【Hare&Hounds】 (6)
四方八方から飛んでくる無数の銃弾を気にもせず、少女は信じ難い速さでいくつもの銃撃地点の中からもっとも近い左手の建物一階の窓に向かい、即座に駆け寄ると、なお継ぎ目無く発射される弾丸の雨をかわしつつ、ふっと身を屈め、次の瞬間、人間の身体能力では考えられない凄まじい跳躍を見せる。
距離にして約十メートル。
それをただの一跳び。
ほんの一瞬前まで目標への銃撃に集中していた相手は、文字通り瞬きでもする間に目の前へと接近し、小さな窓枠に見事なバランスで着地した少女が自分を見下ろしている姿を目にして、どう思っただろうか。
答えは、これもまた瞬きする間に消し飛んだ。
少女が両手に持つ奇怪な改造銃のうち、右手の銃の銃口を比喩ではなく、まさに相手の目の前に押し付け、引き金を引いたためである。
乗り付けたスポーツセダンを弾除けにし、反撃のタイミングを計っていたレイチェルとヒューの目にも、その光景は飛び込んできた。
決して近くは無い。
贔屓目に考えても車から十五メートル以上離れた建物内での銃撃。
それがはっきりと確認できた。
理由は発砲の際に生じた異常としか言えない爆音と、射撃時に発生した火災かと見紛うほどの凄まじい光量ゆえである。
ヒューはその時、冗談抜きで少女の侵入した部屋で閃光弾が間違って発射されたのかと勘違いしたほどだった。
途端、一時的に周囲に響き渡っていたいくつもの銃声が止んだ。
レイチェルやヒューに限ったことではない。
何事が起きたのか。
その場の人間全てがその異質な銃声に動きを止めざるを得なかった。
状況の正確な把握は戦闘状態等の非常時にあっては極めて重要な行動であり、その判断自体は間違いではない。
とはいえ、
それが必ずしも望むべき結果を招くかどうかは別儀である。
攻撃の手を一時止め、状況の把握に神経を割いたことでまず直接の被害を受けたのはミニバンの陰からレイチェルたちへ狙いを定めていた三人。
それぞれが同時に同じ思考を辿って行き着いた現実は恐怖そのものだった。
視界に広がった異常なまでの爆炎と轟音については、左手建物にいた仲間の持つ手榴弾が何らかの理由で爆発したものと解釈しようとした。
しかし、
事実はそれほど単純な理由を受け付けない。
三人が一時的にレイチェルとヒューが潜むスポーツセダンへの銃撃から一転、すでに炎も音も一瞬で失せた左手建物の黒く染め抜いたような窓の中に目を凝らした次の瞬間、そこから突然飛び出してきた人影が、三人のこの世で最期に目に映した光景となる。
室内の闇を潜るように窓から飛び出し、着地した地面から斜めに切り返すような跳躍を再び。
二度の跳躍で建物の横へ乗り付けていたミニバンの背後へと軽々回り込み、息のひとつもする余裕すら与えず、連続して三つの爆発音が響く。
現場を見てすらそれを銃声と表現することに躊躇する。
それほどの轟炎と耳を裂くような爆音。
揺れるミニバンの背後で、頭部を微塵と化した三人が倒れ込む様子を見ていたのは少女の他に数名の敵。
ゆえにまたも静寂が訪れる。
不自然な静寂。
理解の範疇を超えた事実は、人の動きを緩慢にする。
それが命取り。
さらに少女は間を置く事無く、アスファルトの地面を蹴る。
次は同じく乗り付けていた残り二台のミニバン背後へ取りついていた五人。
さすがに今度は誰もが少女への銃撃を開始した。
狙いを定め、回避行動を取られても、その回避方向へも銃撃を流す、堅実にして完璧なチームワーク攻撃。
並みの人間ならば、そこまでの労を割かずとも相手を蜂の巣に出来たろう。
だが、実際の相手は人間ではなかった。
それが何よりも残酷な誤算。
回避を遮断すべく散らされた弾幕すら完全に見切り、踊るような足取りで急速に五人へと接近すると、銃口のみならず、銃身全体から煙を吹く奇怪な両手の銃を流れるように構える。
そして少女が銃の引き金を引くと、まるで銃口が爆発したようなとてつもない大きさのマズルフラッシュ(発射炎)が上がる。
瞬時に蒸発する五人中二人の頭部とともに、残った三人は鼓膜を打ち破るような銃声と、目を焼くような猛烈なマズルフラッシュにまたもその動きを止めた。
とはいえ、それによって結果に何らかの違いが生じるわけではない。
もし、少女の銃撃の凄まじさに怯むようなことが残る三人に無かったとしても、瞬きすらする時間を与えぬ少女の追撃が残る三人の頭部を吹き飛ばすという事実にいささかも差異など生じなかったはずである。
