなくていいよ、また会おうね』
色々考えてみたけどそんな返事しかできなくて、そのメールにも返事はなかった。
澪を疑うわけではないが、昨日澪が口走った“高橋くん”という名前が会えないとなると気になり始めたので、『話がある』と何度か亮にメールを入れた。でもずっと亮は寝ていたらしく返事が来たのは昼過ぎだった。
『すまん、本当に申し訳ない。完全に寝てた。話ってのは、貴司も交えてしたほうがいい感じか?』
“高橋くん”について、何の確証もあるわけではない。
顔見知りの子供だと思ってしまいたい気持ちは十二分にあったけど、やはり俺は肯定の返事をせざるを得なかった。
貴司には俺から連絡するよ、と亮は返してきて、それから四十分ほどしたころに我が家のチャイムが鳴る。はあい、と出ていった未来が驚くほどふたりのテンションは低くて、いつもへらへらしているぶん、俺まで参ってしまいそうになった。
そして俺の部屋に入り、三人で思い思いに座り長話の体勢に入る。
「付き合い始めたところなのにいきなりかよ、って思ったよ、正直」
澪と俺のことは貴司からすでに聞いていたという亮が、あまり景気のいい話ではないことを察知して言った。
「俺らだって、悪い方へは考えたくない」
「俺だってそうだよ、自分のことなんだし」
そのひと言で場をさらに暗くしてしまった俺は、沈黙を破るためにとりあえず本題に入ることにした。
「まず亮に聞きたいんだが、高橋、って名前に聞き覚え、ないか?」
「よくある名前だろ、どうしてその名前が出てきたのかから教えてくれよ」
あまり間をおかずに、貴司が口を挟んだ。亮は黙ってうつむいている。
「わかった、じゃあ話す」
「頼む」
亮はほとんど口を動かさず、うつむいたままで言った。
「昨日俺、澪と図書館、行ったんだ。勉強しに」
澪、というところで少しためらった俺に、ようやくちょっとだけふたりは笑った。でもすぐ、元の表情に戻る。
「まあ勉強教えてもらったり宿題したりして、古文は現代語訳で読んでみるといいかも、って言ってくれたから下りていって探してみようとしたのな。そしたら、階段から落っこちた。人の気配はなかったけど多分、というか絶対突き落とされた」
「背中を、か?」
広げた両手を胸の前で押し出す仕草をしながら、貴司が言う。
「どん、っていう衝撃は、間違いなくあったよ。で、下まで十段くらいかな、転げ落ちた」
「ケガは?」
「右足のももを少し打ったけど、大丈夫だ。人間って、結構受け身とれるもんなんだな」
同意くらいはせめて欲しくて言ったのだが、ふたりが何も言わないので俺はそのまま続けた。
「で、職員の人も来てくれて、澪も気付いて走ってきてくれて、でも突き落とした奴は見つからなくて、でも俺まだ、っつーか突き落とされたのは今初めて話してるから、だから普通に心配してくれただけだったんだけど、同じように集まってきてくれた知らない人たちの中の、多分小学生の男の子をぼうっと見つめて、『高橋くん……』って、澪が言ったんだ」
それだけ、と小さく付け加えてしばらく経って、言いにくそうに亮が答えた。
「残念だが、多分予想通りだ。高橋ってのは一応、光原の呪いが小三の時に消したことになってる奴の名前だ。見た目はどんな感じだったか教えてくれ」
「よくは見てないけど、三、四年生くらいだとは思った。うつろだったけど目は大きくて、ちょっと女っぽい顔立ちだった」
亮は両手で顔を覆って、大きく長く息を吐く。思い当たる節があるのだろう。
「それで、テンションは下がったけどそれからはまあまあ普通の雰囲気で一緒に帰って、俺が家に帰った後で電話して今日も会うって約束したときはまあ元気だったんだけど、今朝やっぱり会えないってメール入って、返事はしたけどそれっきり」
「光原さんも感づいてるよ」
貴司が口を開く。
「凜も言ってたんだ。制服姿でひとり歩いてる奴を祭りで見かけた、って。そう言われれば浪野っぽかったかも、って。俺は見なかったけど光原さんが見てる可能性もあるわけだし、そもそもその高橋ってのに心当たりがあればそれだけで結論は出せる」
「だからとりあえず、自分のせいだと思って今日は断った、って、考えられる話だよな」
貴司と亮に言われて、改めて自分でも出しかけていた結論にたどり着いた。
「じっとしてるつもりか? 昨日は『また明日』って、言ってたんだろ?」
亮は、さらに言う。貴司はいつもの笑顔に戻って、少しあごをしゃくった。
「うん、でも、やっぱ……」
「行きたいんだろ? ついてってやるよ。いなかったらいなかったで、ちゃんと用事でもできたんだ、って、それでオーライじゃん」
じゃあうん、頼むよ。亮にそう言うと、世話焼かせんなよな、と嬉しそうに言った。
「そういえばさ」
