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ハル  作者: こんにゃく
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「ご来光みちゃったね」

 宮下さんはリンゴ飴をかじりながら、日が少し高くなった空を眺めて言う。水色の空に、太陽の光がどこまでものびていた。空気がかすかだが温まっている。神社に向う人たちとすれ違いながら鳥居をくぐり、来た道をもどる。境内よりはまばらな人通りにほっとする。隣をなんとなく見ると、相変わらず宮下さんはぼんやり飴をかじりながら歩いている。口端からもれる息が白かった。こちらを見ていないことを確認して、つま先を見つめながらつぶやく。

「……犬養君も、加島さんも彼氏彼女と一緒に初詣するって、言ってましたよ」

「誰かと新年をむかえられるのって、素敵よね。それが好きな人ならなおさら」

 ふ、と、宮下さんが笑った気がしてそっと視線を移す。僕より少し背の低い彼女は年相応の、悪く言ってしまえば疲れた顔をしていた。横顔だけだとそばかすも目立たないし、もともと綺麗な人だったが憂いを帯びて妙にエキゾチックだった。まぶたが心なしか震えている。それからはとくに話さず、黙々と駅を目指した。

 駅の改札に着くとちょうど電車がきていたのだろう、ホームから出たり入ったりする人が、立ち止まっている僕たちを鮮やかに避けていく。元旦なのにせわしい一日の始まりだ。僕の一歩前にいた宮下さんが振り返る。口の端に、リンゴ飴の赤い色素がうっすらついていたし、唇にも色がうつっている。そのせいか肌は白く見え、そばかすもそんなに目立っていない。うつむいた瞳のまつげは長かった。僕がいくら化粧をがんばっても、ニューイヤーパーティーにきたモデルたちや、あの快活な担当の女性や、宮下さんのようにはなれないだろう。女の子は、美しくて強いと、なんの根拠もなく思う。

「江野くん、実家に帰るの?」

「いえ、予定はないです」

「新年、誰かと過ごさないともったいないよ」

 イズミが夕方に来るとかこないとか言っていたけれど、なんだかどっと疲れたし、今あっても八つ当たりをしてしまいそうで怖い。ピアスに触れる。

「それをくれた人と、一緒に過ごせばいいのに」

「それは……宮下さんは、誰かと?」

 自分が聞かれるなんて予想外だ、という顔を一瞬したものの、彼女はやさしく微笑んだ。

「彼氏とは、別れたの」

 宮下さんが残りのリンゴ飴をかんだ瞬間、表面の飴の部分がぱりぱりと砕けて落ちた。改札から出てくる人が減る。たまに通り過ぎる人は、立ち止まる僕たちを少し見ては寒さに身をちぢこませて去っていった。宮下さんの彼氏は店のマネージャーで、背の高い、優しい人だった。仕事もてきぱきとこなし、彼女と同様、僕らスタッフのことまでちゃんと気を回してくれる人だった。二人ともが公私混同をしてるようではなかったし、加島さんがあんなカップルになりたいとあこがれてもいた。てっきり結婚するのも間近なのではと思っていたぐらいだったので、驚いて言葉がでない。今日だってマネージャーも店にいたけれど、そんなそぶりは一切見せなかった。

 僕の考えていることを読み取ったのか、宮下さんはふふん、と笑ってまたぼりぼりとリンゴ飴をかじる。

「結婚を考えてなかったら嘘になるけど、なんでかな。急に勝負がしたくなった」

「勝負?」

「いい年した女がね、誰かと一緒に新年を過ごせたらって思ったの」

 宮下さんが顔をあげる。綺麗な済んだ瞳が僕を見ていた。

「答えてくれるなんて思ってないけどね、江野くんのことが好きなのよ、私」

 しばらく向き合ったままだったが、宮下さんはにっこり笑ってから遅くなったけどあけましておめでとう、今年もよろしくね、といつもとかわらぬ調子でいうと改札を抜けていった。僕はしばらく立ち止まったまま、言葉の意味を探っていた。



