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ハル  作者: こんにゃく
6/13


「また、いつでも遊びにきていいんだからね」

 次の日、駅まで車で送ってくれた母は何度も何度も念を押すように言った。僕は適当に頷いていたのだが、イズミはにこやかに「はい、是非また年始にでも」と社交辞令なのか本気なのかわからないことを言っている。助手席に座った弘子はハルをひざに抱いており、荷物をおろした僕たちを、窓をあけてハルと一緒に見ていた。

「お兄ちゃん」

 昨日買ったチークとグロスだけを軽くつけた彼女は、それだけでもう雰囲気が違う。切なげに目を伏せる仕草は、ハルにそっくりだ。

「弘子の方が、よっぽどハルに似てる」

「そんなことない、お兄ちゃんの方が似てる」

「うん、ハルはハルに似てるよ」

 イズミが、窓から顔を出すハルの頭を撫でた。くぅん、とハルが鳴く。離れがたいなあ、と、イズミが苦笑した。母がぷぁん、と一回クラクションを鳴らす。昨日の駅とは比べ物にならないほどさびれた駅前にその音がまるでこだましているようで、しばらく余韻が耳に残っていた。


「よかったの」

「何が」

 駅を二、三駅通り過ぎた頃、不意にイズミが尋ねてきた。規則的な電車のゆれに揺られて、少し眠くなっていた僕は何のことだかさっぱりわからなくて、たいそう怪訝な顔をしていたことだろう。彼はえーと、と少し淀みながら続ける。

「実家。もう帰っちゃって」

「年末年始は仕事あるし」

「そうじゃなくて、まあ、それは仕方ないけどな。話しなくて、って、ことだよ」

「話すことなんか」

「親父さんと、あんまり話せてないだろう」

 イズミはこちらを見ないでいう。それはありがたかったが、返事に困った。彼の横顔から視線をはずし、向かい側の窓に目をやる。冬の街は全体的に灰色で、殺風景だ。温かい車内だけが色つきの世界みたいに思える。僕の隣に座るイズミや、少し離れたところに座るきついパーマをかけたおばさん、扉近くに立っている高校生みたいなカップル、そうして僕の父や母、弘子、犬のハル、いのちあるものが生きているとは到底思えないような、街。でも事実、僕らはここで生活している。必死に。

「……何を、話すのか、なんて」

 存外、声は震えてはいなかった。ただどこにむけてよいのかわからなかった。

 僕が家に帰ったということは、彼ら――父や母や弘子が、僕が「そう」であることを認めたという証なのだろうか。イズミを連れて行った。彼は僕と付き合っているといった。けれど、本当に、認めてもらえているのか、迎えて入れてもらったのか、結局はわからない。人は嘘をつける。人は誰かを傷つける。見てみぬふりをすることもあるし、知らないうちにそうしているときもある。僕が「そう」であることで父や母や弘子を傷つけたように、父や母や弘子が僕を傷つけている。誰も悪くない。だから、厄介で触れたくない。けれど、触れなければつらさは終わらない。でも触れたからといって、出口はあるのか。傷口を抉り出すだけではないのか。

「……今の僕の気持を改めて話したところで、僕や父さんや母さんや弘子が、楽になることなんかあるのかよくわかんないし、それに……言わないイズミがそれを言うのはずるいんじゃないの」

 それを持ち出した僕の方がずるいのは十分わかっていた。イズミがカムアウトしないことと、僕がカムアウトしたことは関係がない。

「ごめん、ハル、今のは俺が悪かった」

 イズミが僕の手を握った。カサカサとして、疲れた手のひらだった。でも、あたたかい。

「僕もごめん」

「泣くなよ」

「泣いてないよ」

 イズミの手をぎゅっと握り返した。

 たたん、たたん、とリズミカルに電車は走る。しばらく沈黙が流れる。思い出したようにエアコンの口から、勢い良く温風が吹き出ていた。ごお、ごお、と、まるで嵐がきてるみたいに聞こえる。横目でイズミを盗み見た。彼はまっすぐ前を見ていて、ゆったりとまばたきをする。まつげがながい。鼻が高くて、肌もきれいだ。アゴの下に小さなにきびができていた。赤くはれている。

「横顔」

「ん?」

「久しぶりに眺めた」

「そんな見るもんじゃないよ」

 イズミがこっちを見た。

「ねえ、なんであそこのブランドにしたの」

「弘子ちゃん?」

「うん。あれ、僕に初めて買ってくれたとこと一緒だった」

「ああ、覚えてた?」

 うん、と頷く。シャドウと、グロスと、チーク。イズミが初めて僕にくれた化粧品。適当にチークを買ってきてとメールをしたら、きれいにプレゼント用の包装をしてくれたのだった。もうずっと前に使い切ってしまったけれど、包み紙だけはベッドの下の引き出しにまだしまってある。彼がそれを知っているのかはわからないけれど、ひどく嬉しかったのだ。本当に。

