8
平日の昼過ぎでも、駅前にあるスターバックスはがやがやと混んでいる。なんとなく周囲を見回すと女性同士で座っているのが多いのに対して、男の人だけや、僕と宮下さんのように男女でいるテーブルは少ない。宮下さんはトイレからもどってくるとごめんね、とつぶやいて僕の正面に座った。深緑色のソファはやわらかく、そのために腰が沈む。お互いの目線が普段とは違って同じ位置にあるのが少し可笑しかった。彼女は大切そうにマグカップを両手でつかむ。彼女が頼んだのはカフェ・アメリカーノ。
「正直なことを言うとね」
中々話し出さない僕を見かねたのか、そもそも自分から話そうと思っていたのか、とはいえここに誘ったのは僕なのでやっぱり前者なのではと思いつつ、ゆっくり口を開いた宮下さんを見つめる。鼻の頭に浮くそばかすが、今日はなんだか薄くなったように見えた。
「江野くんは、もう触れないつもりだったのかと思ったんだよ」
「え?」
「失礼だとは思うけどなんだろう。そういうところがあるんじゃないかって、なんとなく思ったっていうのかな。漠然としてて自分でもうまく言葉にできないんだけど」
「いえ……」
「うん、だから意外でね、嬉しかったの」
彼女はにこっと笑う。僕はアイスのキャラメルマキアートを一口飲んで、言う。
「僕、今は付き合ってる人がいるので、宮下さんとは」
「うん、ありがとう。これまでどおり、うちの店をよろしくね」
「……すみません」
「なんで江野くんが泣きそうになってるの」
宮下さんは変わらずほがらかに微笑んでおり、あったかいねえ、とマグカップを口にする。僕は静かにほっとため息をついた。
「あの」
口を開くと、マグカップを見つめていた宮下さんがこちらを向く。うん、と目で先を促す。
「あの、こんなこと聞くの、すごく失礼かもいれないんですけど……僕のどこがよかったんですか?」
「は、はは」
彼女は本当におかしそうに笑って、マグカップを置いた。隣の席のカップルが立ち上がって出て行き、入れ替わるように女子高生が二人、寒いのにフラペチーノを持って座った。それを横目で確認してから、宮下さんは少し声を落すように話す。
「うーん、何かな、物腰、とか。元彼、とかねちょっと乱暴なの、意外でしょ。そういうの結構ストレスだったし、よく駅まで送ってくれて、そういう優しいとことか。ね。そりゃもちろん犬養くんも送ってくれたけど、あの子まだ若いじゃない。こう、元気すぎて」
「そう、ですね。犬養くん、若い」
「でしょう。それと違って江野くんと一緒にいるとね、すごく、安心するの。何を言うでもなくて、そっと寄り添ってくれるよね。距離感がちょうどいいのね。あとは」
そこで切ってから、宮下さんはすごくいたずらっぽい顔してとびきりの笑顔を見せる。
「イケメン、でしょ」
どういう顔をしてよいのかわからないまま宮下さんを見たら、視界に隣の女子高生の顔も入った。彼女も見るとはなしにこちらを見ていたようだが、僕が顔を上げたのにびくりとして不自然なほどぎこちなく顔をそらしたのが分かった。ふ、と自然に笑える。
「自覚のないイケメンは罪作りだね」
宮下さんはそう言って、アメリカーノをまた一口飲む。
「江野くんはこの後どうするの?」
冬の日暮れは早い。大して中にいた時間が長かったわけではないのに、空はもう夕暮れを迎え入れそうな色に染まっていた。べっ甲色の太陽がじわじわと西に傾いている。はげた街路樹のおかげか、空が隅々まで見える気がした。雲ひとつない空は気持が良い。息は白いが、気分は悪くなかった。
「このまま実家に帰ります」
「だからこの荷物か」
彼女は僕の持っていた小ぶりのボストンバッグに目を落としていった。年末年始にとれなかった休みが、一月の下旬になってやっともらえた。お店自体が一週間お休みになっている。今日は休み三日目。イズミの勧めもあって、残りの休みは実家でとることにした。決めてから連絡をいれるのにもまだ勇気はいるが、電話をしてみると母はさして驚いた様子もなく「はいはい」と返事をしただけだった。拍子抜けする思いだ。
