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カンジキウサギは闇夜に踊る  作者: 花街ナズナ
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【Plaything】 (5)


射撃場を後にし、簡易食堂脇のベンチへとふたりは引き上げてきていた。


まだ必要な装備の用意が整わないということで、再びおとなしく待機しようとベンチに腰掛けたところで、レイチェルは一間も置かずにまた立ち上がると、簡易食堂の中へと姿を消した。


それは彼女の射撃技術を見たヒューの落胆ぶりが想像以上にひどいものだったのが最大の要因である。


ヒューは射撃場からベンチへ向かう間中、うなだれた姿勢のまま一言も発せず、ベンチに座ってからもうつむいて床を眺め、呼吸のいくつかに小さな溜め息を混ぜる体たらくだった。


予想外などという生易しいものではない。


確かにレイチェルが自分よりも腕が立つ可能性はあった。

だが、まさかここまで圧倒的な実力差があるなどとはそれこそ夢にも思わなかった。


男尊女卑ととられたとしても仕方ないが、男である自分について、女のレイチェルよりも能力的優位を想定していた事実は確かにある。

さらに、彼女には丸々三年間のブランクまである。


それだけにショックは大きかった。


先ほどとった自身の地位向上を図る浅はかな行為に、後悔と慙愧の念が心を染める。

千々に乱れる感情に思わず頭を掻きむしり、なお頭を深く沈ませた。


すると、


「はい」

うつむいていた頭の上から、急にレイチェルの声が落ちてくる。


はっとするように顔を上げると、レイチェルが自分に紙コップを差し出していた。


「好みが分からなかったから、とりあえずブラックにしといたわ。それと念のために。紅茶は無かったから入れなかっただけよ、イギリス坊や」


相変わらずの無表情。

しかし少なくとも、先ほどまでのそれとは明らかに違う。


冷たく、人を引き剥がすような視線はもう無い。


「ありがとう……ここに紅茶が無いのは知ってたから、気にしてないよ」

「あら、随分と大人しい口になっちゃったわね」

その時、ヒューはレイチェルと出会ってから、初めて彼女が微かに笑うのを見た。


「それとはい、おチビちゃんにはココア。ミルクと砂糖たっぷり。少し冷ましたけどまだ熱いから気をつけて飲んでね」

言って、もうひとつ手にしていた紙コップを少女に差し出す。


なんとも奇妙な光景だった。

常に周囲との関係を拒絶するような態度を取り続けていたレイチェルが、クレメンス言うところの人造人間を相手にココアを振る舞い、それをすする少女の様子を優しげに見つめている。


と、しばらくして、


「さてと、じゃあ自分の分もちょっと取ってくるわ。坊や、おチビちゃんが火傷しないように見ててあげてちょうだい」

言い残し、またレイチェルは簡易食堂へ足を向ける。


見れば、黒髪の少女は渡されたココアをすでに飲み干していた。

そしてまたテーブルに置いたジェリービーンズの瓶を取り上げると、黙々と中身を口へ運んでいる。


「……なるほど、人造人間とやらいうのはどうにもまだ怪しいが、少なくともこのチビの甘いもの好きは確かに人間離れしてるかも知れねぇな……」

つぶやくようにそんなことを言っていると、早々にレイチェルはベンチへ戻ってきた。


右手に紙コップ。

左手にミルクのボトルと深めの小さな皿を持って。


「あら、おチビちゃんたらもう飲み終えたの?」

「あんたが席を離れてすぐ飲み終えてたよ。このチビ、もしかして体が砂糖で出来てるんじゃねぇのか?」

苦笑しつつ答えたヒューの台詞にもレイチェルは声こそ出さなかったが、その口元にはっきりと笑みを浮かべてうなずく。


「残念ながらこのおチビちゃんは砂糖を体に変えてる暇も無いわ。取ったそばからすぐに使い切っちゃうからね」

クレメンスから聞かされた話を半分も理解していない上、半分も信用していないヒューにとってレイチェルの発したこの言葉の意味は合わせて四分の一も伝わらなかったが、すぐその考えは無用となった。


