【Hare&Hounds】 (7)
予想外の戦闘が開始されてからおよそ十分。
当初鳴り響いていた無数の銃撃音は嘘のように静まり、ヒューの耳で判断しても、なお発砲が続いている場所は十指に余るほどの位置に減っている。
まさにそんな時。
「坊や、ちょっとあれ……」
明らかに敵の数が減っているのを実感しつつ、いまだ油断出来る状況とまでは言えない中、急に隣からレイチェルが声をかけてくる。
見れば、左の人差し指で地上の火災に照らされた淡く赤みのかかった暗い夜空を差している。
暗さも手伝って、レイチェルの示したものの正体はすぐに分かった。
ヘリが一機。
全体は暗闇のせいではっきりと視認出来ないが、衝突防止灯の輝きがその存在を確かなものとして認識させる。
「MD500。民間ヘリだな。恐らくこの派手なドンパチをどこぞのテレビ局が気づき……」
そこまで言ってヒューは慣れてきた目に飛び込んできたヘリの全容に、一瞬、言葉を失った。
ヘリは左手の扉を開け放ち、何かを突き出している。
当然というべきか、始めそれはカメラマンが機体から身を乗り出し、カメラを構えているものだとばかり思っていた。
だが違った。
ヘリから突き出してきたもの。
それは手持ちカメラなどでは断じてない。
何故なら手持ちカメラがヘリの床部分に固定されていることなど見たことも聞いたことも無いし、さらに、カメラの先端が大きく見積もっても手すりのポールほどの細さしか無いというのも異常だ。
と、隣のレイチェルがまた一言。
「……機銃」
この言葉にヒューは二重の意味で精神的安定を失った。
ひとつには、これは仕方が無いと言えばそれまでだが、敵の武装がまさかそこまでだとは考え付かなかったこと。
さらにひとつは、銃器の類に関する知識には自信があった自分が、レイチェルとは違い、強力な知覚能力を持たないとはいえ、これだけのヒントが揃っていながら、その可能性に頭がいかなかったこと。
ヒューは己の認識の甘さに、自分の頭をかち割りたい衝動に駆られたが、今はやるべきことが多すぎる。
「レイチェル、タイミングを合わせてくれ。なんとか横の建物に飛び込むぞ!」
隣を向き、目を合わせたレイチェルがうなずく。
この場合のタイミングを合わせるとは、正確には(タイミングをずらす)という意味である。
一度に同じ動きをとった場合、一網打尽の危険性が高まる。
よって、ひとりが先行し、ひとりはその後、遅れて動く。こうした戦闘においてはごく基本的動作。
呼吸を整え、まずヒューが左手の建物の影へと駆け出した。
車からの距離は目算で五メートル強。
走り抜けるには予備動作を含めると最低、二、三秒かかる。
この間にもし狙い撃ちされれば間違い無く終わりだが、ヘリの存在が分かった以上、この場にあと一秒でも長居すれば、それもそれとてあの世行きは確実である。
緊張で口が渇き、飲みこむ唾も出ない。
代わりに、自分への合図には空気を飲み、左手の建物へ低い姿勢で走り込む。
瞬間、
背後で今、もっとも聞きたくない音が響いた。
先ほどまで盾としていたスポーツワゴンが機銃掃射を受ける音。
ライフルやサブマシンガンによる銃撃とは比べ物にならないほどの絶望を胸に滲ませる轟音。
爆発や金属の軋みを思わせる音が連続し、そのいくつかの中に、細かくアスファルトを砕く音が混ざる。
瞬時に頭の中へ残してきたレイチェルのことが横切ったが、今ここで振り返ったところでどうにもならないと思い直し、唇を噛み締め、建物の脇まで辿り着いてから、改めて背後を見た。
すると、想像することを拒絶した光景が目の前に広がる。
すでに相次ぐ銃撃によって穴だらけになっていたスポーツワゴンが、それすら生易しく見えるほどボロボロになっていた。
ボディは被弾した側が全体に深くへこむように変形し、多数の弾痕が穿たれ、いびつにねじれたボンネットは跳ね上がり、フロント部分を中心にして、車体の全てから灰や黒色の煙を立ち上らせている。
アスファルトの地面には砕けたガラスと引き裂かれた金属部品、さらにアスファルトそのものもいたるところに飛散し、とても街中の光景には見えない。
最悪の事態すら覚悟した。
しかし、
彼はまだ理解していなかった。
