30
須藤には見捨てられて、母からは散々怒られた。
つまり見合いは失敗した。
怒鳴り声と喚きの残響を記憶に、ぼくは誰もいない部屋に帰ろうと小さなアパートを目指す。服は見合いの席と同じ格好のまま、白いワンピースをはためかせてぼくは歩いた。
駅の改札をくぐり、疲弊した体が太陽の光を浴びる。つい目を細めて、ぼくはしかめ面をした。気分が悪い。吐きそうだ。でもここで吐いたら、公共の迷惑になってしまうな。
足が痛い。なんでこんなもの履いてるんだろう。うまく働かない頭でごちゃごちゃと巡る思考をよそに、ぼくは帰る前に気晴らしのつもりで本屋で新刊でも買おうと考える。
その足が、自然と本屋の方角に向いた時だった。
人混みの中で、ぼくは見知った人を見つけた。
くしゃりと癖のある黒髪。子犬のような眼差し。逞しい腕。相変わらずの服のセンス。水に似た、懐かしい彼の人。
間違いない、彼だった。
「大輔!」
気が付けば夢中で叫んで、走りにくいのも構わずに駆けていった。
今思えば、どうしてそこで思いとどまらなかったのだろう、なぜ考えもせずに飛び出して行ったのかと何遍も後悔する。
かろうじて転ばずに走って行った先には彼と、そして笑顔を浮かべる女の子がいた。
ぼくが夢に見た光景と、同じ。
違うのは、隣にいる彼女の腕の中に、可愛らしい赤ん坊がいることだった。
「……あなた誰?」
ぼくよりも数倍可愛く、流行りの服を着こなしている彼女にそう突き付けられて顔が引き攣る。少しどころの衝撃ではなかった。ぼくはどうにか平静を装って、けれど今にも気が狂いそうな中で一言も喋れずにいた。
一方で大輔はぼくを見て目を瞬かせ、やがてぼくに気付いたのだろう。すぐになにかを思い出したような顔をすると、隣の女の子になにやら耳打ちをした。二言三言囁いて、彼女がその度に頷く。
その光景は秘密基地の場所を教え合う子供みたいに、付け入る隙がなかった。
「分かった。じゃああたしは先に帰ってるね」
女の子は大輔にそう微笑むと、ぼくを睨みつけてから駅の改札に消えて行った。ぼくはワンピースの裾をぎゅっと握り締めるしかできなかった。
「……カフェにでも行こうか」
気まずさの風が二人の間を通り抜ける中、大輔は変わらない声で優しく言う。ぼくは素直に頷いて、彼が向かう先についていった。
歓喜、というよりはなんだかもやもやする感情に、ぼくは嘔吐きそうになるのを何度も唾を飲み込んで抑えた。
彼が向かった先は、ぼくたちが待ち合わせや無駄話に花を咲かせたかつてのカフェだった。昔に戻ったように馴染みのある風景と同時に、苦々しい記憶が蘇る。大輔から女の子に手を出したことを告白されて、そしてぼくがカフェラテを浴びせた場所。
ここで別れて以来だったな――。
店に入っていく大輔の背中を見つめる。
前より逞しくなった? 少し痩せた?
うまく思い出せない。細かいところを、ぼくはよく覚えてないのだ。
ドアを開ける手の薬指には銀色の指輪が光っている。ぼくがあげたはずの腕時計は、手首にはもうなかった。