途中まで同じ方向なので、僕と宮下さんは同じ電車に乗った。がたんがたんとゆっくり発車しだす。空はべっ甲色から深い藍色を含み始めていた。冬の空が夏よりも美しいのは、空気が澄んでいるからだと教えてくれたのは誰だったろう。夕陽が赤く燃えるように美しいのは、空気中の塵のせいだと教えてくれたのは誰だったろう。ドアの窓にぺたりと手をついてはなすと、案外掌が湿っていたのかガラスになんとなく手形が残った。ガラスに映る宮下さんと目が合う。彼女自身に視線を向けると、彼女はじっと僕を見ていた。
「江野くんの彼女ってどんな人」
「え、あ」
「恥ずかしがってる?」
宮下さんはくすくす笑う。いえ、と否定しながらもどうしても宮下さんの顔は見れなかった。イズミを思い浮かべる。きっと彼の方が会社でそんな話を振られることも多くて、かわしかたもうまいんだろう。僕みたいにこんな風に戸惑ったりもしないはずだ。こんな風に問われたことがひさしぶりだったせいもあるかもしれない。聞かれても「そう」である人たちに聞かれるから、ありのままをこたえる。「そう」でない人に尋ねられたのなんていつぶりだろう。家を出たころ?結局こたえられないまま、僕らは電車に揺られた。彼女も黙ったまま、流れる車窓を眺めている。
元旦の夜に過呼吸を起こしてから、イズミは以前よりも頻繁にアパートに訪れるようになった。もともとスーツやシャツが一、二着は置いてあったのだが、いつのまにか五着に増えていたり、僕が帰ってくるとご飯をつくってくれていることが多くなった。たぶん、彼は彼なりに心配をしてくれているのだろうということは分かる。無理に聞き出してこないところも、彼の愛情だ。でもそうして彼と温かな時間を過ごせば過ごすほど、幸せと同じ分の暗闇が心に落ちていくことを感じる。イズミ、君にどうやって話して良いのかわかんないんだ。たぶん話しても、きっとどうしようもないことだってわかってる。僕たちの将来のこと。この不安。イズミならわからなくても、微笑んでくれるだろう。じゃあ別れようなんてことにもならないのもわかってる。イズミはいつも優しい。僕はそれが嬉しくて、そして、やっぱり、悲しい。
揺られている時間がそんなに長いわけでもなかったが、彼女が駅に降りるころには外はすっかり夜になっていて、ドアが開くたびに入り込む空気も冷たさをますます帯びていくようだった。
「いいなあ」
電車がホームに滑り込むとき、彼女は呟く。
「え?」
「こたえられないってことは、結局すごい好きなんだもんね」
「宮下さん、」
「今日はありがとう。仕事よろしくね。よいお休みを」
彼女のピンヒールのブーツがかつん、と音を立てて軽快に電車を降りていった。冷たい風の名残を乗せたまま、電車が走り出す。実家が近くなる。
「おはよう」
昼過ぎに、枕元に置いた携帯のバイブレーションで目が覚めた。開かずに持ったまま階下に行く。リビングのドアを開けるとケージから出されたハルが勢いよく飛びついてきて、母さんが笑いながらそう言った。
「……この犬、番犬には絶対になれないね」
「人懐っこすぎるわよね。最初は臆病でぜんぜんなつかなかったんだけど……名前が一緒なだけ、春也にはなつくのかしらね」
窓からはもう若干傾いた太陽の光がふんだんに差し込んでいて、母さんはその温かな場所で洗濯物をたたんでいる。たまにテレビに目を移しては笑い、またたたむ。緩やかな午後だった。父さんや弘子がいないときの母さんなんて見たこともないので、ちょっと面白い。僕は足元に絡み付いてくるハルを抱き上げて、ソファに座った。
「春也、あのね」
母さん何かを言いかけているのを聞きながら携帯をなんとなく開くとメールが二件、一件はイズミでもう一件は――
「甲斐田」
「え?」
「あ、いや何?」
「あ、ああ、いいのいいの。大した用事じゃないし」
