【Hide&Seek】 (4)
廃ビルに侵入してからいくつかの関門をくぐり、入り込んだ施設の印象は要約すれば、(新築の無人病院)といった表現になるだろうか。
内部に入ると真新しいペンキの匂いはよりいっそう強まり、しかも一見して感じた施設の広さに反比例し、人影はほとんど見えない。
というよりも、人のいる気配が極めて薄いのである。
無論、自分が案内された時点で、ここがCIAの秘密施設であることは明白だったし、通常の公的施設に比べて違和感を感じるのもある意味では当然だったかもしれない。
そんな取り止めの無い思考をしばらくスーツの男の後ろで巡らせていたその時、実際の時間としては数秒と経過していなかったろう、施設内に入ってからの間に、ふいに人の気配が近づいてくるのが分かった。
「ミルトン部長。ノディエさんをお連れしました」
言いながら、男は自らをカーテンのように横へ引き込める。
すると、先刻から感じていた気配の主が目の前に姿を現した。
「ようやく再会できたか、久しいなレイチェル」
気配の正体、男にミルトンと呼ばれた初老の男性は、女性を見つめ、さも懐かしそうに彼女をそう呼んだ。
「レイチェル・ノディエ、お呼びに従い参りました」
女性……自らをレイチェルと名乗った彼女は、急に改まった口調でそう言うと、不動の姿勢をとり、静かに初老の男性を見つめる。
「見たところ、変わらんようで何よりだ」
「お久しぶりです、部長」
「……もう、名も呼んでくれんか」
「お久しぶりです、フランシス・ミルトン部長殿」
「まったく……性格だけはさらに面倒になったらしいな」
深い溜め息をひとつつきつつ、フランシスは改めて話を続けた。
「とりあえす、廊下でさっと話して済むような事情ではないんでな。まずは私の部屋へ来てもらえるか」
「承知いたしました」
顔に一切の表情を浮かべすにレイチェルは同意し、促されるまま、今度はフランシスの背後を突き従って廊下を進む。
決して無感情なのではない。
胸に強い感情を抱くがゆえ、それを隠すためにあえて表情を押し殺している。
そしてそうした事実をどこか察しているようで、フランシスもまた部屋へ向かう間、意味無くレイチェルを刺激しそうな話題を避けた会話に終止した。
「やはりルーレットを張って正解だったな。お前なら必ず現れると思っていたよ」
「クラップスをやってたから知れないですよ?」
足を動かしつつ、相変わらず無表情のままに、レイチェルは抑揚の無い声で指摘された可能性へ否定要素を付け足す。
が、フランシスはそれを一言で退けた。
「プレイヤーが目立つクラップスは最初から除外して考えていた。仮にも工作員のお前がそんな人目につくようなゲームをするわけが無いからな」
クラップスとは、主にカジノでおこなわれるダイスを使ったゲームの一種である。
二つのダイスをテーブルへと投げ入れ、その出目を予想して賭けをおこなうこのゲームは、一投目のダイスの合計数が7もしくは11なら即座に勝ちが確定し、2、3、12ならば即座に負け。その他の出目ならそのままプレイを続行し、以後は7の出目が出ることで負けとなる。
ルールは多少複雑であるが、理屈としては一投目で7もしくは11を出して勝つか、2、3、12を出して負けなかった場合、以後は7が出るまで同じプレイヤーがダイスを振り続けることになるため、プレイヤーにとっては秘匿性に欠けるゲームと言える。
「……一応、褒め言葉として受け取っておきます」
「褒め言葉さ。実際お前を探し出すのは苦労した。なにせルーレットだけに的を絞ったとしても、国内のカジノは数え切れんほどある。しかもお前は決して目立ったプレイをしない。結果的には見つけ出せたが、(ルーレットをしている)だろうという前提が無ければ、今でもお前を探し続けて国中を走り回っていたところだ」
「他には何の芸もありませんのでね」
「またそんな卑屈な物言いを……」
「とはいえ事実でしょう。それで実際、お払い箱を喰らったのはね。まあ、不審に思われないよう勝ち負けを繰り返しながら合計でいくばくかのプラスをカジノから拾う生活というのも、ちょっとした心理戦のようで、これはこれでなかなか楽しかったですよ」
「……三年の時間はそれほどにきつかったか」
「ええ、死のうかどうか迷ったのは一度や二度じゃありません」
レイチェルから返された言葉に、フランシスは次に言うべき言葉を見つけられず、沈黙を余儀なくされた。
だがそんな中でもフランシスにとって唯一の救いであったのは、その息苦しい沈黙が、それほど長く必要ではなかったことだろう。
途絶えた話からほとんど間を置かず、フランシスとレイチェルは目的の部屋である部長室へと到着した。
廊下から見て、ちょうど突き当たりに近い左手の角に張り出すように配置されたその部屋は、どういった意図からかは分からないが、室内を完全に見渡せるよう、通常の部屋における壁にあたる部分が全てガラス張りになっている。
一応、内部の視界はアコーディオンカーテンによって遮蔽できるようになっているのが見てとれたが、それらは今の時点では全て全開になっていた。
「ああ、それからすまんが、本題に入る前にこの機密保護宣誓書にサインを頼む」
急に気が付いたようにそう言うと、フランシスは部屋の脇に吊るされたクリップボードをレイチェルに手渡す。
レイチェルは挟まれている数枚の書類に目を通しながら、始めて表情らしいものを顔に浮かべたが、それは明らかに不快感を示すものでしかなかった。
「はいはい……まったく、この国ときたら、一体あと何枚の宣誓書にサインすれば人を信用してくれるんですかね……」
「レイチェル……」
「……すみません、捨て犬の泣き言です。聞き流してください」
「レイチェル。はっきりさせておくが我々は別にお前を捨てたわけではない。単に長期の待機命令を出したに過ぎん。お前の能力が必要と判断される状況が発生した際は、すぐさま召集するつもりだった。その証拠が今回だ。お前にしか出来ないと考えたからこそ私たちは……」
「慰めはそのへんにしておいてください。自分が情けなくなります」
殴りつけるように一気に全ての書類にサインを終えると、レイチェルはクリップボードをフランシスに手渡さず、あえて元あった場所へ掛け直した。