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ハル  作者: こんにゃく
5/13

 次の日、昼前には弘子とイズミと僕と三人でバスに乗り(母さんの車で行ってもよかったのだが駐車料金がかかると母さんがいうものだから)、昨日降りたのではないまた別の大きな駅と一緒になっている百貨店の化粧品の階に行った。年末だからかすごい人で、どこもかしこもSALEという赤い文字が黄色い広告に躍っている。むせ返るような化粧品のにおいと人の温度で、少し気持が悪くなる。ぞろぞろとうごく塊が一つの流れを生み出しているみたいだ。

「大丈夫?」

 イズミが耳元でささやく。僕はぼんやり頷いた。僕の隣にいる弘子も少し呆然とした感じで人ごみを眺めている。駅の中央改札を抜けるとすぐにある正面玄関からあがるエスカレーターは二階つまりここだに続いており、二階から上に上がるにはフロア中央のエスカレーターまで移動しなければいけない。二階で買い物をする人は実際に少なくても、移動人口が多い。なんとなく流れに乗りながら、それぞれのブランドの美しいモデルたちの写真パネルをきょろきょろ眺めつつフロアを一周する。

「弘子、どんなのがいいとか、どんな雰囲気がいいとかある?」

 フロアの曲と、人ごみのうるささであまり会話が成立しない。問いかけても弘子は困ったような顔で首を傾げるだけだった。化粧気のない彼女にこの階――世界はまだ早すぎたのだろうか。実際、僕だってこんなに意気込んできたこともないし、ほとんどがイズミ任せだ。自然と視線はイズミに移る。彼は彼で、どうしようかな、と悩んでいるようだった。

「化粧初心者だし、高校生だからあんまり派手じゃないほうがいいよね」

 イズミがいう。僕は頷く。弘子もなんとなく頷いた。聞こえていたのかはわからない。

「おいで」

 イズミが僕の手を引き、僕が弘子の腕を引く。三人が少し前のめりになりながら多くの人の塊から脱出した。ふいに鼻をくすぐるベビーパウダーのような香り。懐かしくて、ふと思い当たることもありイズミの横顔を見た。彼もこっちに視線を移して目で頷き、弘子の方を向く。

「最近、ここのが大学生とかにも人気でね、やわらかい色ばっかりだし弘子ちゃんにもすごくいいと思うんだ。どう?好みじゃないかな」

 弘子はおそるおそるといった感じでディスプレイに近づいていく。ディスプレイ兼柱になっているホワイトシルバーの棚には薄いピンクからすみれ色までのアイシャドウだったり、チークだったりが整然と並んでいる。ところどころに置かれている白いマーガレットの花がかわいらしい。マニキュアもいくつかあって、全てが暖色系の、女の子らしい色だった。

「手に取っていいんだよ」

 未だに緊張気味の弘子だったが、イズミにそう言われゆっくりとマニキュアに手を伸ばす。一番とっつきやすいのはマニキュアなのかもしれない。それに弘子は指が長くて綺麗だから、派手な色でなくても十分に美しく映えるだろう。その場にイズミと弘子を置いて、僕もゆっくりと売り場を眺めた。さして大きくない円柱型の棚がさらに円形の空間を作っていて、その中では一人の女性がスタッフらしい女性にメイクをしてもらっていた。なんとなくその様子をうかがいながら、ファンデーションや下地、グロスなどをゆっくりと手に取る。久しぶりに自分でこうして化粧品を手に取った。

「何かお探しですか?」

 予想外の呼びかけにびくっとして顔を上げたものだから、相手も吃驚したようだった。円柱を挟んだ向こう側から、メイクをしているのではないまた別のスタッフが呼びかけていた。名札を即座に見る。「内海うつみ」という彼女は背も高く、僕と同じぐらいあった。

「いえ、妹が」

 緊張して、声がくぐもる。僕も薄く化粧はしているし、ダッフルコートにスキニージーンズといういでたちだが、なんといわれることだろう。化粧をしているときに、間近で顔を見られるのはたぶんイズミ以外にはない。怖くて顔があげられない。家から出てしまったことを激しく後悔した。帰りたい。冷や汗がばっと噴出した。