本当にいいの、と尋ねても母さんは大丈夫よ、とまた背を向けた。携帯にまた目を落とす。脇にかかえたハルが一緒に携帯を覗き込んでくる。お前にはわからないだろ、といいたいところだったがゆっくりと頭を撫でた。母さんや弘子の手入れが行き届いているのか、ハルの毛並みはよく整っているしかすかに良いにおいもする。くうん、と甘えた声を出しながらハルは目を閉じている。甲斐田からのメールの内容は遅い新年会を高校の同窓会もかねてやるが来ないか、というものだった。いつも返事はしない。イズミのメールは実家でゆっくりな、という、相変わらず彼らしいメールで、それにも特に返信はしないで携帯をコタツ机に置く。ふと、こちらに背中を向けていた母さんが振り向いた。
「あ、そうだ、おばあさんのところいってきなさい」
「ばあちゃんのところ?」
「お正月にも挨拶してないんだし、もう随分あってないでしょ」
「うん」
「一昨日、老人会の新年旅行から帰ってきたみたいだしお家にいるわよ」
「じゃあ、いってくる」
立ち上がりながらハルを床にはなす。が、あきもしないで足に擦り寄ってきた。
「ついでにハルの散歩もしてきて。リードは玄関にあるから」
「ん」
携帯は机の上に置いたままにする。母さんはまたテレビに顔を向けた。
父さんの実家は歩いて十分ほどのところにあって、大した距離でもない。訪れると階下には誰も居らず、鍵だけは開いている。ということは奥にはばあちゃんが中にいるということで、小さい頃からそうしているように僕はさして抵抗もなくあがった。ハルは玄関の靴箱の取っ手にリードを結びつけ、「座れ」をしておいた。廊下を進んだ突き当りに和室がある。中からは小さいがテレビの音も聞こえてくる。
「ばあちゃん、僕、春也だよ」
「うん?」
ふすまをあけると、コタツにはいって体を縮こませたばあちゃんがテレビをじっと見つめていた。すみれ色の半纏をきていて、コタツには蜜柑の皮が広がっていた。ゆっくりこっちを見たばあちゃんは一瞬固まったが、目を見開いて、そうしてまた固まった。もう二年か三年か、あっていなかった。実感にしてみればそうでもない時間だけど、やっぱりこうして目にしてみると違う。
「春也」
「うん。ひさしぶり。ごめんね、中々来られなくて」
「春也か」
「うん」
ばあちゃんはしわだらけの顔をますますしわだらけにして、歯の少ない口で本当に嬉しそうに笑った。僕をコタツに招いてくれる。一歩踏み出すと、懐かしい匂いが僕を包む。奥には、おじいちゃんの遺影と位牌のある仏壇が僕を出迎えていた。とくに話をするというわけではなかったが、二人でコタツに入りながらNHKを見た。こうして隣に座ってみると、ばあちゃんはとても小さくてやっぱりばあちゃんだ、と思う。時間の流れはやっぱり誰にでもあるんだな、なんていうことを改めて感じる。テレビでは相撲のダイジェストがのんびり流れていた。時計に目をやり、ハルの様子も心配なのでそろそろ帰ろうかと思って腰を上げると、ばあちゃんはふと立ち上がって仏壇の前に行くとそこにおいてあった白い封筒を持ってきた。
「これ、遅くなったけどお年玉ね」
「そんな、僕もう社会人だし」
「ばあちゃんにとったらいつまでも孫だよ。あと、蜜柑ももってき」
蜜柑をいくつか紙袋に入れたばあちゃんは、またコタツにこじんまりと収まった。僕はぼそりとお礼を言って部屋を出る。ばあちゃんはどこまで僕のことを知っているのだろうと一瞬不安になっても見るが、たぶん、何を知っていてもばあちゃんはきっとばあちゃんだろうとも思う。
玄関の方で「うわ」と、誰かの声がして、あわてて出て行くとおばさんと従姉妹の友紀ちゃんだった。友紀ちゃんはもう大学生だからだろう、長い髪の毛を茶色に染めてゆるやかなパーマもかかっている。化粧栄えのする顔だ。二人とも奥から蜜柑の入った袋を抱えた僕を見て、驚いて固まっている。
「やだ、春くん?」
「え、うそお兄ちゃん?」
「おひさしぶりです」
「あ、じゃあハルつれてきたのも春くん?こっち帰って来てたの?」
「うん、すいません玄関にいれちゃって」
「いいえ、全然平気なんだけど」
ハルは嬉しそうに僕にむかって尻尾を振っている。パタパタとその音が、ひんやりと冷えた玄関に響くようだ。
「ばあちゃんに新年のあいさつを……あ、遅くなりましたけど、あけましておめでとうございます」
