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ここを通りたくば

俺の行く手を阻むもの。それはハードルでもなければディフェンスラインでもなくて、ただの一体のガーゴイルだった。

 そもそもガーゴイルというのは雨樋の機能を持つ彫刻を指す言葉である。ファンタジー作品の影響により悪魔の形をした石像というイメージが主だが、別に怪物じゃなくてもガーゴイルはガーゴイルなのであり、したがって人間や普通の動物の姿をしたガーゴイルもいる。

 まあ何にせよ、石像は石像。無機物である。そして無機物は喋らないし、意志を持たない。ゆえに俺の目の前に存在する、耳が尖っていて禍々しい翼を広げて牙をちらつかせる石像が声をかけてくるなんぞ、そんな馬鹿げた展開がこの近代社会で起こるはずがないのだ。

「汝、この門を通過するあたわず。すみやかに立ち去りたまえ」

「汝とか使ってんじゃねえよ……。お前は神の啓示か何かか」

 しかし、非常に残念なことに、誠に不本意なことに今僕の目の前で流暢な日本語を扱っているのはどうみても石化した悪魔にしか見えなかった。

「ここを通りたくば汝、その資格を示すべし」

「だから、さっきからそれどころじゃねえって言ってるだろ……」

「ならば立ち去るがよい。ここは下賤な者が踏み入ることを許さぬ聖地である」

「いいからそこをどけって言ってるんだよ……。こっちはなあ、お前の背中にある……」

「どうしてもというなら我を倒してから――」

「トイレに行きたいんだよおおお!」

 地方都市の大型デパートの三階、紳士服売り場の隅に位置する男性用トイレの入り口手前で、俺は叫んだ。


 幸い決壊まではまだ少し時間があるが、悠長にしている余裕はない。今の俺の貯水タンクの容量は、ここでこいつと問答を続ける分には問題ないが、別の階のトイレを探す時間はないと告げている。一緒に来ていた友人は書店で立ち読みをしているだろうし、あまり当てにはできない。ならばこの忌々しい石像に『資格』とやらを見せつけてやる他あるまい。

 ということを考えつつガーゴイルの背後にあるトイレを睨んでいると、ある文字が目についた。

《紳士》

 ひょっとすると、ひょっとするとだが、まさかコイツは――。

「お前、俺が紳士じゃないから立ちふさがってるんじゃないだろうな?」

「いかにも。我は紳士トイレの守護に従事する者なり」

 ……やっぱりそうだったのか。

 そうとなれば、俺が正真正銘のジェントルマンであることを証明する必要がある。その『紳士』は男性一般を指すものであって、決して淑女とペアになってるやつじゃないのだとつっこむ時間は残されていない。紳士とは何か。昨今では変態紳士などと呼ばれる人種も多いと聞くが、それではアイツは納得しないだろうし、何より国家権力に逆らう真似は遠慮したい。

 紳士というなら、まずは代表的な英国紳士を手本にすべきだろう。そして英国紳士のマナーといえばレディーファーストである。

 女性に優しく。レディーに笑顔を。淑女にささやかな祝福を。

 そして――嗚呼、なんと幸運なことか――すぐ近くには女性用トイレがあるではないか。これは英国紳士っぷりを見せる天の与えた最大のチャンスである。今まさにトイレの門をくぐらんとする女性に狙いを定めた後、俺は下腹部に力を込めつつ、背筋を伸ばして優雅に近づいた。

「これはこれはお嬢さん。なにやら焦った顔をしていらっしゃいますが、何かお困りですか?」

「……。確かに私は今焦っているし、困ってもいるわ。ここを通りたいのに目の前に変な人がいるの」

 ビンゴ。俺の頭で電球が光った。

「それは大変だ。さあお嬢さん、私がこの中まで付き添うので、お手を拝借してもよろしいですかな?」

「ああ、じゃあ遠慮なく――」

 ビンタ。俺の顔で火花が散った。


「汝、この門を通過するあたわず」

 使命に従順なガーゴイルは、敗走した俺を見ても一切態度を変えなかった。もうお終いだ。容量はもうすぐ臨界点に到達しそうになっている。俺はこのままデパートの隅で痴態を晒すことになるのだ。友人はいい年した男が惨めな姿になっているのを見て、赤の他人のように振る舞うのだろう。

 ああ、どうしてこうなった。

 俺が諦めと絶望を含んだ溜息をついた時、後ろから聞き覚えのある声がした。

「おーい、お前ハンカチ落としてたぞ」

 振り向いた先にいたのは友人だった。その手には水色のハンカチが握られている。何かのアンケートに答えて貰った安物のハンカチ。あれはまぎれもない俺自身の物だ。

 友人はハンカチを俺に渡した後、俺のトイレ事情については特に言及せず「じゃ、俺本屋いるから」とだけ言って立ち去った。

 俺は手に持ったハンカチをしばらく眺めてから、恐る恐るガーゴイルに尋ねる。

「入って……いい?」

「よかろう」

 そう言ってガーゴイルは煙のように消えた。


「まさに聖地だ! 天国だ! 極楽浄土だ!」

 事を済ませた俺は、手洗い場で感激に浸っていた。

 理不尽な状況とか手痛いビンタとか色々なことがあったけれど、今はこの胸にあふれんばかりの達成感を味わうことだけで精一杯だった。空腹が最上のスパイスであるのと同様の快感である。

 いつもよりゆっくりと手を洗い、乾かしていると、通路の方から慌てた様子で男性が駆けてくるのが見えた。五十代前半くらいで、お洒落とは程遠いくたびれたシャツをまとい、その頭はカツラと思しき物がユサユサと揺れている。顔は脂ぎっていて、右手をお腹に押し当てたままこちらへと走ってくる。

 どう見てもジェントルマンとは言い難い。俺があんなに苦労して入ったこの聖地にこのような男が入っては、たちまち場が穢れてしまうだろう。そんな蛮行がはたして許されるだろうか? いや、許されてよいはずがない。そのためのガーゴイルである。

 俺はトイレと通路との境界線上に立った。

「汝、この門を通過するあたわず」


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