【Red Rover Red Rover】 (3)
現状況確認及び作戦会議をすっぽかし、レイチェルは自らを(ウサギ)と呼ぶ人造人間の少女と、簡易食堂の奥へと引き籠っていた。
「……お姉ちゃん?」
「うん?」
「みんな、博士も集まってるのに、行かなくっていいの?」
「ああ、いいのいいの、あんなつまんないもの、いちいち顔出すのもめんどくさいわ」
もちろん、実際の理由は他にある。
三年前の件があってからも、CIA内部で数少ない自分の理解者と思っていたふたり、クレメンスとフランシスに、良いように使われていたという事実。
そしてその結果、大勢の民間人に被害を及ぼしてしまったこと。
加えて、人造人間とはいえ、まだ年端もいかない少女に過酷な戦いを強いた上に、ひどい傷を負わせてしまった。
頭では理解している。
これら全て、レイチェル自身には何の責任も無い。そう、責任は無いが……、
理屈とは別に、感情が許そうとしない。
クレメンスとフランシス。さらに自分を。
知らなかったとか、責任が無いとか、そうしたこととは別に、心が自分を責める。
「はー……なんだか、ほんとに何もかも嫌になっちゃったなぁ……」
三年間で培った自暴自棄が再燃する。
一体、自分は何のために存在しているのか。
三年前にも思い、今もまた思っている。
「……お姉ちゃん、また泣いてる?」
「え?」
言われて、はっとした。
気付かぬうちに、頬を涙が伝っていた。
もはや自分の感情すらよく分からない。
むしろ何も感じていないようにすら思っていたのに、知らぬ間に涙が流れている。
泣きながら、逆に笑ってしまった。
これほど感情が混乱したのは久しぶりだ。
思えばいつからだろうか。脳への処置を受ける以前だったか、以後だったか。
これほどに自分が情著不安定になったのは。
今さらそれ自体はどちらでもいいことだが、ふと気になった。
このまま自分は壊れた心を引きずり、誰かの思惑に利用されて生きてゆくのだろうか。
それならこの三年の間に何度となく抱いた自殺願望も正しい判断だったように思える。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。泣かなくって大丈夫」
レイチェルの異常な雰囲気を察したのか、少女は急にそう言うと両手に巻かれた包帯のうち、左手の包帯を噛み、一気に引き抜いた。
「あ、ちょ、ちょっとっ!」
突然の少女の行動に制止も間に合わず、レイチェルの目の前で少女の手に巻かれた包帯がほぐれるように外れると、今度は少女の行動ではなく、視界に入った少女の手が驚きを生む。
つい数時間前まで痛々しく、赤黒く変色していた手のひらの皮膚はすでに瘡蓋となって剥がれ落ち、真新しいピンク色の皮膚が再生していた。
「……あ……」
「ほらね、大丈夫でしょ?」
それは少女なりの気遣いであると同時に、少女の言っていた(自分は傷の治りが早い)という言葉を実地で証明する行為だった。
「……ははっ、ほんとね……すごい回復力だわ……」
それは衝撃的な光景であり、事実であり、さらには多分に的外れな行為であったが、真に少女がレイチェルを思って示した行動。
それらは結果として救いをもたらす。
物事は状況によって、経過と結果、どちらが重要であるかが変わる。
この場合は経過と結果双方の相互作用が大きかったことは確かであるが、特に大きかったのは前者。経過であった。
今のレイチェルにとって、誰かに思われ、気遣われるというそれ自体が救いと言えた。
「お姉ちゃん、もう平気?」
「ふふっ……ありがとう、おチビちゃん。もう平気よ。ええ、もう大丈夫」
何かが吹っ切れたように気持ちが軽くなる。
難しいこと、複雑なことは山積している。が、考えるのはもう止めよう。
不本意ではあるが、自分はすでに流れの中にいる。
ならば最後まで付き合うとしよう。
もちろん、その場その場の判断は自分が行う。思う通りに動く。それだけは決めた。
どこに行くのか、何をするかには従うが、それ以外のことについては金輪際、人の言うことを聞くものか。
そう思うと一層、心が落ち着いた。
