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記憶遭難

「うわあ、ヤバイな~こりゃ」

 坂島則明さかじまのりあきは記憶喪失だ。生まれてから二十四年間の記憶を一気に失ってしまった、不幸な青年である。

 そして俺は彼―ー坂島則明の記憶である。

 記憶とはいっても、俺は幽霊のように浮遊しているわけでもないし、透明でも、壁をすり抜けることだってできやしない。ただ普通に手足があって、目と耳があって、見た目は人間とまったく一緒だ。

 まあ俺の外見に関する詳しい情報は二の次にしておこう。今の俺は坂島則明を探して吹雪の中を彷徨っているのだから。

「うおォ~いィ、さ~かじまあ、ど~こにいるんだぁ~?」

 手でメガホンを作っても、声は発した瞬間に吹雪に吹き飛ばされてしまう。だから自分でもちゃんと声が出せているのか分からない。耳にはびやうびやうという音だけが繰り返し聞こえるだけだ。

 歩いても歩いても、前に進んでいる実感がわかない。ひょっとしたらさっきから同じところをグルグルと回っているのかもしれない。そんな妄想が俺の体をよりいっそう冷たくする。

 どうしてこんな目に遭ってしまったのか。

 一向に改善する気配のない状況が俺の心を徐々に蝕んでいき、いつしか俺は坂島を見つけることより原因の追求に頭を使っていた。


 坂島則明はついさっきまでスキー場にいた。彼はスキーの愛好家なのだ。今日もマニアしか知らない穴場のゲレンデに板を滑らせているところで、会社のことや彼女のことも頭にいれず、快楽とも享楽ともいえる時間を思う存分堪能していた。

 だが、この時点でよくなかったことが二つある。一つは一人きりで滑っていたこと、もう一つはゲレンデの放送をも頭にいれなかったことだ。その結果、彼は急変する山の天気に翻弄されてしまった。

 そして――俺は鼻水をすすって思い出す――確か彼は雪に足をとられて転び、頭を木にがつんとぶつけてしまったのだ。その拍子に俺は坂島の体から飛び出し、はぐれてしまった。

 これが愚かな男、坂島則明の身に起こった悲劇。離れ離れになった実体と記憶。

 ……いや、実体と記憶とはいっても俺にだってこうして実体はあるわけだし、ここは坂島則明本人とその記憶体とでも言うべきか。

 だが名前なんてどうでもいい。俺は一刻も早く坂島則明と合流し、記憶を彼に戻さなければならないのだ。

 俺は足にいっそうの力を込めて歩き出した。


 ――どれほどの時間が経っただろうか。

 白、白、白に覆われた視界は変わることなく、聞こえる音は吹きすさぶ風の音だけ。こんなところで正常な時間間隔を保てるほうがおかしい。が、ともかく心身がへばってしまうほどの長い時間が過ぎた感覚だけは確かだった。

 うっすらと光が見えた。

 最初は気のせいかと思った。だが雪と雪のかすかな隙間からは確かに、小さな光源が遠くにあることが確認できた。

 坂島、そこにいるのか?

 俺は最後の力を振り絞り、細く儚げな光のもとへ急いだ。

 光の正体は古ぼけた山小屋だった。

 軋む引き戸に手をかけると、ギ、ギ、ギと唸る。その向こうには囲炉裏のそばに座する坂島則明――ではなく、一人の女性の姿があった。

「あら、いらっしゃい」

 女性はそう言って手招きをした。長い白髪が特徴的で、幸薄そうな色白の肌をしていた。

 俺は「どうも」と言い、「参りますね、こりゃ」と頭を掻いた。

 女性はフフと笑い、「参っちゃいますね」と応じた。

「ところで、坂島則明という方が来ませんでしたか?」

「いいえ。私がここに着いてからはあなたが初めてです」

「そうですか」

「お友達?」

「いえ。実は私、彼の記憶なのです」

「あらまあ。それはお気の毒」

 女性は口元に手を当てて驚き、それから同情の念を露わにした。

「ええ。ですから彼の元に戻らないと大変なことになってしまうのです」

「大変なことって?」

「坂島則明が坂島則明として生きられなくなってしまいます」

「それって大変なことなのかしら?」

「え?」

 彼女の不用意な発言に、俺は思わず間抜けな声をあげてしまった。

「大変なことに決まってるじゃないですか。坂島は無事生還しても記憶喪失者として病院で検査を受けます。それまでの人間関係も払拭されますし、彼が二十四年かけて積み上げてきた経験すべてが水泡に帰すのですから、これを大変と言わずして何というのでしょう」