「ハル、ハル。あけましておめでとう」

 帰って来てベッドに転がったまますぐに眠ってしまっていたようだ。重いまぶたはやはり重い。変な時間に寝てしまったからか、目が思うように開かなかった。イズミの声に反応して、ベッドから起き上がったもののまぶただけじゃなく体も重い。心臓のところだけ、そこに置き忘れてしまったように、何もかもが遠くに感じる。ああ、だめだ。ひゅ、と、息をする音が聞こえたと思ったら、過呼吸になっていた。息ができない。何度も経験しているはずなのに、落ち着こうと思えば思うほど苦しくなってくる。まるで一人宇宙や深海にぽんっと投げ出されたみたいな感覚。静かにどこからどこかに遠ざかっていく感覚。遠ざかっていくならどこか終着点があってもいいようなものだけど、ずっと暗い中を放浪していくんだろうなという、根拠のない絶望と諦めがふとよぎる。イズミがあわてて紙袋を持ってきた。口にあてがう。ひゅうひゅういう音が、う、う、といううめき声に変わって、僕は一粒だけ涙を流した。

「大丈夫か」

 イズミが隣に座る。大きくベッドが軋んだ。一度だけ頷いた。彼はそれ以上は問うてこない。彼のかさついた手が僕の額にふれ、熱を調べているようだったけどそれはない。疲れてるだけだよ、とかすれた声でいう。僕が大分落ち着くのを待ってから、彼は立ち上がって冷蔵庫から野菜ジュースのパックを取り出し、こちらになげた。受け取る。それからイズミはテーブルの上にあったタッパーをいくつかこちらの部屋にもってきた。

「おせちの残り。たべよ」

「食欲ないよ」

「じゃ、俺が食べてるからさ。温かいお茶でもいれようか」

 ミニテーブルの上に並べられたタッパーには、黒豆に田作、栗きんとんや伊達巻など、砂糖で味付けされているものが多いからか、妙につやつやしたものが入っている。ほわりと、和食の甘くて懐かしいにおいがした。おせちは大体のものがどの家にも共通して入っているけれど、開いたスペースに何をいれるのかは家それぞれだ。僕の家はこんにゃくを甘辛く煮たのと、筑前煮が重箱のほとんどのスペースを埋めていた。母さんの筑前煮は、とてもおいしかった。そうしてやっと、今年はおせちを作り忘れたことに気づいた。去年は三十一日から一週間お休みをもらっていたから大晦日にはおせちをつくっていたのを思い出す。僕もこんにゃくを甘辛く煮て入れたけれど、イズミはおいしいといって食べてくれた。

「本当に食べない?」

 黒豆を一粒一粒箸でつまみながら、イズミがこちらを見る。ちょうど野菜ジュースを飲み終わったところで、ベッドからおりてタッパーを覗き込んだ。不思議なもので、人が食べているのを見ると食べたくなる。口をあけると、彼は二粒黒豆を放り込んでくれた。

「イズミのお母さんが作ったの?」

「料理下手だけどな、黒豆だけは上手いんだ」

 食後に、犬養君が京都に行ったときにくれた宇治茶ラテをつくって二人で飲んだ。妙に甘くて口の中がざらつく感じがする。犬養君にはまあまあだったと伝えておこう。甘いものが好きなイズミはおいしいというけれど、そのうち糖尿病になってしまうんじゃないかと少し心配になる。言いはしないけれど。

「大丈夫、なんかあったの」

 過呼吸になったことを尋ねているのはすぐにわかった。でも当の本人である僕も何を考えていたのか思い出せない。こんなことはひさしぶりだった。イズミが僕の肩を抱き寄せる。どのチャンネルをつけても新年のうるさい番組しかやっていないからテレビは切ってある。ファンヒーターの低くうなる音と、水道からぽたぽたとたまった水が滴る音だけが響く。じんわりと腰のあたりをあたためてくれているホットカーペットからは、音はしない。ただぬくもりをわけてくれている。謙虚だな、などと思う。ふう、と息をつく。話さないのも悪いと思い、宮下さんから告白されたことを言った。過呼吸の原因ではないといいながら、何度となく宇治茶ラテを飲みながら。話しては、黙り、飲み、そしてまた話した。宮下さんのまつげを思い出す。リンゴ飴のせいで妙に赤くなっていた唇を思い出す。駅の雑踏。ご来光。犬養君や犬養君の彼女、加島さんや加島さんの彼氏。八頭身のモデルたち。快活な編集者の担当。ふと、互いが無言になっていたことに気づいた。

