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「座って」


 促されて、すとんと椅子に腰掛ける。店内の喧騒は、ぼくとは違う遠い世界にあるかのようだった。頭上ではシーリングファンが音もなく回る。ぼくの思考回路と同じように。


「シオン……だよな?」

「うん。ぼくだよ」


 彼はそう切り出して、ぼくはこくりと頷いた。戸惑っている彼を前に、ぼくはなにを話そうかと熟考する。祖父が死んだとか、親友がフランスに渡ったとか、路上で冒されたとか、話すことはいっぱいあったけれど、どれもこれも口にしようとする気にはならなかった。

 結局、ぼくは当たり障りのないことを言うことにした。


「その、大輔は元気にしてた?」

「ああ」


 素っ気ない返事。なんだか別人のように思える彼に怯みそうになるが、視線を上げないようにして、ぼくは訥々(とつとつ)と喋った。沈黙が怖かった。


「驚いたよね。こんな格好、初めてしたんだ。慣れなくて不安だったけど、案外着てみると、女として扱われることがなかなか心地いいものだったりするんだ。着心地は全然よくなんかないけどね。足は痛いし、膝がむずむずする。でも、こうしてみると本当に女の子だろ? 生まれて初めて、かわいいって、素敵だねって言われたんだ。大輔は、どうかな」

「シオン」


 咄嗟に名前を呼ばれて、ぼくはびくりと肩を竦めた。浅はかだと言われるだろうか。それともくだらない話をするなと叱られるだろうか。


「気安く名前、呼ばないでくれる?」


 それが幻聴だと思いたかった。

 予想だにしなかった言葉に、今まで俯かせていた顔を上げる。

 彼の瞳は冷たい色に染まっていて、視線が合うとたちまち氷の矢がぼくを射抜いた。

 ぼくは間抜けなあひるみたいになにも言うことが出来ず、ただ彼の言葉にうろたえるだけだった。


「駅で見ただろ。嫁と、その子供」


 ぼくの息が止まる。ためらわず、大輔は淡々と続けた。


「あの子供は俺の子じゃない。――彼女は俺と寝る前にも、他の男と経験してた。だけどいざ子供ができるとなると、頼る人がいなかったんだろうな。だから手頃そうだった俺に手を出した。と言っても俺と彼女はあの日、本当になにもなかったんだが」

「じゃあ、なんでっ」


 反射的に尋ねる。すると大輔は口の端をニッと吊り上げた。意地悪で、今までに見たこともない顔だった。


「あっちの方がかわいいからに決まってるだろ」


「……へ?」


 心を貫かれたような痛みだった。それは恋に落ちる瞬間だとかそういうものではなく、熱した太い針でぼくもろとも貫いて消し去ろうとするような、残酷な痛みだった。

 頭が混乱する。


「お前の家に金がなかったら、お前みたいなのと付き合ったりしないよ」

「それは……どう、いう……」

「言葉通りの意味だよ。俺の家がとてつもなく貧乏なのは知ってるだろ? だからそんな人生から抜け出したくて、奨学金を借りてまで医学部に行った。でもやっぱりそれだけじゃどうにもならなくて、卒業後に奨学金を返済しようにも、多額の借金を期間内に返せるだけの見込みはなかった。だから俺は、お前と付き合った」


 義務的な、機械のような声。大輔の言葉が頭の中で意味を成さなくて、ぼくは噛み締めるように、長い時間を掛けて理解した。


「つまり、きみは、ぼくの家の金を目当てに?」


 否定して欲しかった。ぼくの目を見て、違うとただ一言、呟いて欲しかった。

 しかし大輔は相変わらず無機質な声で、「そうだ」と簡単に頷いた。


「医者になれたら、あんたの親が経営してる病院を就職先に選んでも良いしな。……でも、俺があの日、女の子を妊娠させたなんて言ってからお前と連絡がつかなくなって、もうこれまでかって思ったよ。俺の人生計画が狂ったように思えてやけになったけど、そんな時に彼女は俺のそばで――」


 声が聞こえなくなって、ぼくは遠くに彼を感じた。自我を失った人形のように、彼の言葉が響く中で口を閉ざす。

 考えたくなかった。今までの思い出がすべて、偽物などと。

 無理してぼくに付き合っていた? キスをして、手を繋いで、抱き締めて、寄り添って、それもすべて彼の計画の上で、ぼくだけが善がって、喜んで、浅ましく尻尾を振っていた?

 大輔がそばにいることが、ただただ嬉しかったから。


 だとしたらぼくは、本物の道化じゃないか!


 彼を見上げる。冷ややかな双眸がぼくを見下ろしている。同じ高さの目線なのに、捕食者のように怖い。

 綺麗に縁取られたその輪郭や目元やまつ毛の下で、ぼくのことを一体どんな目で見ていたのだろう。きっとこんな目だ。最初からぼくをパートナーとして見ていない。ぼくはただの手駒。彼の人生の中でぼくは、白と黒の上で踊るクイーンだったのだろう。でも一歩ずつしか動けない、愚弄で情けない王様キングが今のぼくだ。


「――だからさ。もうお前はいいよ。お金はないけど、あいつの方が俺に尽くしてくれる。お前に叱られた時はもう終わったと思ったけど、逆に俺はそれで、本当に誰かのことを好きになるという意味を見つけたんだ。その点は感謝してる。ありがとう、シオン」


 にこやかに彼は笑う。白い歯が覗く。ぼくの好きな笑顔。

 そんなはずない。そんなはず、あるわけがない。

 声が出ない。焼けてしまったように込み上げる痛みは喉を突き抜けて、鼻の奥、それから目頭へと渡っていった。


「俺が言うことはそれだけ。だからもう名前を呼ばないでくれる? 街中で見つけても、声を掛けないでくれ。俺とお前はもう他人で、無関係なんだ」


 大輔はぼくにそう言って、それからゆっくりと席を立った。

 はっとなって、ぼくは彼の腕を掴む。振り払われることはなく、彼は一瞬立ち止まってくれた。


「なに? 言いたいことあるなら言えよ」

「ねぇ、きみは……」


 声が震えないように、必死で言葉を紡ぐ。唾を飲み下して、それからぼくは大輔に問うた。


「ぼくのこと、どう思ってたの? 最初から好きじゃなかったのか……?」


 かつて好きだと言ってくれた言葉が、どうか嘘ではありませんように。

 ぼくは祈りを込めて、大輔の手を握る。


「さあな」


 大輔は穏やかに笑うと、ぼくの手をそっと剥がした。

 最後まで優しいその仕草に、涙が零れそうになる。どうにかこらえて、ぼくは大輔の背を見送った。

 赤い光の中に彼は消えて、それがぼくの見た最後の姿だった。

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