「弘子ちゃん、ハルに似てたから、絶対に似合うと思ったんだ。あそこのやつ、全部」

 はは、と、イズミが笑う。

「本当はね、あそこのやつ全部、ハルに買ってあげたいぐらい」

 できないけど、とつぶやいてイズミは手を離して伸びをした。心なしか頬が赤く染まっているような気がする。恥ずかしいならそんなこというな、と思う。けど、嬉しい。こんなばかみたいなことが。

「じゃあ、また連絡する。よいお年を」

「よい、お年を」

 イズミが乗換えで降りていく。ホームを完全に通り過ぎるまでずっと手を振っていた。

 しばらくしてすぐにメールがきた。ポケットから携帯を出すと二通きていて、一通目はイズミから二通目は母さんから。二人ともタイミングがいいのかなんなのか、少し笑った。

『キスしたかった(笑)』

『久しぶりに顔が見れてよかったです。お正月も、すぎてもいいから帰っていらっしゃい。お父さんも、本当はもっと春也とお話がしたいはずです。それと、泉さんがとてもよい方でした。』

 こんなところで、と、思ったがうるんでくる瞳にはどうしても抗えなかった。幸いなことに人がほとんど乗っていない。さっきまで微笑んでいたのに今は顔をくしゃくしゃにして泣いているなんて、変人以外のなんでもない。ふと思い出して、涙を拭きながらカバンからイズミがくれたプレゼントを取り出した。すこし無理に押し込んでいたから少し変形してしまっている。リボンをほどき、テープをはがす。手提げの中に入っていたのは手提げと同じようにブランドのロゴの入ったしっかりしたつくりの箱。それもやはりリボンが十字にかけてある。不思議に思いながらまたリボンをほどき、ゆっくりと箱を開ける。中から現れたのは青い石のついた、小さなピアスだった。一緒に小さな紙が二枚入っている。

『十二月の誕生石「ラピスラズリ」。きっと貴方に幸運を運んでくれるでしょう』

 安っぽい説明書とは反対に、ラピスラズリは車内のゆるやかな明かりの下でも凛としてかがやいていた。もう一枚は二つ折りになって入っている。開いてみると、イズミの字だった。少し角ばっていて濃い筆圧は、一度見ると忘れられない独特の字だ。

『誕生日おめでとう。ラピスラズリってポジティブ思考とか、美肌効果とか、そういう効能もあるみたい。けど、これを選んだのは誕生石っていうのもあるけど、どの石よりもこの石がきれいだった。ハルのイメージは青。いつまでも色あせないイメージ。誕生日おめでとう』

 丁寧に耳につける。ふさがりかけていた穴が少し押し広げられて窮屈な感じがするが痛くはなかった。イズミが選んだものだから、きっと似合っているだろう。外はだんだんと暗くなってきていて、窓に僕の顔が反射している。穏やかな顔をしていた。


「へえ、江野くんめずらしいね、ピアスなんて」

 できあがったパスタの大皿を二つ、ホールと厨房の境であるカウンターにのせると同時にとりにきた店長の宮下さんに言われた。そばかすのせいで幼く見えるその顔は、歯を見せてにっと笑うとよけいに幼く見える。はあ、とか、ええ、とか、曖昧に返事をしようかさえも迷っているうちに宮下さんは軽々と大皿二つを片手でもち、右手にもオードブルをもって颯爽とホールに消えていった。厨房にもどってフライパンをとる。

 大晦日から元旦にかけて、女性向け雑誌主催のニューイヤーパーティーの会場にうちの店が選ばれて、所属する僕らシェフやホールスタッフが総動員となった。もともとそんなに大きな店でもないが、立地条件がいいことと口コミなんかには聡い業界だからだろう。九月の頭にはもう予約がはいっていた。女性受けが良いように、味はもちろんのことボリュームもあって見た目も華やかでヘルシーで。何度か打ち合わせにきた担当の人ももちろん女性で、彼女は快活に店長やマネージャーだけでなく、僕らにまでそう言っていた。

「ハッピーニューイヤー!」

「あけましておめでとう!」

 みんなが口々にいう。クラッカーが鳴らされる。シャンパンがあけられる。ホールが一段と騒がしくなった。予定していたオードブルを出し終えた僕たち厨房も手があいたホールスタッフも、カウンターから鮮やかな外の世界をのぞき見ている。少し薄暗く照明を落とした店内に、いつもは存在しないミラーボールが回っている。その下でざわざわと楽しげに微笑むのは、雑誌でみたことのあるモデルだったり、見たことはないにしろやはりスタイルも良く美人ばかりだった。