彼が身を案じ、その死までも一瞬、頭をよぎった人間。
レイチェルという人物の能力を。
地獄のような光景に気もそぞろとなり、不安と恐怖に駆られて周囲へと視線を巡らせたヒューは、そこで始めて自分の意図が完全に無視されていた事実に気づいた。
左手建物へと向かうよう指示したはずのレイチェルは、それとは完全に真逆、
右手の開けた車道に仁王立ちし、射撃姿勢をとっている。
薄暗い街灯に映し出されながら、今まさに、自分の潜んでいたスポーツセダンを鉄クズにしたヘリへ、その銃の照準を合わせながら。
想定していなかった状況が連続し、しばし、思考が停止したヒューも、そのあまりにも無謀な行動に対し、ほとんど無意識に大声を響かせる。
「無茶だレイチェル、映画じゃねぇんだぞ。いくらなんでも拳銃でヘリ撃ち落とせるわけねぇだろ!」
無論、ヒューの声はレイチェルにも聞こえていた。
そしてその意味も理解していた。
距離にして軽く四百メートル。
地上からの水平距離だけでも優に二百メートル。
周囲の建造物の高さを踏まえれば、完全に航空法違反の低空飛行ではあるが、それでも拳銃で狙撃可能な距離とは言えない。
だがレイチェルにはある程度の見越しがあった。
彼女の銃は命中精度を上げるための改造が施されているとはいえ、使用している弾丸は通常の9mmパラベラム弾。
有効射程は三十から五十メートル。
この時点では頭上のヘリに対するのは単なる無謀である。
が、それはあくまでも有効射程に限った話。
最大射程で考えるなら、9mm弾といえども千から二千メートル。
威力の不足は大きな問題となるだろうが、狙いさえ正確であれば最大装弾数10発全てを狙い通りに叩き込むことで賭けの勝率は格段に上がる。
狙うのはヘリのフロントガラス。
さすがにレイチェルの視力をもってしても、この距離から目視でパイロットを狙うのは不可能に近い。
その上、有効射程を完全に超えた弾丸では威力不足でパイロットに思った通りの負傷を負わせられるか疑問であるし、万が一、ヘリのガラスが防弾仕様に改造されていた場合、この作戦は無駄足に終わる。
とはいえ、フロントガラス全体へ万遍無く弾を撃ち込めば、ヘリを直接撃ち落とすなどという無茶は出来ないとしても、相手の視界を完全に奪うことで飛行自体を続行不能にはすることが出来る。
自らの知覚を限界まで鋭敏にし、集中力を高めてゆく。
手足の感覚が麻痺しそうになるほどに熱い。
浅く、早くおこなう呼吸に体が悲鳴を上げそうになったその時、レイチェルは構えた拳銃から一瞬にして10発の弾丸を発射しようとした。
したが……、
「危ねぇっ!」
横殴りに吹き付ける風のようにヒューが射撃姿勢のレイチェルを抱え、地面へ伏せる。
同時に起きた現象がふたつ。
ひとつは、レイチェルの銃が弾切れするよりも早く行われた彼女への機銃掃射。
ひとつは、6発までは発射し、その全てを命中させたことによって、フロントガラスの視界を完全とまでは言わぬまでも大きく奪われたことによって引き起こされたヘリの飛行困難。
幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣のようになったガラスに視界を覆われ、ヘリは不安定なホバリングを強いられ、機銃による攻撃もそれに伴い止んだ。
気が付けば、飛びついてきたヒューに倒されたレイチェルは、ほんの少し前まで自分が立っていた二メートルほど左の地面が、砕けたアスファルトで覆われているのを見た。
「……たくっ、狙いに集中するのは結構だが、相手はこっちに気を遣って撃つのを待ってくれるほどお人好しじゃあねぇんだよ。少しは避けることも考えとけっての!」
抱え込まれるようにヒューの腕の中にいる自分を認識しつつ、レイチェルは冷静に事態を把握していた。
彼の言い分も聞いた。
ヒューが体ごと自分をその場から弾き飛ばしていなければ、どうなっていたかの見当もつく。
よって、レイチェルの発言はこうなる。
「はあ……強化ガラスでも防弾ガラスでもなかったけど、ホバリングの風圧に合わせて弾道を補正したから余計威力が落ちて、蜘蛛の巣張るので精いっぱいだったみたいね。残念だわ」
自分の狙った直接的事実以外の間接的事実を完全に無視して溜め息交じりに言う。