「……なんて返事をしたらいいんだろ」

「誠心誠意、返してあげたらいいよ」

「誠心、誠意」

 うん、と、イズミが頷く。彼の頭が僕の肩にもたれてきた。ずっしりした重みが伝わってくる。彼はもっていたカップをテーブルにおいて、こちらに向き合うとぎゅうと抱きしめてきた。イズミの匂いがする。ボディミストの匂い。どこのブランドのものかわからないけれど、出会った頃から彼はいつもこの匂いをさせていた。そしてかすかなたばこの匂い。ナフタリンの匂い。冬の匂い。さっきのおせちの名残か、甘い匂いもする。腕をイズミの背中に回す。ぱたんとカーペットの上に寝転ぶ。静かにキスをした。背中が温かくなる。そっと目を開けるとイズミはもちろん僕を見ていて、その瞳の中に僕がぼんやり映っている。

「……僕が宮下さんと付き合うって言ったら、どうする」

「そういう冗談、ハルには似合わないよ」

 イズミがもう一度キスをしてくる。少し嫉妬しているのはわかった。ねえでも、と僕は続ける。

「宮下さんは、僕のこと、好きで、だからきっとマネージャーとも別れたんだろうけど……僕たちはどうなるんだろう」

「ハル?」

「そう、思ってたんだ。本当は。僕はゲイで、結婚なんて到底できるわけじゃなくて、でも宮下さんは、そういうのも含めてきっと僕を選んだんでしょう、結婚とか、そういうの考える年じゃない。そういうの、わかんないけど、僕には。でも、きっとそうだろ。そういう、将来のこととか、考えてて……でも僕にはそういうの、もう、なくて、それで父さんや母さんを苦しめてて……イズミは考えないの」

「考えないって言ったら、嘘になる、けどね。でも俺は、家族に言ってないことで苦しいわけじゃなくて、こうしてハルといることが幸せだから、さ。結婚って、イマイチぴんとこないっていうか」

 イズミが起き上がって、姿勢を正した。僕は寝転がったまま、まぶしく天井の明かりを見つめる。そしてふと思い出した。何を考えていたのか。もっと考えなくてはいけないだろうこと。過呼吸の原因。僕たちの終わりはどこにあるのだろう、と。本当はずっと見ないフリをしていた。ずっと知らないフリをしていた。もちろん、今の僕たちにはいろんなことがあってそれをお互いに共有していたりしていなかったりする。相手のことだけを考えるために生きているわけではない。だけどこれが男女の付き合いだったなら、僕らは結婚をしただろうか。それとも結婚を考えられる相手を見つけるために別れることになるのだろうか。宮下さんとマネージャーのような終わりは、それとも新しい始まりはどこにあるだろう。いくら僕が化粧をしたって、女性の服を着てみたってそれは真似事で、女にはなれない。ならない。僕はいつまで、イズミはいつまで、お互いをお互いが想いあっていられるのだろう。父さんや母さんは何を望んでいるだろう。弘子はいつか結婚したとして、その相手に僕が結婚していない理由を話せるだろうか。きっと僕がノーマルだったら、ぶち当たってもない壁を今、見つめている。

「ハル?」

 自分の顔が色を失っているのが、自分でもわかる。急激に熱を失っていく頬が、悲しい。僕はこんなにもイズミを好きで、イズミも僕のことをこんなにも好きで、それなのにきっと終わりがくるのかもしれない。それが明日か、明後日か、一年後か十年後が、もしかしたら死ぬときか、それはわからない。けれど、終わりはいずれくる。わかっているはずのことだし、わかっていた。けれども、自覚をするのがこんなにも怖ろしいことだなんて知らなかった。

「ごめん、なんか、」

「ううん、大丈夫」

 涙がこぼれていった。怖かった。どうしようもなく怖かった。一人になるのも、イズミを失うのも、誰かを愛することも誰かに愛されることも。


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