貴司が出し抜けに言ったので、俺と亮はぱっ、とそちらを見た。
「未来ちゃんには言ってあるの? 光原さんのこと。呪いの噂は知ってるんだよな」
未来はさっきまでの俺たちの異様な雰囲気のせいかやって来るどころか部屋のドアの前を通ることも多分していない。当然かもしれないし、別に不自然でもないのだが。
「付き合ってる、ってことは昨日言った。呪いとかの話は、こっちからはほとんどしてない」
初めて澪の家を訪ねた日に、俺に泣きついた未来のことを思い出した。
「ちゃんと伝えたほうがよくないか? 不安にさせるのは不本意かもだけど、もう心配はしてるだろうし」
「そうかもしれないな。和也や光原の身のことは、もうふたりだけの問題じゃない」
強く言うふたりに、俺も強く同意する。
「じゃあお前らが光原さんち行くんなら、俺がそのへん話しとくよ」
「助かる」
「で、凜にも全部、今晩にでも話しとく」
まだ話してなかったのかよと意外に思ったが、とりあえずは同意しておいた。
「対馬には俺が話すよ、直接」
俺がそう言ったところで三人で立ち上がり、俺の部屋を出た。
階段を下りた後でぼうっとテレビを見ている未来を貴司が呼ぶ。
返事をして立ち上がった未来をちょっとちょっと、と話し込む体勢に持ち込む一方で(こういうことは妙にうまいんだよなこいつ)、俺と亮はよろしくな、と家を出て、自転車にまたがった。
ピンポーン。
何を考えているのか何も考えていないのかよく解らないところは亮も貴司と同じで、到着して息つく間もなく亮はチャイムを鳴らした。
「おいちょっと、いきなり」
「ためらってたら何もできなくなるよ」
絶対バンジージャンプや高飛び込みが得意なタイプだろう、だなんて思っていたら、意外にもすぐにためらいなくドアが開かれた。
「はーい……って、え?」
おーす、といきなりフランクな挨拶をかました亮にか、その後ろの俺にかは判らないがとにかく澪は驚いていた。
「えーと、どしたの?」
「和也が来たいって言ってたから、連れてきた」
「ちょっと、はしょり過ぎだって……ほら、いきなりだったから何かあったのかな、って気になっててさ」
澪は一気に毒気を抜かれたようになって、何やら言いにくそうに答えた。
「いや、ちょっと……何かつらかったっていうかなんていうか」
「そういうときのための彼氏じゃないの?」
「あ、えっとそれは」
「和也が来て、嫌だった? 嫌だったなら、俺が謝る」
「別に嫌なんかじゃないし、どっちかっていうと、あの」
「じゃあオッケー、後は和也が頑張るだけじゃん」
さっきまでとはうって変わった笑顔で澪のひと言ひと言を遮りつつまくし立てる亮に完全に澪は押されていて、核心を突かれ本音を引き出され、顔も真っ赤になっている。そしてそれを気にとめる様子もなく、亮は俺の背中をばんと叩いて去っていった。
なんだか妙におかしくなって、澪とふたりで大笑いした。
天才は、意外と俺たちの近くにいる。
「入って……座ってて。紅茶でいい?」
俺を迎え入れてそう言った澪は笑顔ではあるけれどどことなく疲れた顔をしているように見えて、やはり体調でも悪いのではないかとも思ったが、キッチンで作業する姿はいつもと変わらないように見えた。
もはやいつも通りといったしぐさでカップとソーサーをテーブルに置き、自分も座りながら、なんかごめんね、わざわざ来てもらって、と言った。
「どうして?」
「だって、余計な心配かけちゃったのは私だし」
「だったら俺だって階段から落ちたりもしたしさ、ほらこの前だってお見舞い、来てくれたじゃん。そうめんも、茹でてくれたんでしょ?」
「うん……」
「ちょっと何か体調も悪そうだけど、大丈夫?」
澪は困ったような顔で少しうつむいた後すぐに顔を上げ、少し苦笑いした。
「児玉君があんな感じで、和也くんも来てくれたからもう、どうでもよくなっちゃったんだけど」
そこまで言ったところで髪を軽く触りながら黙ってしまう。俺はどうも耐えられなくなって、言ってしまった。
「俺が階段から落ちたことと、何か関係ある?」
「な、いやえーと、関係、あるのかなあ。わかんない」
「高橋くん、ってのには?」
「聞いてたの?」
だんだん澪はイスの上で小さくなっていく。
「聞いてた。亮からもいろいろ聞いた」
「和也くんも、そうなんだと思ってるの?」
しばらく黙ったあと、そんな飛躍した質問。だけど意味は、はっきり解る。
「思ってるよ」
「あのね、私」
そのとき、いつか体育館裏で見たのと同じように、澪の切れ長の目から涙がこぼれた。
「眠れなかったの。私のせいだって、思ったから……心配で、心配で!」
「落ち着いてくれ、な。俺はほら、大丈夫だから」
テーブルに少し乗り出して、そんな言葉をかけてみた。