「……あのチビ、バケモノかよ……あのバカでかいマズルフラッシュからしてあの銃、間違い無く強装弾、しかも、恐らくすげぇパウダー量の弾使ってやがる。銃が壊れねぇのもびっくりだが、あいつ、どんだけ馬鹿力なんだ……」
建物やミニバンの陰に隠れ、直接銃撃の瞬間を目にしていたわけではなかったが、ヒューの銃器に関する知識はそれら不足する情報を補填し、少女の行動と攻撃の内容を理解するには十分であった。
「坊や、感心する部分がどうもお互い違うみたいね。私はあのおチビちゃんの動きのほうが、よっぽど信じられないわ……」
言われ、ヒューははたと少女の動きを頭の中で再現する。
確かに、これもまた容易に現実とは思えないものだった。
複数のPDWによる近接射撃に加え、時折響くスナイパーライフル特有の狙撃音。
それらを完全に見切った上で少女はゼロ距離で射撃をおこなっている。
接近と射撃。
言葉にすれば単純だが、実際におこなうのがどれほど困難か。
それはプロであるレイチェルとヒューにはよくよく理解出来る事実だった。
そして気づけば……、
今やフリントの一角は、まさに戦時下の様相を呈していた。
独特なスナイパーライフルの狙撃音、PDWやその他銃器の銃声、手榴弾によるものかと疑う少女の改造銃から放たれる大きな爆発音。
夜の街角は所々から炎と煙が上がり、もはやその光景に現実感は無い。
と、そこへ、
突発に非現実的光景がさらに眼前へ付け加えられる。
一瞬に目が捉え、理解したものは右手の建物脇での突然の爆発。
少なくともヒューには、そこまでしか認識できなかった。
だが、レイチェルはそれを一連の出来事として確認していた。
右手の建物からふたり分の人影が重なって落下してきて、地面に激突する寸前で爆発。
そこまでは苦も無く理解出来た。
しかし、
彼女の突出した知覚能力ですら、その光景の異常さは、完全な事実確認に多少の時間を要することになる。
爆発の瞬間、ふと地面からわずかに浮いた形になった重なり合う人影は、突如、上側のひとりが爆風にでも乗るようにもうひとつの人影を蹴って宙を舞い、ほぼレイチェルたちの眼前へと着地した。
膝を曲げ、背を丸め、獣のように地面に手をつく人影。
わずかな街灯の明かりが映し出したそれは、その出現過程の異常さすら霞むほど、奇妙なものだった。
雪のように白い髪を風になびかせ、大きく見開いた瞳は闇のように黒い。
元は白かったであろう、明らかに血染みの点々とついた長いマフラーを首に巻き、この寒空にベージュのタンクトップひとつ。
ぼろぼろになったライトグレーのカーゴパンツ。
一瞬ダークレッドと見間違うほど、大量の血に染まった黒のショートブーツ。
何故か引き裂かれたようなカーキ色のジャケットの袖部分のみを両腕にベルトでくくりつけている。
顔には不思議と見覚えがあった。
クレメンスから預けられた少女と、顔立ちだけは酷似している。
だが、
決定的に違う。
黒髪の少女と異なり、それには明らかに表情があった。
笑みと呼ぶには禍々しすぎる歓喜の表情。
見開いた目を闇に輝かせ、口の端を裂くようにして歯を剥き出し、狂気を湛えた笑みを満面に浮かべている。
(……あれが、ティル……カンジキウサギ……)
混乱にも似た思考の中、そう認識するのがレイチェルには精いっぱいだった。
そして、
そんなぎりぎりの思考さえ、次の瞬間には不可能になる。
四肢を獣のように地面へ接するティルが、急に視線をこちらへ向けてきた。
黒いというよりも暗い……、
まさに闇のように暗い瞳。
それがはっきりとこちらを見据えている。
心の中をふたつの相反する衝動が満たす。
銃を構えたいという衝動。
銃を構えてはいけないという衝動。
結果的には後者の衝動が、理性という味方を得て行動を決定させたが、そのわずか一瞬の行動を抑えるためだけに、レイチェルは莫大な精神力を消費することになった。
突出した能力ゆえの苦悶。
なまじ戦闘に特化された存在だけに、頭で理解していることでも実行は困難を極める。
(敵性を見出すと、無条件で襲いかかってくる)
だからこそ、勝機が見えるまでは銃を向けられない。
分かってはいる。
しかし高度に訓練された人間に、反射的に取るべき行動を抑止させるというのは容易なことではない。
ヒューでさえ例外ではなかった。
横顔に冷や汗を流しながら、今にも窒息でもしそうな表情でティルを見つめつつ、少しでも気を抜けば即座に銃を向けそうになる欲求を理性で縛り、口元を震わせながら息を止めている。
無論、息を止めることに意味は無い。