「あ、こちらこそあけまして……」
おばさんも友紀ちゃんも相変わらず驚いてはいるようだったが、固まるのはもう解けたようだ。二人とも今度は照れくさそうに笑って上がってきた。彼女たちもどこまで知っているのか、知っていたとしてもきっとはっきり僕に尋ねることはしないだろうこともわかっている。友紀ちゃんは僕をしげしげと眺めていた。今日は薄くファンデーションだけ塗っていて、化粧という化粧はしていない。
「……なんかお兄ちゃん、綺麗になったね」
彼女はそういってやっぱり照れくさそうに笑った。
「おかえり」
帰ると弘子も学校から帰って来ていて、リビングで宿題を広げている。袋から蜜柑を一つあげると、わーい、といってさっそく蜜柑をむき出した。香りが一瞬で広がり、ばあちゃんの部屋にいたときのことを瞬間的に思い出す。
「ただいま」
「おばあちゃん、驚いてたんじゃない?ショックで心臓発作とか起こさなかった?」
「バカ」
キッチンから母さんが笑いながら言う。香ばしいしょうゆの匂いが漂っていて、僕はそれでお腹がすいていたことに気づく。ハルの足を蒸らしたタオルでふき取ってやり、体もゆっくりとそれで拭いた。ケージに戻すと大人しく丸まる。こうしてみると毛の生えたお饅頭に見える。
「おばさんと友紀ちゃんにも会ったよ」
「友紀ちゃん、かわいくなってたでしょ」
「うん。弘子もああなるかね」
「わかんない」
ソファにすわり、宿題を解く弘子の後ろ姿を眺める。髪の毛が肩より少し下まで伸びている髪の毛をシュシュで無造作に束ねている。弘子は母さんに似ているから、真っ直ぐでやわらかい髪の毛は長くしたら綺麗だ。ふっと手を伸ばして結びなおしてやる。びくりとした弘子はげらげら笑い出した。
「もうやだ、お兄ちゃん一言いってよびっくりするでしょ」
「もう少し髪の毛伸びたらおだんごにできるんじゃない」
「難しくてあんまりしたことない」
「綺麗な髪の毛なんだからもっとちゃんとしな」
「化粧も髪の毛の結び方もお兄ちゃんから習わないと」
弘子はしばらくくすぐったそうにしていたが、じきにじっとした。年末に一度だけ帰ってきたときよりも、彼女のぎこちなさもなくなったように思う。
夕飯を食べた後に風呂から上がり、部屋に引っ込む。父さんは遅くなるとかでまだ帰って来てない。暖房器具のない部屋は、風呂上りでもさすがに寒い。置きっぱなしにしていた携帯には新しいメールはきておらず、僕はもう一度甲斐田とイズミからのメールを交互に読み返した。甲斐田。もう随分あってない。距離をとってからも、お前のことは、本当はずっと気にかけてた。高校を卒業するまで、本当はずっと好きだった。本当は、ずっと。返信を、しようか。何を言って良いのかよくわからないけれど。メールを、送ろうか。イズミならそうするかな。宮下さんはそう思うかな。ばあちゃんだったら、そうする?と、突然携帯が鳴った。びっくりして落としそうになりながら、出る。イズミのほっとした吐息が最初に耳に伝わる。
『返事ないんだもん、びっくりしたろ』
「いつものことじゃん」
『あのな……まあいいや。実家どう?』
「うん……今日はばあちゃんにあってきたんだ……数年ぶり」
『へ……ばあちゃんびっくりして心臓発作とか起こしてなかった?』
「弘子と同じこと言うなよ」
イズミが笑うので、僕も釣られて笑う。
『元気ならいいんだ』
「今、帰り?」
『うん。もうすぐ電車乗るよ』
「そっか。……ねえ、イズミ」
『うん?』
「昨日、宮下さんにちゃんと断ったよ。でも、まだダメだな……付き合ってる人ってどんな人って聞かれたけど、こたえられなかったんだ」
『うん』
「ねえ、僕たちは」
電車が滑り込んでくる轟音が耳を突き抜ける。イズミの声も、僕の声も、かき消される。
『ごめん、電車乗るよ。後で電話する』
「いや、もう大丈夫。おやすみ、気をつけて」
『ん、わかった。おやすみ』
電話を切る。少し曇った液晶をスウェットのズボンで拭いて、メール作成画面をひらく。あて先は甲斐田。迷う。そのまま携帯を放り出して、たてた膝に顔をうずめた。