「坊や。おチビちゃんの腕、服の上からでいいからちょっと触ってごらんなさい」

またも不可解なことを言われ、ヒューの困惑の度は増したが、ここは素直にレイチェルの指示に従い、隣でジェリービーンズに夢中になる少女の肩へそっと触れる。


途端、


「熱っちい!」

吃驚の声を上げるヒューを見、予想通りの反応に満足したレイチェルが口を開く。


「軽く計算した限りでもおチビちゃんの手足の温度は常時、華氏110度(約43℃)超えてるはずよ」

「110度って……そんな高熱出してて、このチビ平気なのか?」

「それが平気だから私もおチビちゃんも成立してるのよ」

「……?」

単純かつ分かりやすい疑問の表情を浮かべるヒューへ、レイチェルの説明が続く。


「これはね、クレメンスが開発した特殊な酵素を産生する常在菌による効果なの。体内のあらゆるタンパク質に定着し、カロリー消費に伴って発生する熱と老廃物を食べて、本来なら華氏110度なんて超えたら凝固作用で変質してボロボロになるはずのタンパク質を、熱から保護してくれる酵素を生み出してくれる。そのおかげで、本来だったら異常に消費されるカロリーによって生み出される凄まじい熱で上昇するはずの体温を、ほぼ平熱に保ちながら、高熱下では不活性化する多くの酵素やタンパク質を守り、身体機能を正常に保ってる。ちなみに手足だけは効率的な放熱のため常在菌自身があまり集中してないから高熱のままよ。それでも全身の常在菌から産生される酵素のおかげで組織そのものは無事で済んでる。私もおチビちゃんも、こうしてぴんぴんしてられるのは、その常在菌のおかげってわけ」


突然、学校で化学の講義でも受けさせられているような気分になりながら、当惑した頭をなお占めていたのはレイチェルの説明そのものではなく、レイチェルの態度が不思議と軟化したことだった。


落ち込む自分に対して、どういった形にせよ気を遣うくらいの思慮はある。

これから相棒として付き合う相手にそうした部分があることが分かったことは、ヒューにとっては射撃の腕で負けたことを補って余りあるほどの収穫に思えた。


コーヒーが入った紙コップをテーブルに置き、床に置いた小さな皿へミルクを注ぐレイチェルの姿を見ながら、ヒューは奇妙な確信を得ていた。


彼女とはいいコンビになれる。


根拠は急場の寄せ集めばかりだったが、それを補っていたのは彼自身の勘である。


元来、諜報工作員として訓練されてきた経緯もあり、ヒューは特別、人の本質を見抜く素質に優れていた。

語弊を恐れずに言うなら、彼にとってはその他に身に付けた能力は円滑な対人関係を構築するための手段に過ぎない。


単独でいくら強い戦士がいたとしても、それは圧倒的兵力差の前では無力。

それが彼の持論であり、ゆえに仲間との関係や連携を重視する根拠でもあった。


ヒューがそんな思考を隣で巡らせていることを知ってか知らずか、レイチェルは少女の膝から優しく猫を抱き上げると、床に置いたミルクの皿の前にそっと立たせ、不意に妙な身の上話を始めた。


「あんた、その様子だとクレメンスの話してた(プロジェクト・マジシャン)について、全然意味が分からなかったんじゃない?」

「……?」

ヒューは分かりやすい困惑の表情を浮かべ、ただレイチェルを見つめる。


理由は至って簡単だった。

意味が分からない以前に、話自体を覚えていなかったのである。


「坊や……まさかあいつの話、まともに覚えてないの?」

図星を指された人間の表情というのはどうにも人の笑いを誘うらしい。


レイチェルは吹き出しそうになるのを必死に堪え、口元に上がってきた笑いを押し戻すようにテーブルに置いたコーヒーを一口すする。


が、クスクスと小さな笑いが口から漏れるのを抑えるのはどうやら失敗に終わった。


「あれはね、私が参加した特殊工作員養成計画なの。詳しい内容説明は面倒だから省くけど、ようするに実態としては後に話していた(プロジェクト・ホムンクルス)と大差無しよ。単にその対象が本物の人間か、それとも人造人間なのかって違いだけ」