「確かに大変ね。でもそれは坂島さんの問題であって、あなたのことではないんじゃない?」

「え?」

 彼女が何を言っているのか、俺にはすぐ理解できなかった。だって俺は『坂島則明の記憶』であって、それ以外の何者でもないのだから。

「それに、無事生還できたらの話でしょう? もしそれが出来なかったらどうするの?」

「それは……」

 考えたこともなかった。いや、もしかしたら意図的に考えようとしなかっただけなのかもしれない。

 吹雪は激しさを増し、小屋の壁をガタガタと揺らす。

「ねえ」

 女性は俺のもとに詰め寄った。ほのかに温かい吐息が冷えた頬を融かしていく。

「私はあなたが気に入ったわ。あなたがただの記憶だとか、坂島とかいう人のこととか、そんなのは関係ないの。私はあなたに生きていてほしいって、そう思うわ」

「で、でも俺には彼女が――」

「それはあなたの彼女じゃないんでしょう?」

 どうなんだ? 俺にはかつての恋人を慕う感情も初デートのときの会話も鮮明に覚えているが、それは俺と彼女が付き合っていたことと直接結びつくのか? 記憶はあっても、それ以上のものは何も……。

「ほぅら」

 女性は俺の眉間に人差指を突き立てた。

「その顔は、昔の女を思い返す男特有の表情なのよ」


 こうして俺は坂島則明の記憶を持つ、坂島則明でも他の誰でもない人間として生まれ変わった。

 幸か不幸か、坂島則明は雪山で遭難して以来姿を現さなかった。おかげで俺は坂島のポジションをそっくりそのまま乗っ取り、誰に疑われることもなく日常生活を送っていた。

 唯一変わったことといえば……

「あら、今日は早かったのね」

 前の彼女とは別れた。その言い出しっぺは意外にも向こうの方で、同じ話をしようとしていた俺は拍子抜けしてしまった。

 そしてアパートの部屋で同居している相手は、山小屋で出会ったあの女なのだった。

 彼女だけが俺を俺として見てくれる。坂島則明でない『俺』として。

 自己の存在を認められる喜び。

 社会に対する仮面を脱ぎ捨てられる至福の時間。

 そんな感動を――


「君は……誰だ?」


 味わったりなんか、しなかった。






 俺には坂島則明の経験と、自分が坂島則明の記憶であるという定義によって成り立っている。

 だから俺が坂島則明の記憶である以上、俺が俺としての記憶を保持することなど不可能なのだ。

 今日も彼女は話してくれる。雪山で出会ってから、今日の今までどんな出来事があってどんな料理を作ってあげてどんなデートをしてどんな風に前の彼女と別れたのかを。そんな彼女に俺は新鮮な好意を覚え、初恋に近い高揚に飽くことなく身体を燃やされるのだ。

 彼女がいなければ俺は、自分が坂島則明の記憶だという事実が風化されるのをよしとし、次第に坂島則明の記憶と自分とのギャップに疑問を抱くこともなくなっていただろう。

 彼女は俺にとって無二の観測手なのだ。ああ、俺はなんて幸せ者なんだろう。大切な人に見られながら、自己を正しく認識できるだなんて!

 もしかしたら、俺と同じように記憶が当人に成り代わってカッコウのように生きる人間が他にもいるかもしれない。そのような同類たちがもしいるのだとしたら、俺は彼らに対し声を大にして言いたい。

 君が君だと証明してくれる観測手を見つけろ。

 でなければ君は何者にもなれないのだ、と。



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