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 大輔の好意を素直にうなずけないのには、ある理由がある。

 目の前の家のインターホンを押す。いつしか同級生が「豪邸」と称した家だ。しかしぼくはその呼称が、なんだかからかっているように思えて嫌だった。

 敷地にそれなりの広さがあるのは事実だ。だが真の豊かさとは、単に金があることだけだろうか?

 小さなアパートで一人暮らしをするまで、ぼくはそんなことを思いながら、家へと入っていったものだ。

 インターホンの音に、内臓されたマイクが応答する。


「どちら様でしょうか?」


 あまり好きではない母の声。こういう時以外に母がぼくに向けて優しい声を出したことなど、記憶にある限りはほとんどない。


「ぼくです。シオンです」

「……入ってもいいわよ、開いてるから」


 一気に冷めた声のトーンは、底冷えするほど恐ろしかった。インターホンはガチャンと耳障りな音を立てて途絶える。

 ぼくは重たいドアを開けた。


 家には無論、母がいた。自分が過ごした家のはずなのに、ここには他人の家を訪れた時にしばしば感じる、独特の匂いがした。そのせいか、懐かしいとか、久しぶりだなどという感慨はない。そもそも実家に対する郷愁の意識自体が薄い。


「ただいま。蔵書を取りに来ただけだから、すぐに帰るよ」


 そう告げながら、靴を脱いで廊下を歩く。居心地が悪い。ピンと張られた糸がそこかしこにあって、動く度にその糸が絡まり体を締め付けていくようだった。

 こんな時――レポートに使う資料が図書館ですでに貸し出されていなければ、この家に来ることはなかったのに。

 ぼくが引っ越す前に使っていた部屋へ向かおうと、階段を登る。ぼくが散々慣れ親しんだ空間はどこもかしこも埃をかぶっていて、その上寄せ集めた家財の物置と化していた。

 引っ越す時に、めんどくさいからと置いて行った本棚へと向かう。見つけた目的の本を三冊手に取って、ぼくはそれらを丁寧に鞄に仕舞った。部屋を出る時にくしゃみが出た。


「見合いをして頂戴、シオン」


 階下に降りた瞬間、冷たい声でそんな言葉を放たれた。

 何度も聞いたことのあるセリフだった。ぼくは足を止め、けれど顔を上げないまま、その声を流す。


「そんなふざけた男みたいな格好して、大学でロクな勉強もしないで将来も分からないようなら、花嫁修業でもしてさっさと嫁いだ方が身のためよ」


 深い谷底に突き落とされるような一瞬が、黒い沈黙を携えてぼくの心を通り過ぎた。

 母のいうその「身のため」という言葉は、本当にぼくのためだというのか。

 様々な疑問符に顔を上げる。にらむような双眸と視線がかち合った。疎ましがるような、全てを食いつくそうとする蛇のような目をしていた。

 母がぼくのことを嫌っているのは分かっている。

 母にとってぼくは待望の娘だったのに、それがどこでどうこんがらがったのか、ぼくの中身は初めから「男」だった。幼いころぼくが好きだったのは、母が買ってくれたかわいい人形や洋服より、車やヒーロー物の特撮アニメであったのだ。彼女がぼくに対してどんなに絶望したかは、想像に難くない。

 けれど。今更女の格好をして女の声で大輔以外の男と向き合えなどと、天と地がひっくり返っても想像したくはない。ぼくは男で、今までその概念で生きてきたし、これからもそうやって生きたいのだ。

 ……なにがいけないというのだろうか。

 しかしはっきりと逆らうだけの力は、ぼくにはまだない。

 第一そんなことをすれば、大輔との関係も危うくなってしまう。うかつにも「付き合っている恋人がいる」などと言ってその生き方を貫こうとすれば、逆にぼくの方が貫かれてしまうことは分かりきっている。

 ならば、いっそ駆け落ちでもしてしまおうか?

 そんなことを、ぼくは脳裏で考える。

 しかし次に聞こえた言葉に、我が耳を疑った。


「もう先方には取り次いであるから。あんたも今年で二十歳でしょう。婚約して、大学を卒業したら結婚しなさい。なんなら大学をやめてもいいわよ」

「……なんで、そんな急に」


 顔を上げる。冷笑的な顔で、目の前の女は猛禽類のように鋭い瞳でぼくを突き刺す。


「言っておくけど、今度逃げ出したらあんたが暮らしているアパートから追い出すから。それに、もう断れないわよ。そんなことしたら相手方に失礼じゃない。相手はIT企業の社長のご子息よ。ハンサムで頭のいい方だと聞いてるわ。あんたにとっても損はないと思うけれど」


 母はくるりと背を向けてそうまくし立てる。ぼくはあっけに取られたまま、少し曲がり始めた背中を見つめた。


「あんたは夏樹なつきに比べて頭が悪いんだから、働くよりも結婚して子供を産んで、夫と暮らした方が幸せなの」


 なにをもってして、それがぼくの幸せだと断言できる?

 ぼくは男なのに。

 少しだけ、ぼくの描く将来が崩れる。大輔と一緒になりたいなどと、過ぎた願いなのだろうか。

 唇を噛み、自問を繰り返す。自答はいつまでも返ってこない。

 現実が、そこに雨が降ったように霞んでゆく。


 大学を卒業したら、きっと待っている婚約者。


 その影が、ぼくと大輔の将来を不安にさせる。

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