言って、レイチェルは右手に持ったコーヒーをそのまま、左手で自分の頭と胸を指し示すと、うっすらと、しかしはっきりした笑みを浮かべて話を続けた。


「候補者として選抜され、その上で志願したのは三百十八人。対象になった条件は知覚能力と呼吸器、消化器、循環器機能全てが突出して優れてること。特に循環器機能は重視されたわ。何せ、知覚情報を大量に得られるようにする脳への処置は、考えていたほど難しいことじゃなかったけど、問題はそれを処理することだったからね。通常でも脳は全身の酸素消費量の二十パーセント以上を食い潰すっていうのに、それに加えて、処理する情報量がほぼ倍になる計算よ。処置を受けた後の候補者は、まず情報処理に費やすエネルギーを引き出せないか、もしくは処理出来てもすぐに酸欠起こして卒倒してたわ」

「酸欠?」

「そう、酸素欠乏でばったり。まあ無理の無い話ね。普段処理する情報量の軽く倍程度の情報が一気に頭に入ってくるんだから。熱は常在菌が処理してくれても、必要な酸素は自分で掻き集めるしかないからね」

「脳みその使いすぎで酸欠かよ……まあ、頭ん中をいじくられてその程度で済むならまだマシなのかもしれねぇけど、おっかねぇな……」

「私が唯一の成功例になれたのは簡単な理由よ。知覚情報を任意にセーブすることで、必要な酸素量を抑えたの。このコントロール能力を持っていたのは確かに私だけ。とはいえ、それでも形ばかりの成功例でしかないけどね」

「……形だけって?」

「知覚をセーブすることでようやく成り立ってるってところで分かると思うけど、私はクレメンスたちが望んだような、知覚の百パーセント振り分けなんていう無茶な芸当は出来なかったのよ。まあそれでも、さっき見せたような曲芸が出来る程度の能力は身についたけど」


そう言いながら、レイチェルは左手でポケットをまさぐると、一枚の二十五セント硬貨を取り出し、それを摘まんだ指をヒューに突き出して見せる。


「なんだ。コイントスでもするのか?」

「違うわよ。そんなの、手品でも使えば簡単に当てられるでしょ。このままただ、床に落とすだけ」

「はあ?」

「さ、どの面が出るか。予想してみて」

言い終わらぬうち、レイチェルは硬貨をするりと指から滑り落とす。


「あ、えーと、じゃあ、裏!」

急いでヒューが予想を口にすると、レイチェルはクスクスと笑いながら言った。


「残念、(縦)よ」

「た……えぇ?」

ヒューが疑問の声を上げる中、硬貨は一度床に跳ね返って再び落下すると、しばらくクルクルと回転し、そして……、


「まったく……自分で曲芸はこれっきりって言っといてまたすぐ見せてるんだから、私もどうかしてるわね」

レイチェルの自虐的なつぶやきが終わるのとほぼ当時に、回転を止めた硬貨は彼女の言う通り床に直立して停止した。


「……」

立て続けのレイチェルの(曲芸)に、言葉を失ったヒューに対して一言。


「坊や、拍手は?」

ヒューは笑うレイチェルに続き、ジョークを言う彼女の姿を今日初めて目にし、自分でも分かるほどの間抜け面を晒した。


床では人間たちの児戯には興味も無いといった風で、皿のミルクに没頭する猫が、ただピチャピチャと規則的な音を廊下に響かせ続けている。



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