わあっと泣き出すかと思ったが、その言葉が効いたのか澪はすぐに落ち着いた。
「昨日ね、まさか、って思ったの」
落ち着いてからまたしばらくして、澪は話を始めた。
「でも普通ならあんな風にいきなり、階段から落ちたりなんてしないよね」
「そう……かもしれない」
「和也くんが階段から落ちて、私が走ってって、大丈夫だって言ってくれたときは本当に安心したけど、高橋くんがいて、こっち見てて……結びつけないわけには、いかないでしょ?」
「祭りのときは」
「見たよ、浪野くん。ジュース買いに行ったときに」
嫌な予想は、えてして当たるものだ。
「浪野くんも、こっち見てた。怖かった。昨日の夜思い出して、また怖くなった。和也くんにこれ以上、何かあったらと思うと、私……」
白い手から伸びる長い指が、きれいに整った澪の顔を覆う。また泣き出しそうな目が、半分だけ隠される。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ! お腹殴られて、階段から落とされて、痛かったでしょ? これからもっとひどいことが起こるかもしれないんだよ?」
「大丈夫だって」
「どうして? どうしてそんな」
「好きだから」
少しパニックになった感じの澪は食い下がらない。
「でも」
「澪もあのとき、初めて話したとき、理由もないのに大丈夫って言ってくれた。どうなんだろう、って思ったけど、その大丈夫があったからこうやって、好きになれた。今では理由もある。好きだから、だいじょうぶ」
「好きって、そんなに強いの?」
しばらく経ってまた落ち着いて、飲みごろを逃した紅茶を口に含みながら澪は尋ねる。
「わかんないよ、でも」
「でも?」
「俺の中では、好きがいちばん強い」
惜しげもなくそんなことを言ってしまえる自分に気付いて、ようやくそこで俺は我に返った。
や、俺何言ってんだろ。そう言ってごまかそうとしたけど、澪が先に口を開いた。
「好きだから、つらいのかもしれない。でも好きだから、一緒にいたいんだよね」
顔全体をほんのり赤く染めながら、はにかんだ笑顔。
好きな人の口から聞く“好き”は、多分本当に、この世でいちばん強い。
そしてしばらく、また昨日の階段から落ちる前に戻ることができた。
学校の話をして、料理の話をして、亮の話で少し盛り上がった。
多分今は、それでよかったんだと思う。
「じゃあ、また明日。ゆっくり休めよ」
「ありがとう、そうするね。また明日連絡する」
まだいつもより早い時間だったが、澪は本当に眠れていなかったらしく安心したからか次第に眠そうになっていくので、四時前に俺はもう帰ってしまうことに決めた。本当はもう少し話していたかったけど、そんな思いも込めて強く、絶対、と明日の約束をした。
玄関まで見送られて門を出て、自転車に乗り込んで少し行ったあと、ふと思い立って携帯を取り出すと、貴司からメールが届いていた。
『未来ちゃんには話したよ。落ち着いて聞いてくれた。お前の口からも、大丈夫、って言ってやれよ。凜にも今晩、電話で話す。対馬さんには、よろしくな』
言われなくても思い出したろうが、対馬のことは思考の隅に追いやられていて、未来にもそして対馬にもどうやって言おうかという問題が俺の中に一気に持ち上がった。対馬には全部話せばいい。でも、何て切り出そう。未来にはただ、大丈夫だと言えばいい。でも、そんな話にできるだろうか。
そんなことを考えて帰りづらかったのと、対馬に今度CDを貸すことになっているのを思い出したこともあって、俺はなんとなく少し遠回りしてレンタルショップに寄ることにした。
自転車をとめて店に入り、アルバムのコーナーに足を運ぶ。さしてクローズアップされているわけでもないだろうからと、普通の棚に目を走らせる。
ザ・モスキートーズ。
“さ”のところを探したけどなくて、そうか、と思い直してま行から“も”のところを探したけど、やっぱりなかった。シングルも、当然のごとくない。
他に目を引いたCDもないわけではなかったし、会員証もお金も財布の中にちゃんとあるはずだけど、なんだか気分が乗らなくてそのまま店を出た。
店を出てすぐに長い信号に引っかかったので、携帯を取り出してネットに接続し、検索をかけてみる。公式サイトではなく、たくさんのバンドを扱う解説サイトがヒットした。
「メジャーデビュー後、すぐに解散、か……」
キキーーー……
どすん。
一瞬、黒い影が見えた。ブレーキ音が耳に残ったまま、体が一瞬、軽くなる。
視界が暗転し、周りがひどく騒がしくなった。
救急車のサイレンが聞こえる――
告白編も終わり、いよいよ呪いの謎が解き明かされ始めます。
その割には主人公とヒロインがいちゃいちゃし過ぎ? ……それは仕様です。