「俺なんか彼女と本当は年越しして初詣だったのに」

 パティシエである犬養君がさも恨めしそうにいう。彼の頬にはチョコレートクリームと生クリームが猫のひげのようについていた。あーあ、と彼はおおげさにため息をつく。カウンターの外にもたれている加島さんもこちらをむいて、はあ、とやはりため息をついた。

「あたしも彼氏と年越しだったのになあ。何が悲しくて八頭身美女たちの集いを見なきゃいけないんだろ。いいじゃないですか、江野さんも犬養さんも、美人さんがおがめて嬉しいでしょ」

「加島、お前なあ、あんな天上人なんか見たって全然うれしくないよ。手が届くならまだしも。楽しそうでいいよなあ、本当なあ」

 二人ともがため息をつく。確かにこことホールとでは別世界だ。キラキラまわるミラーボールに対して、ここは普通の白熱灯。あと数時間もすれば食べ終わった皿でごちゃごちゃとなって、またしても戦場になる。天上人、なんていいすぎかもしれないが、事実あんな綺麗な人たちが集まっているのはまるで合成みたいに見えてくる。

「江野さんは?」

「え?」

 話を振られるとは思わなかったので、何を言っているのかわからないという顔を向けると加島さんはだからあ、と含みをもった言い方をする。怒ったのかな、などと、弘子とさして年の変わらないような子に対して思ってしまう。

「彼女さんと初詣ですか?ピアス、新しいでしょ。プレゼントですよね、いいなあ」

 女の子ってそういうとこによく気づくね、というと、そんなことないですよ、と加島さんは笑う。怒っていなかったようで、ほっとした。自然と耳につけたピアスに触れる。派手なものでなければアクセサリーも大丈夫な店だったが、こういう色のついたピアスをしてきたのは始めてだった。ラピスラズリって十二月の誕生石でしょう?とも彼女は続けた。パワーストーンが好きらしい。それから彼女は犬養君にも誕生月を聞き、その月はどれどれっていう石でこういう力があって、と話し始めた。犬養君も話し好きだから、楽しげに聞いている。僕は二人の会話を聞くとはなしに聞いていて、うしろで束ねていた髪の毛をほどいてもう一度結びなおす。二人は、ホールとここを別世界と言っていたけれど僕にしてみれば二人だって、別世界の人に思える。イズミにこんなことを言ったら、距離をとるなと怒られるだろうか。シャンパンがこぼれたのか、ホールでひときわ高い声が響いて、続いてどっと笑い声が起こる。それにつられて加島さんも犬養君も笑っていたけれど、僕はなんとなくため息をついてしまった。耳たぶにある、青いピアスにまた触れる。かすかに冷たい。本当はもっと、考えなくてはいけないことがあるような気がする。


「今日は本当にありがとう」

 空も白みかけた頃にはパーティーも終わり、もちろん後片付けも終わってスタッフも解散になった。戸締りをした後に寒空の下、宮下さんはスタッフ一人一人にお年玉だといって、ポチ袋をくれた。加島さんも犬養くんも素直に喜んで帰っていく。疲れからかハイになっているらしく、変に大声になっている二人の声は、少しはなれてからも響いていた。遠ざかっていく声を聞きながら、宮下さんがふっと笑う。

「江野くん、ありがとうね」

「宮下さんもお疲れ様でした」

 どちらからともなく歩き出す。僕は店からすぐのところに住んでいるが宮下さんは電車で通っている。一応男だし、宮下さんに断られない限りは駅まで送っていくことにしている。僕がいないときは犬養くんが。ここで働き始めてもう二年の間に、なんとなくできた習慣だった。

 真冬の風は痛いほどだったが、疲れて火照った顔にはちょうどよかった。元旦ということもあってか、普段は深夜にもなればほとんど車どおりも人通りもない道だったがざわついていた。駅からちょっと歩いたところにそれなりに大きな神社があるからだろう、みんな初詣に行っているのかその帰りなのかわからないが、ちょこちょこ人とすれちがう。振袖を着た人も数人見かけた。綿飴を持っていた。

「屋台、出てるのかな。朝早くからご苦労なことね。昨日からかな」

「そうかもしれないですね」

「ねえ、行ってみようか。初詣」

 え、と顔を見た。宮下さんはやっぱりそばかすの浮く幼い顔でにこりと笑ってみせた。


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