ただ意識が呼吸を拒んだ。
銃を向けることがティルに敵性を感じさせるのは間違い無いが、果たしてそれ以外の何が敵性と判断されるか。そこが分からない以上、呼吸すらも自由にする気になれない。
互いに身じろぎもしない時間。
時間そのものは極めて短かった。
何故なら、
すぐにその凍りついた状況を、空気の読めぬ連中が荒らして回したからである。
路上に遮蔽物も無く、ただ四つん這いのティルと、車影に身を隠したレイチェルとヒュー。
その双方に雨のような弾丸が見舞われたのは、完全に同時だった。
即座にティルとのお見合いを切り上げて再び車体に身を隠す。
「くそっ、この調子じゃ、そろそろ車体の薄いとこから弾が抜けてきそうで、おちおち動きも取れねぇよ!」
「贅沢言ってんじゃないわよ坊や。あいつをご覧なさい。弾除けも無しにあれよ」
連続する敵の射撃に軋む車体の音を聞きながら、涙目で叫ぶヒューに対し、レイチェルはまるでそれを当然のことだとでも言わんばかりの態度で、先ほどまで見ていた路上のティルを再度見るよう、あごで指示する。
「だから、指示する時はせめて手を使えって……」
四方から聞こえる発砲音に気後れしながらもレイチェルへの文句が口をついたのは、ある意味での余裕であったのか。そこは当のヒュー自身にも分からなかったが、それは別とし、促されて車体の脇から覗いた路上の光景は、またしてもヒューに、自分の目を疑わせた。
薄暗い深夜の路上、
そこでティルがダンスを踊っている。
正確に事実を言うなら(ダンスを踊っているように見える)というべきだったが、その場面はそうした事実を理解した上でも奇妙な夢のように感じられた。
最低でも三方向以上からかなりの至近距離射撃を受けているにも関わらず、ティルは狙い撃ちされている自分の足元を飛び交う全ての弾丸を避けながら、細かく、砕け散るアスファルトの地面を軽快に踊る。
火花と砕けるアスファルトの破片、硝煙で彩られた舞台で、ミュージカルタップを披露しつつ楽しげに足を巡らす。
が、転瞬。
無防備にティルへの攻撃を続けていた射手三名を、レイチェルの放った銃弾が射抜く。
またしても三人全てに対して正確なヘッドショット。
ふと見れば、ティルは銃撃による伴奏が失われたのを確認すると、少しつまらなそうに凸凹になった地面を踏みながら、レイチェルのほうへと目を向けた。
再び両者の目が合う。
(……来るか……?)
またしても全身が凍りつくような緊張に襲われつつも、レイチェルはゆっくりと構えていた銃を下げると、ティルの出方をうかがう。
すると、
ふいに片足を滑らせるように後方へ退けたティルの足元に、一発の弾丸が着弾した。
瞬間、乾いた銃声が響く。
狙撃銃に特有の現象。
はっとし、ティルに視線を戻すと、そこには相変わらずの歪んだ笑顔が浮かぶ。
だが、様子が微妙に違った。
弾丸の飛んできた方向から狙撃手の位置を確認するように視線を巡らせた時、その時、確かにティルの表情には笑みや狂気以外の感情が加わっていた。
怒り。
もしくは絶対的不快感。
その様を目の当たりにしたレイチェルが背筋に寒気を感じた刹那、まさに目の前にいたはずのティルは掻き消えるように闇へと消えた。
途端に全身から冷や汗が吹き出る。
説明や報告では感じられない感覚。
例え真実だとしても、その目にするまで実感というものだけは得ることが出来ない。
「マジかよ……」
車の反対側から自分と同じ光景を見ていたヒューが、うめくように言う。
ただ一言の中に全ての意味が込められているのが分かる。
銃の弾が……しかもライフルの弾ですら当たらない。
音を超えて迫る物体の回避。
理屈はすでに説明された。
とはいえ、何の疑問も無く信じていたと言えば間違い無くウソになる。
誇張や偶然と考えるのが逆に正常な思考。
それだけに現実を目にした今のヒューは、レイチェル以上に全身を冷や汗で濡らした。
「それ以上は何も言わなくても分かるわ坊や。さすがに私もこの目で見るまでは、これほどだとは確信してなかった。でももう疑う余地は無いわね。あいつ、明らかに弾丸が飛んでくるのを察知して足を退いてた。まあ、それ以前にあの足元への集中砲火に対して、跳弾のひとつすら喰らってないってだけで信じ難いけど……」
横顔を伝う汗を拭おうともせずそう一息に話したレイチェルは、素早く銃から弾倉を抜くと、新たな弾倉を差し入れる。
気づけば、ヒューはいまだ自分は一発の弾も発射していないことを思い出し、なんとも言えず決まりが悪い気分に苛まれた。