悲しみ
杏里の『悲しみがとまらない』が聞こえてきて、アタシは学生時代の思い出をちょこっとだけ思い出す。
ネットのどこかでふと見た言葉。
男の恋は「名前をつけて保存」
女の恋は「上書き保存」
統計的に見ればそうなのかもしれない。実はまるっきり間違ってるのかもしれない。
アタシに言えることはただ一つ。終わった恋はそのどちらかってことだけ。
本来の機能の10分の1も使いこなせていないスマホの画面に、彼の名前がチカチカ点滅している。
アタシはカーテンを開けて、スマホ片手にベランダへ出た。遠くの夜空はネオンに照らされ、街のにぎわいがアタシの部屋にまで頼んでもいないのに届いてくる。隣の部屋のテレビの音もはっきりと聞こえる。
反応の鈍いタッチパネルを触ると、今度は頼んでもいない彼のアイラブユーが耳に飛び込んでくる。
アタシがそれに適当な返事をすると、彼は今度の週末に予定はあるかと聞いてきた。首だけ部屋にちょこっと入れて、アタシのコンタクト越しの両目が壁のカレンダーに焦点を定める。
空白。空白。
飲み会も休日出勤もなし。
そのことを正直に伝えると、彼は無駄にはしゃいだ様子でデートの約束を申し込んできた。近々オープンしたショッピングモール。行く前から脳裏に人・人・人の大渋滞が浮かんだ。
思わず溜息が出るが、その音が彼に聞こえないように注意する。
そしてアタシは「わかった」と言う。彼は嬉しそうに感謝の意を口にし、最後にまたアイラブユーを言った。アタシから通話を切る。
静かになったスマホをベッドに放り投げ、アタシは冷蔵庫から缶ビールを取り出した。ベランダで飲む。ちびちびと、特に何も考えずに。
ふと、隣の部屋から懐かしいメロディが聞こえてきた。
I can't stop the loneliness
こらえきれず 悲しみがとまらない
I can't stop the loneliness
どうしてなの 悲しみがとまらない
ああ、懐かしい曲だな。
アタシはついつい鼻歌でメロディを追ってしまう。酔っぱらっているのかもしれない、ちょこっとだけ。
そのうちにアタシは過去の記憶を思い出す。あの頃の恋を。カレを。
時が過ぎ、悲しみは既にとまってしまったけれど。
「好き、です」
中学までは男子なんてみんなガキで、下ネタとチョップとゲラゲラ声だけで構成されてる馬鹿集団だと思ってた。
「そう、なんだ」
でも高校に入ってから気づいた。アタシはアタシが思ってるよりもガキで、男子はアタシが思ってるよりもガキじゃなかったのだと。
「付き合って、もらえませんか?」
そしてアタシは恋をした。同じ学年。同じクラス。でも喋ったことは数えるほどしかないカレに。
恋なんて感情はこんなにも熱く燃え上がるものだとは知らなかった。まるで胸の真ん中に原子炉でも積んでいるのかと思うくらい。
「いいよ」
カレは笑顔でそう言った。願いは叶った。大願は成就した。なにもかもが幸せで、このままアタシは幾多の障害を乗り越えながらもハッピーエンドへ向かうのだと思った。
アタシはこんなガキんちょを、アタシ以外に知らない。
「で、上手くいったの?」
アタシの友達である彼女は、恋の応援&セッティング&その他裏方諸々を担当してくれた。
「うん。実はちょこっと現実味が湧かないんだけど……」
彼女は朗らかで、目もぱっちりしていて、明るい子に育って欲しいと両親が名づけた名前にちっとも負けない女の子。
「あーアンタらしいわ。どれどれ私が頬でもつねってあげようか?」
彼女はアタシを「カワイイ」とよく言った。
「や、ちょっとやめてってば! それよりもさ……」
そんな彼女はアタシよりずっとカワイイ。
最初のデートは二人っきりじゃなくて、4・5人くらいのグループで遊んだらいい。
そう彼女に聞いたアタシは、アドバイスを鵜呑みにして仲のいい友達を2人誘った。カレも男子を2人連れてきた。もちろんアタシが誘った子の中には彼女も含まれる。
アタシは(カレの前では特に)口下手だったけど、彼女の助けもあって普通に喋ることができた。でも それは彼女が付いている時限定。二人っきりの時のアタシはもう目も当てられない有様だった。
「ちょっと聞くけどさ、お前、俺のどこ好きになったの?」
二人っきりの時にそう聞かれ、頭が真っ白になった。「全部」「なんとなく」「優しいところ」。そんな台詞すら思い浮かばない。
――あれ? なんでアタシはカレを好きなの?
カレを見つめる。するとドキドキして、思わず顔を背ける。……ということはやはり、アタシはカレを好きなのだ。アタシは納得した。
納得しただけで、結局質問には答えなかった。
アタシとカレは教室でもあまり喋らなかった。
時折、見かねた彼女がアタシの背中を押すこともあって、そのときは三人で話をした。
彼女が話題を振って、カレが答えて、アタシがうなづく。
その繰り返し繰り返し。
カレはとても楽しそうだった。
「別れてほしいの」
それから何度か、二人っきりのデートとグループでの遊びは続いた。それがきっかけでアタシの友達とカレの友達がくっついたりもしてたけど、アタシには心底どうでもよかった。
「……」
アタシは知っていた。カレがどちらのデートを楽しみにしていたかを。
「ごめん」
アタシは知っていた。カレがアタシのことを好きだったかどうかを。
「……ううん。大丈夫。分かったから」
アタシは知らなかった。カレのことを、なにも。
「それは別れてもいいってこと?」
彼女は多分知っていた。カレのことを、いろいろ。
彼も多分知っていた。彼女のことを、いろいろ。
「うん」
アタシは途中からだが知っていたのだ。カレと彼女の関係を。
その会話のあと彼女はアタシに怒ったけれど、アタシがそれ以上何にも喋らなかったため、彼女はすぐに立ち去り、残されたアタシはちょこっとの怪我もせずにすんだ。
空き缶になったビールを柵の上に置く。
隣の部屋から聞こえるのは最近流行りの曲だ。ショッピングモールとかで流れてそうなノリのいい曲調。
だけどアタシはさっきの歌をずっと口ずさんでいた。
I can't stop the loneliness
こらえきれず 悲しみがとまらない
I can't stop the loneliness
どうしてなの 悲しみがとまらない
いつの間にか、アタシの悲しみはとまってしまった。
でもこうして思い出に浸ってる自分を客観的に見ると、やっぱり悲しんでいるように見えるのかもしれない。
薄く光る遠くの夜空に、カレと彼女の後ろ姿が見えた。
どうやらアタシ、酔っぱらっているみたい。