【Oranges and Lemons】 (1)
VICミシガン・ディアボーン工場。
医薬品の製造ラインを持つ小規模工場施設。
民間企業である上、今は一時閉鎖されているため警備は想像通り、大したものではなかった。
工場の外周を包むフェンスも、上部に有刺鉄線が張り巡らされてはいたが、フェンスに電気が流れているなどの丁寧な対応はされていなかったため、ワイヤーカッターひとつで容易に内部へ侵入できた。
敷地もさほど広くなく、建造物も限られていたので、ガブリエル・ハウンドの潜伏する建物もすぐに割れた。
まずすべきは、敵の逃走手段を絶つこと。
頭の中に叩き込んだ敷地内の地図を頼りに目につく限りの車という車を走行不能状態にする。それが当面の行動。
ワイヤーカッターに変わり、今度は脇のガンホルダーに付属したナイフホルダーからコマンドナイフを引き抜く。
その時、ヒューはレイチェルの忠告を聞いておきながら、神へ祈った。
別にレイチェルの言葉を信じなかったわけではない。
それを言うなら、神についても別段信じているわけでもない。
ただ、今は必要なものなら、どんなものでも全て欲しいと思った。
神への祈りが死神を引き寄せるなら、それも構わない。
祈りが通じるなら、死神はおまけとしてありがたく頂戴しよう。
それほどに、ヒューの覚悟は強固だった。
「神様よ……もしほんとにいるんだったら、今回だけ、今回だけでいいから、俺の無茶を押し通すだけの運をくれよ……さもなきゃ……」
一呼吸置き、握り締めたコマンドナイフに視線を移す。
その目はもはや獣の輝きが宿っていた。
「……地獄で永遠にてめぇを呪ってやる!」
うめくように一言発し、ヒューは行動を開始した。
敷地内へ止められた、目につく全ての車両を片っ端から丁寧にパンクさせて回る。
もちろん、盗難防止用のブザーが数台の車両から鳴り響いたが、ヒューはそれを一向に構う事無く、黙々と手にしたナイフでタイヤを切り裂き続ける。
と、ふいに緊張感が揺らぐ。
これから死地へと赴くはずの現実感が消失し、感情が壊れてゆくのが、はっきりとした感覚で伝わってきた。意思とは関係無く口元は緩み、横隔膜が震える。
笑いだ。
まるで噴出すように、ふっふっ、と息が漏れた。
ああ、ついに狂った……。
自然と口から漏れ出す笑いを自分の耳で聞きながら、ヒューは自分がここにきて完璧に崩壊するのを感じ、ついに笑いを堪えるのを止めた。
月明かりと施設の外灯に照らされ、耳障りな防犯ブザーの音をBGMに、ヒューは急に子供のころ、祖母からよく歌って聞かせてもらったマザー・グースの歌を口ずさむ。
「オレンジとレモンと、セント・クレメントの鐘が鳴るよ♪」
足取り軽く、
「お前にゃ5ファージングの貸しがあると、セント・マーティンの鐘が鳴るよ♪」
身を揺らし、
「いつになったら返すんだと、オールド・ベイリーの鐘が鳴るよ♪」
夜の空気に身を包み、
「お金持ちになったらねと、ショアディッチの鐘が鳴るよ♪」
歌とともに、笑い声を響かせ、
「それはいつだとステプニーの鐘が鳴るよ♪」
狂気に染まった目を光らせて、
「さあ知らねぇよと、ボウの大きな鐘が鳴るよ♪」
確認出来た全ての車両をパンクさせ、手にしたナイフを無造作に放り投げる。
視線の先に目的の施設を見据えながら、歪んだ笑みを湛えつつ、背負っていたライフルを手にすると、腰のベルトから引き抜いた弾倉を左手でボルトハンドルを引きつつ差し込み、叩きつけるようにボルトハンドルを下に落として薬室に弾を装填する。
「お前を照らしにベッドへ蝋燭がやってきたぞ、お前の首を切り落としに首切り役人がやってきたぞ!」
スキップでもするような足取りで目的の建物へ足を進めるヒューは、高らかに歌い上げつつ、セレクターレバーをセミオートに切り替えた。