8
図書館でスタンダールの赤と黒を借りた。それをデイパックに詰めて、ぼくは遥の待つ校門を目指す。お待たせと声をかけると、遥は午前よりだいぶ気温の下がった光の中で笑った。
「川崎でもいいかな?」
最寄駅へと続くなだらかな坂道を下りながら、遥はそう訪ねる。白いスキニーパンツにスリッポンタイプのパンプスで歩く彼女はいかにも順風満帆な大学生の手本みたいで、実際ぼくの顔を覗き込んだ遥の表情は秋の光で赤く染まっていた。柔肌の下で血潮が燃えているような色だ。羨ましいと思いつつ、ぼくは遥に歩調を合わす。
「いいよ。むしろそこの方が品揃えいいと思う」
「そうね。それじゃあそこにしましょう」
南武線を経由して終点の川崎駅を降りたぼくたちは、大型のショッピングモールへと移動した。ここなら確実に品揃えには困らない。ぼくは今日買う予定のものを頭の中でそれとなく描きながら、遥と二人で歩いた。
平日の午後だというのに、そこには人が溢れかえっていた。このショッピングモールは広場を中心にして、周りをぐるりと取り囲むような形でデパートが建っている。その広場を行き交う人の数はそこそこ多く、学校帰りらしき学生の姿がちらほら見えた。
傾いた柑子色の陽射しの中で、幾数もの笑顔が目の前を行き交う。
「遥はなにを買う予定なんだ?」
今回はだいぶ長くなりそうだなと思い、エスカレーターを昇りながらそう目配せする。
「腕時計を買おうかなって。彼と付き合って三年経つし、社会人デビューするから」
心底嬉しそうな、ふやけた笑顔だった。ふぅん、と相槌を打つ。
遥の恋人は年上で、確か外資系の仕事に就職したと聞いた。よほどのエリートなんだなと思いながら、ぼくはぼくでなにを買おうかと思案に暮れる。
「シオンは?」
案の定遥が聞き返す。先ほどのイメージの余韻のせいか、ぼくはその言葉で腕時計を付けた大輔の手をついつい想像した。
大輔は銀のベゼルとケースに、白い文字盤のシンプルな時計を巻き付けている。ベルトは琥珀色の革製だった。頭の中の大輔がどうにも美化されているのか、それはあの逞しい腕にあまりにも似合っているような気がした。少し古臭いかもしれないが、できることならぼくも、彼の誕生日には腕時計をプレゼントしたいと思う。
そうして顔を上げると、なぜか遥がこちらを見て微笑んでいた。
思い出し笑いや嘲笑とは違う種類の笑みに、刺すような違和感を覚える。ぼくは思わず声を上げた。
「あ……どうかした?」
「シオン、あんた今彼氏のこと考えてたでしょ」
笑いを含んだその声にずばりと言い当てられ、ぼくは戸惑う。それほど顔に出ていたのかと不思議に思ったが、遥に言わせればどうやらそれは「女のカン」というやつだった。
「シオンって本当に、彼のこと考えてる時は分かりやすいよね」
「そうか?」
「うん。いつも遠くを見てるの。ここにいる私じゃなくて、ずっと向こうにいる誰かを目だけで探してるみたい」
そんなに、大輔のことを考えているつもりはなかったのに。恥ずかしくなって顔を背けると、遙はサイダーの泡が弾けるように笑った。