性格に限ったことでは無い。
感覚も含め、多くが破綻している。
ここに至ってまでヒューはレイチェルの致命的コミュニケーション能力の欠如に愕然とした。
「あんたな……この場合、言うべき台詞が他にあるんじゃねぇのか?」
「何事も、いちいち女の礼が聞きたくて行動するような男はモテないわよ」
「……可愛げ無ぇなぁ……」
「三十路の女に可愛げ求めるのはさらに悪趣味ね。一度自分の性格、見直したほうがいいわ」
「その台詞はそっくりそのまま、お返しすらぁっ!」
命懸けの行為に対するあまりにもな対応に、ヒューは怒気を込めて悪態を返す。
しかし考えていたよりも、事態は時間的余裕をもたらさない。
早くも体勢を立て直したヘリは、なお機銃の照準をこちらへと向けている。
「くそっ、しつっけぇ連中だな。おいレイチェル、さっさと建物の陰に隠れ……」
そこまで言った途端、
ヒューは自分の吐き出そうとした言葉を喉に詰まらせ、窒息しそうになった。
突然、
上空で不安定ながらもホバリングしていたヘリが一瞬にして爆発した。
無論、直接は見ていない。
視線を移していたレイチェルから振り返ってヘリを見た時には、すでにそれはヘリではなく、単なる巨大な火の玉と化して地上に落下している最中だった。
「……な、なんだ、何事だよ。もしかして、今頃あんたの撃ち込んだ弾が効いて……」
「違うわよ」
元ヘリであった火の玉の落下を見ながら、発した言葉へのレイチェルの返答に、ヒューは再び振り返って彼女を見る。
またしても捉え方の難しい表情。
恐怖や不快感までは読み取れるが、それ以外にも何か負の感情の練り込まれた顔。
「カンジキウサギ……」
まるで呪詛でも込めたようにつぶやかれたレイチェルの言葉に、ヒューは彼女の視線を追う。
そこはちょうど、先ほどまでヘリがホバリングしていた位置に近い、六階建ての建物。
その屋上に、人影らしきものが見える。
レイチェルはそれを凝視していた。
ヒューには、単に人影としてしか認識できないそれを、レイチェルはヘリから上がる炎と、星明かり、弓張り月の淡い光で確認する。
笑顔を狂気に歪ませ、敵から奪った手榴弾でジャグリングしている姿。
そう、ヘリの爆破はこいつがやった。
爆発の瞬間を見ていたレイチェルは、ことの一部始終をはっきりと思い浮かべる。
いつの間にか建物の屋上に現れたティルは、どこかで奪ってきた手榴弾を三つ、正確にヘリの高速回転するメインローターブレードとローターヘッドへ投げつけ、見事に誘爆させた。
それもまるで児戯のように。
「実感したわ……まさに化け物よ、あいつ……」
影にしか見えぬティルを見つめていたヒューは、レイチェルの言葉にふと振り返る。
声が震えていた。
自分で気づいているのか、それとも無意識か。
そこまでは分からなかったが、レイチェルの様子からは紛れもない恐怖が見て取れた。
自分のように強化されているとか、そういった範疇の能力に関するものではない。
子供の頃によく感じた(得体の知れない何か)に対する恐怖。
ティルが人に与える恐怖感はまさしくそれだった。
どのくらいの間かレイチェルは屋上のティルを見つめ、ヒューは気を張った表情の中に、隠しおおせぬ畏怖と嫌悪を滲ますレイチェルを見つめていたその時、
「終わったよ」
ふいに緊張状態の場に不釣り合いな少女の声が聞こえ、レイチェルとヒューは、はっとして声の方向へと身構える。
瞬間、それが無意味な行為であることに気づきながら。
「おチビちゃん……」
急に気抜けしたような声をレイチェルが漏らす。
もし、口を開いていたなら、ヒューもまた、こんな声を発していたろう。
「もうみんな、殺したか殺されたから大丈夫。心配ないよ」
相変わらず抑揚に欠ける口調で少女が言う。
気づけば、周囲からは銃撃音も、爆発音も聞こえなくなっている。
知らぬ間に静まり返っていたフリントの一角で耳に聞こえるのはパチパチと炎の爆ぜる音と、どこからか近づいてくるサイレンの音。
全身を返り血で染め抜き、銃を握る両の手から煙を上げる少女の異様な姿を見つめていたレイチェルが、再び建物の屋上へ視線を向けた時、
そこにはすでにティルのいた気配すら残っていなかった。