自然に微笑みを浮かべられるほどに。
「……ねえ、おチビちゃん」
「なあに?」
「あのカンジキウサギにはティルって名前があるのよね」
「うん、博士がつけてくれたの」
「で、おチビちゃんは?」
「?」
「お名前よ。ティルはつけてもらったのに、おチビちゃんはお名前もらってないの?」
「あたしは……ただのウサギだから。ティルと違うの。たくさんいる、ただのウサギのひとつだから……」
レイチェルの何気無い質問だったが、少女はうつむいてそれ以上語らなかった。
思えば、この子も自分と変わらない。
いや、自分よりもひどいかもしれない。
犬並みの知能だと侮られ、ろくに人間らしい扱いなどされてこなかったのは目に見えている。
上の人間からすれば自分もこの少女もただの道具。
そう見られているという現実は理解しているつもりだ。
でも、それでも……。
自分をもっとまともに見てほしいと思うのは間違いだろうか。
道具以外として見てもらいたいと思うのはおかしいことだろうか。
クレメンスやフランシスに、少なくとも他の連中よりは人間らしく扱われたことに喜びを感じたのは誤りだったろうか。
この少女に対する感覚は、感情移入そのものだ。
人として扱われることを半ば諦め、心を閉ざし、道具に徹することで心の均衡を保っている。
常に無表情で、感情を悟られまいと振る舞う。
似た者同士もいいところだ。
親近感を感じないほうがおかしい。
だからこそ、
無駄なことと知りつつ、気をかけずにいられない。
「……おチビちゃん。お名前、私がつけてもいいかしら……?」
出来る事など限られている。
だとしても、何もしないではいられなかった。
「……え?」
「博士がつけてくれないなら、私がつけてもいいでしょ?」
「つけてくれるの……?」
「ええ、喜んで」
我ながらバカな提案だと思ったが、少女は思った以上に喜んでくれた。
名前ひとつ。たかが、名前ひとつでこれほど喜んでくれる。
レイチェルは何故か、自分もつられてうれしくなっていた。
「ノワールっていうのはどう?」
「……ノワール?」
「フランスではね、黒いウサギのことを(Lapin Noir……ラパン・ノワール)っていうの。おチビちゃんは髪も目も黒いでしょ。だからノワール。どう?」
「あたし……ノワール?」
「そう、これからはあなたのお名前はノワール」
「ノワール……あたし、ノワール。あたしのお名前……」
「そうよ。改めましてこんにちわノワール。これからもよろしくね」
たかが名前をつけただけ。それだけのこと。
しかし、それはレイチェルの価値観からすれば、この少女をひとりの人間と認める意味合いを含んでいた。
道具には共通する名がある。
少女に関して言えば、それがウサギ。
だが、人間にはひとりずつに名がある。
別にそうしたからといって、道具ではなくなれるというわけでもないだろう。
でもそんなことはどうでもいい。
少なくとも、自分は少女を……ノワールを人間として認めた。
少なくとも、自分はノワールを道具としては見ない。
「思えばクレメンスもひどいわよね。ティルには名前をつけておいて、他の子には名前をつけないなんて。何かしら、依怙贔屓か何か?」
これもまた、レイチェルの何気無い疑問だった。
が、口にしたという点で思いがけぬ結果を生んだ。
先ほどまで自分のつけた名前に喜び、目をキラキラとさせていたノワールが、急にまたうつむいてしまった。
ただ、顔には明らかに表情が浮かんでいた。
不快感、嫌悪、恐怖。
容易に察せるほどの負の感情。
そしてふと、閉ざしていた口をノワールが開く。
「ティルはキライ……」
「……なんで?」
「ティルは、人を殺すのが好きだから」
「……殺すのが、好き?」
「ティルはね、博士にそう作られたの。楽しく人が殺せるように。だから、ティルは人を殺すとき、とってもうれしそうな顔する……」
「……」
「ティルはキライ……怖い……」
つぶやくように言葉を繰り返しなから、膝の上へ乗ってきた猫の頭を撫でる。
レイチェルは、そんなノワールの肩が小刻みに震えているのをはっきりと見ていた。