29
広い庭の中、砂利の上を進む足音が二つ。
まだ色づくには早い紅葉の葉は優しい色に染まっていて、ぽつりぽつりと並んでいる石灯篭には至るところに苔がついている。時代を超えてきたような由緒あるこの庭は、逸る心を落ち着かせるのにぴったりだった。
訪れた庭に感化されたように、ぼくたちは無言で歩みを進める。建物の中からは人が動く細々とした音がする。どこかで鹿威しが鳴いた。
「きみは素敵な人だ」
履きなれていない靴のせいで慎重に歩くぼくの横で、歩幅を合わせていた彼が不意に口を開いた。
ぼくは首を振って否定する。
「そんなこと、ないです」
「謙遜しなくていい。緊張しているのか?」
「……はい」
意識を常に足に持っていきながら、なんとかして答える。すると彼はふっと笑って、「実は私もだ」と告げた。顔に視線をやると、困った子犬みたいな表情でぼくを見ている彼がいる。ぼくはそこで初めて、彼の崩れた笑顔を見た。
「手、いいかい?」
彼はふとそう言って、ぼくの手を取って握り締める。
誰かによく似た手は汗ばんでいて、こころなしか震えていた。優しいぬくもりに顔を上げて、不思議そうに彼にピントを合わせる。
「恥ずかしい話、きみみたいな綺麗な人と話したことがなくて。私はこう見えても人見知りで、今だってとても緊張しているんだ」
そんな容姿を持ちながら、女の子に騒がれたことはないのだろうか。ぼくは疑問に思うけれど、結婚を見据えたお見合いなのだ。どう答えていいか分からず、繋がれた手をそのままに黙っていることにする。
「貴女とは上手くやっていけそうだ」
どうやら彼はぼくのことが気に入ったらしい。色を含んだ目で見られて、思わず寒気がする。握られた手を離そうと引っ張った瞬間、履きなれていない靴のせいでぼくは大きくバランスを崩してしまった。視界が揺れ動いて思わず声を上げる。しかしすぐさま、その体を須藤が受け止めた。
「あ……ありがとうございます」
ぼくの手を掴んだことで倒れるのを防いでくれた須藤にそう言ってから、ぼくはあまりの恥ずかしさに俯く。須藤は涼しげな顔で笑っていた。
「意外とそそっかしいんだな」
からかうような声は、まるで少年のようないたずらっぽさが感じられた。
その時、ぼくはふと思案する。
彼はそんなに悪い人ではない。
悪い人ではないのだけれど、ぼくはこの彼と未来を歩むという想像は、残念ながらできなかった。
彼と同じ家に住むのだろうか? 彼との間で子供を産んで、彼のために料理をしたり、洗濯物をしたりするというのか? 無論、選択肢次第では別居や家政婦を雇うということもできるだろう。
だが、それならば結婚することになんの意味があるのだろうか。
この人のために半生を捧げるなど、きっとぼくには到底できない。
第一この女の皮を被った中身は……。
ぼくは意を決して、真実を話すことにした。
「……あの。少しだけ、聞いてもらってもいいですか」
ぼくの方から初めて話しかけたことに、須藤は目を丸くした。それから優しく微笑んで、「なんだい?」と聞き返す。
ぼくは彼が受け入れてくれるだろうことを期待しながら、不安の種を打ち明けることにした。彼の返事次第では、ぼくもまた彼を受け入れることができるかもしれない。
ありのままの姿で、愛することができるかもしれない。
ぼくは頭の中で必死にまとめた言葉を、たどたどしく口にした。
「実は、私の……ぼくの心は男なんです。生まれた時からずっとそうで、今までも男だって認識で生きてきました」
途端に、須藤が息を詰まらせた。
ぼくは泣いている子供を諭すようにゆっくりと話す。
「それがどうしたっていう話なんですが、それでも貴方が、そんなぼくでもいいと言うのであればお付き合いをお願いしたいです。なにも、ぼくがいつまでも男のような態度と性格でいるという訳ではありません。徐々に変えていきますから、どうかそれまで、このぼくを受け入れてはくれませんか」
「それは……本当なのか」
須藤の声は戸惑いに揺れていた。
ぼくは迷わず頷く。
「嘘じゃないだろうな」
「嘘はつきません。第一、ぼく自身が自分に嘘をついてまで貴方を愛そうとすることがつらいです。そうでなくて、ぼくは貴方と本心と向き合いたい。女としての役割は……きちんと果たします。でも、ぼくを素敵だと言ってくれたあなたに、こんなぼくも知って欲しかった」
顔を上げるのが怖かった。懇願するように吐き出す声は最後の方だけが掠れて、うまく聞き取れたのか不安になる。
「お願いします……」
繋いでいた手が離れて行く。
やがて、ぼくの耳にため息が流れ込んできた。
「婚約の話は、なかったことにしよう」
思考回路が断線した。
と同時に、ああ、やっぱり。なんて声が頭の中でがらんと響いた。
予想していた二つの回答のうち、一つが見事に的中したことをぼくは知る。それはもはや、最悪の答えだった。
胸を刺すような苦しみに押し潰されないよう、わざとらしく笑う。次いで「そうですよね」と言った。出した声は震えていた。
須藤は踵を返して去っていく。その後ろ姿に、ぼくは愚かにも慌てて彼の袖にしがみつこうと手を伸ばした。
「あ……待ってください!」
「っ、からかうのもいい加減にしてくれ。体は女のようだが、中身は男? それできみとの愛を育めというのか」
けれど手は呆気なく振り払われて、突き飛ばされた。ヒールを履いた足では上手くバランスを取ることができず、ぼくは砂利の上に尻餅をつく。そのまま見送った彼の背は怒っているようで、そのうち肩を尖らせた彼は建物の中に消えていった。
「……まあ、そうなるよな」
いくらなんでも体が女だからって、男として成立するはずはないんだ。
取り繕うようにぼくは笑う。そして呆然と、視界に焼き付いた残像を見つめた。
しばらく経ってからぼくはゆっくりと立ち上がって、汚れた箇所を軽く手で払う。これからどうしようと悩んで、庭の隅に池があるのを見つけたぼくは誘われるようにその淵へと歩いて行った。
水面に、白いワンピースに身を包んだ女性が映る。今にも泣きそうな、悲しそうな顔をしていた。
どうしてよいか分からず、ぼくはただただ立ち尽くす。混線した頭の中では一つのセンテンスが螺旋を描いては揺れ、縮み、様々な色へと姿を変えていく。
――誰かに、そのままの姿のぼくを分かって欲しかったんだ。
透き通った水の中で泳ぐ錦鯉が、茶化すように尾びれで水面を叩く。ばちゃりと音を立てた泡の上に、ぼくの雫が静かに落ちて行った。