「あら、そうなんですね。何かございましたらどうぞお気軽におっしゃってくださいね」

 彼女は幾分か声が低く、聞いていて悪い気がしなかった。どぎまぎしながら視線を手元から弘子の方に移すと、「内海」さんもそちらに気づいたようで、ゆったりと弘子とイズミに近づいていく。僕はほっとして、震える手でグロスをもとの場所に戻した。

「お化粧入門ですね。私、うつみ、と申します。どんな風にしたいとかあったら言ってくださいね」

 ヘアピンで前髪を固定され、小さなケープをつけてイスに座る弘子はどこか不安げで、小動物のような瞳を何度もこちらに向ける。イズミは思わずといった感じで笑っていた。とりあえず化粧してもらえばいいよ、といったのも、傍にいるよ、といったのもイズミだった。内海さんもとても優しく対応してくれて、僕と弘子は基本的に黙っていた。似たもの兄妹ということだろうか。丸くて明るい空間に、弘子が座っている。さっきまでの人ごみの気持ち悪さが嘘のように、フロアの曲だけがゆるやかに流れていた。僕とイズミも丸いスツールに腰掛けて、弘子が化粧されていく様を眺めていた。

「妹さんの場合は、お肌も綺麗ですしファンデーションはいらないぐらいですね。お若いし、今ファンデーションを塗ってしまうと逆にお肌の呼吸ができなくて。フェイスパウダーを軽くのせるだけで毛穴も目立たないですよ。ただお肌が白いので、チークぐらいははたいてあげてもいいかもしれませね。コーラル系よりはオレンジ系かな。まゆげは?整えても大丈夫ですか?綺麗にはえてるから、形をととのえるだけで、ええ。あとシャドウは?」

 内海さんはやわらかく、丁寧に、ブラシやチップを走らせていた。みるみる内に弘子が女の子から女性に代わっていく。もともと化粧映えのする顔だったのだろう、本当に薄くしかしていないのに弘子は女の子から女性になっていく。そうして美しくなる。うらやましいし、悔しくもある。けれども、なれないからこそ、いい。

「ねえイズミ、あの人毛利さんに似てない?」

「雰囲気、かな」

 内海さんの物腰や背の高さや声の低さなどは、僕らに共通の人を思い出させる。毛利さん。僕がまだ実家にいたとき、週に一回働いていたバーの常連さんだった。大手アパレルの総合職の彼女はいつも綺麗で僕は、もちろん男が恋愛対象でしかないけれど、彼女がくるとドキドキした。彼女がきっかけでイズミとも出会った。


「これ、石本くん。私の大学の後輩なんだけどね。たまたま仕事先で会ってね。ハルくんと同い年なの。よかったら相手してやってね」

 そう紹介されたイズミは愛想よく僕とマスターに挨拶した。どうも、とだけ小さく挨拶をして、その時はそういう対象でも何もなかったし僕には別に付き合っている人もいた。 イズミは毛利さんときたり他の人を連れてきたりして、月に二回ぐらいはバーにきているようだった。僕が入っているときが大体土日だったので、会う確率も高く自然とカウンターに座る彼の話し相手は僕になっていた。

 あるとき、毛利さんとイズミがきたときに毛利さんは少し荷物が多くて、カウンターに腰掛けると大仰にため息をついた。少し光沢のあるグレーブルーのワンピースにノーカラージャケットを羽織っていた彼女は髪の毛も綺麗にまとめており、かすかにシャネルの香水が香る。大層モテるだろうと思っていたしイズミも彼女のことが好きだろうと思っていた。今日は荷物が多いんですね、と、頼まれたジントニックをイズミに、ソルティードッグを毛利さんに出すと、待っていましたといわんばかりに彼女が口を開く。

「ほら、ハルくんも知ってるんじゃない、化粧品会社の××あるじゃない、そことコラボすることになってね、いろいろ試作品とかあるんだけど押し付けられちゃって……あ、そうだ、ねえ、ハルくんちょっと化粧してみない?前から思ってたんだけど、ちょっと化粧してるでしょう?」

 屈託なく毛利さんは言う。イズミもへえ、と言って僕の顔を見た。その瞳はただ純粋な好奇心をたたえている。僕は目を伏せて曖昧に頷いて見せた。拭いていたグラスに僕の不安げな顔が映っている。それを見た毛利さんは続ける。

「恥ずかしがらなくていいよ。別に、そういうの偏見ないし、ね。うちにもそういう子、働いてるよ。案外、男の人が化粧するって綺麗よね……私はけっこう好きだよ。それになんだろう、一枚塗ったほうが外にも出やすいって感じ、しない?女が化粧しないと外に出られないんだもん、男だってすっぴん恥ずかしくて当たり前でしょ」

 毛利さんはグラスに口をつけて、だから後で化粧させてよ、と言うのだった。イズミも確かにハルくんは綺麗な顔してるからね、と穏やかに微笑む。たぶんその時、初めてイズミの顔をまじまじ見たような気がする。結局、その夜はマスターも乗り気だったこともあって少し早く店を閉め、毛利さんに試供品で一通り化粧をしてもらった。毛利さんはもちろんマスターにもイズミにも好評だった。

 そのうちバーをやめて家を出て、少ししてからイズミと付き合いだした。その頃にふと毛利さんのことを尋ねたら、海外の支社に転勤したそうでしばらく会っていないとイズミは答えた。


「今、毛利さんどうしてるのかな」

「海外の支社いってから、全然知らないな」

 弘子が化粧をされているのを見つめながら、二人でぼそぼそ話しているのは少し楽しい。イズミは、そのうち連絡してみようかな、と言って携帯をポケットから取り出してぼんやり見つめていた。


 結局、弘子にはフェイスパウダーとチークとグロス、それと眉毛ばさみとピンセットのセットを買ってやった。百均やプチプラの化粧品とは違い、百貨店の化粧品たちの値段をみて弘子は驚いたようだった。お会計をしながら内海さんが僕を見る。

「さっきもお伝えしたんですけれど、お肌が綺麗なときはできるだけ何も乗せないほうがいいんですよ。お兄さんのお肌もすごく綺麗ですしね、家系なのかな」

 そういわれて、顔をあげられない。イズミがくすりと笑ったのがわかった。

 遅いお昼は駅前の小さなカフェに入った。僕も高校や専門学校のときによく使っていたし、弘子も学校帰りの寄り道で友達とよく使うらしい。久しぶりに入った店内は相変わらず香ばしい木漏れ日の香りがしていて、テーブルの配置は変わったようだったが懐かしさに変わりはない。

「弘子ちゃん、化粧似合ってるよ。女の子は化粧すると変わるもんだね」

 ありがとうございます、とぼそぼそ弘子がいう。昨夜の夕飯のときの元気はどこにいったのか、少し気まずそうだが楽しんでいるようにも見えた。

「弘子ちゃんは今彼氏とか、好きな人とかいないの」

 イズミのその問いに、弘子はまるでマンガのように咳こんだ。僕も口にしていたコーヒーを思わずふきだしてしまうところで、口元をそれとはなしにぬぐう。弘子は顔を真っ赤にしてオレンジジュースで口直ししている。あはは、と、イズミが笑った。

「彼氏いるんだ?」

「い、いないですけど」

「好きな人は?」

「……いる」

「弘子ちゃん、かわいいからすぐに彼氏できるよ」

 そっかそっか、とイズミは嬉しげだ。反対に弘子は不安げに僕を見た。さっき内海さんに引いてもらったアイラインがにじんでいる。このまま放っておいたらたぶんパンダ目になってしまうだろうと、紙ナプキンを一枚とって目元を角でふいてやった。とっさのことでびっくりした彼女はぎゅっと目をつぶったが、僕が何をするのか理解するとおそるおそる目を開けた。

「横顔が似てる」

 イズミが口元にピラフのご飯粒をつけたまま、やっぱり嬉しそうに微笑んだ。


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