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ハル  作者: こんにゃく
4/13

 風呂から上がるとリビングの明かりだけはついており、誰かいるのかと思って顔をのぞかせたけど誰もいなかった。僕が最後に入ったんだから当たり前だ。母か弘子が明かりだけはつけておいてくれたのだろう。まだこの家で暮らしていたときも今みたいに、誰よりも遅く帰ってくる僕のために電気だけはついていたのを思い出す。待っていてくれとか電気をつけておいてとか、そんなことを頼んだことは一度もなくて、もったいないとさえ思ったこともある。家族とすれ違う日々が続いて淋しいとか、そんなことをいうつもりもない。だけどアパートに住むようになって、イズミがたまに家に泊まったりもして、遅く帰ってきても部屋に電気がついているときの安心感を、僕は初めてしった。ただ待ってくれている人がいることがいかに幸せなのか。少し泣きそうになる。小さなころ、帰りの遅い父のことをあくびをかみ殺しながら待っていた母を思う。小学生の僕がおやすみと声をかけると、母は眠そうにそれでも幸せそうな顔でおやすみと返してくれたのだった。

 二階の僕の部屋に行くと、シルバーラックと空っぽの本棚しかない殺風景の中にイズミがちょこんと座っていた。折りたたんだ蒲団が二組、部屋の隅においてある。彼はバスタオルを頭にかけたままこちらを見た。

「おかえり。部屋、えらくさっぱりしてんだね」

「ベッドとかはあの部屋にあるし、勉強机とかはもう捨てちゃったし」

「それもそうなんだけどさ、俺の姉ちゃんが家出てったときなんか父さんも母さんも、もう一人の姉ちゃんも一気に物置にしてたから、どこもそうかと思ってた」

 イズミは本当に関心したように言う。

「うちは基本的に、みんな持ち物が少ないんだと思うよ」

「下もきれいだったしな。うちはごっちゃごちゃ。でもこれだけ綺麗だったら、いつでも帰ってこれるじゃん」

 思いもよらないことを言われて、しばらく言葉が見つからなかった。たぶん、家族はそんなことを思ってここをそのままにしておいたわけじゃないだろう。むしろ入りにくかったんじゃないか。実家に帰ってきて、荷物をこの部屋に置いたときにそう思ったのに。イズミを見る。

「そんな泣きそうな顔すんなよ」

 イズミはこっちに来て、僕のまだ湿った頭を撫でた。

「んでもよかったな、今日はなんとか」

 イズミは伸びをして布団を敷きながらあくびをした。夕食の席を思い出す。

 父さんが帰ってきた瞬間、気持ち悪くて倒れてしまいそうだったけれどみんな穏やかで、イズミが持ってきたシャンパンを飲むと頬を赤くして、ぽつりぽつりとだが上機嫌でしゃべっていた。弘子はリンゴジュースを飲みながら、それなのに顔を始終真っ赤にしていてよくしゃべり、僕をちらちら見ては目が合うとはにかんだように笑った。とくに言葉を交わすこともなく、そもそも僕はそんなに話さないでイズミや弘子の話に頷いていただけだけど、あの人数でご飯を食べることが久しぶりだったので、少し緊張はしたけれど、楽しくなかったといえば嘘になる。

「緊張した?」

「うーん、ま、ちょっとなあ」

 はは、とイズミが笑う。

「あ、そうだ」

 イズミが離れて、何かをかばんから取り出した。少し形が崩れているけれど、その小さな黒い紙袋に書かれているのは有名なブランドの名前で、取っ手のところにはピンク色のリボンがついていた。ミニテーブルの上にそれを置く。

「これな、」

「お兄ちゃん」

 部屋の外から不意に声をかけられた。アパートで二人でいるときに、こうしていることは至極当たり前のことなのに第三者の存在を知ると急激に恥ずかしくなる。お互いにさっと離れて苦笑した。ドアは真ん中に細いすりガラスがはめこまれていて、うっすらと向こう側が見える。今の大丈夫だったかな、と思いながらドアをあけた。弘子がもじもじして立っている。

「ごめん、今いい?」

 ドアを後ろ手に閉めながらうん?と聞きかえすと、彼女はうつむきがちに小さなプレゼント用の包みを差し出した。

「あの、これ本当は、お兄ちゃんが出て行く前に渡そうと思ってたんだけど結局、二年越しになっちゃって……」

 パステルグリーンの袋が、赤いリボンで口を閉じられている。ロゴが懐かしかった。この家にいたときに、よく服を買っていた駅ビルの中の店のものだ。二年前、彼女は中学三年生で、彼氏がいたのかどうかはわからないけれど男性服のところに女の子一人で乗り込むのは勇気のいることだったろう。相変わらず弘子はもじもじしており、顔を上げようとはしない。僕はありがとう、とつぶやいてリボンを解く。中からはこげ茶色のしっかりした箱が入っていて、それを開くとトリコロールカラーのチェック柄のパスケースが入ってた。当時、あるドラマで人気俳優がこれに似たパスケースを使っていてすごくはやっていたのを思い出した。懐かしい思いと同時に、彼女が愛おしくなる。僕があけたのを確認したのか、彼女は顔をあげて頬を赤くして僕を見た。

「誕生日、おめでとう。二年前だからちょっとダサいけど……」

 弘子の目は澄んでいて、そこに僕が映っている。彼女の目に見る間に涙がたまり、ああ、弘子は僕の妹なのだと思うと急激に愛おしくなって抱きしめた。妹と、こうして向き合ったのはいつぶりだろう。もう思い出せないほど、遠い昔みたいな気がする。

「ありがとう」

 こくりと彼女は僕の腕の中で頷いた。弘子が生まれた十数年前、小さくて柔らかな赤ん坊の指が、自分の持てる限りの力で差し出した僕の指をつかんだあのとき、僕は、今と同じ気持だったはずだ。今更思い出した。

「それとね」

 弘子は僕の腕の中でもがき、離してやるとえへへ、と照れくさそうに笑ってもう一つ何かを差し出した。あ、と小さく声が漏れる。さっきイズミが出していた袋と同じものだった。

「これは、今年の分」

「ありがとう、そんな、いいのに」

「何をあげていいのか、わかんなかったんだけど」

「高かったろ」

 ピンク色のリボンを解く。中から出てきたのは、オレンジ、ピンク、ベージュの小さなグロスだった。透明のプラスチックボックスに入っていて、綺麗に赤いリボンが巻かれている。ショッピングセンターにはきっと入っていないだろうから、駅の近くの百貨店にでもいったのだろう。化粧っ気のない彼女は、どんな顔であの化粧品売り場を歩いたのだろう。女の世界を、彼女は歩けたのだろうか。

「……全然詳しくないし、わかんなかったんだけど、名前聞いたことがあるのがこれしかなくってね。お姉さんに聞いたらこれが一番新色だっていうから……」

 困ったようにいう弘子は、またえへへ、と笑った。少し上から見る彼女の顔は、母にそっくりだった。もう一度抱きしめる。じっと黙ったまま、僕らはたぶん、家族の温度を感じていた。

 部屋に戻るとイズミはもう蒲団を二組ちゃんと敷いていて、寝転がったまま僕を見た。逆さまになっているイズミの顔は上手く顔としてみることはできなかったけど、理由はそれだけではなくて僕の目がまだ涙で潤んでいたからだ。イズミは逆さまのまま穏やかに微笑んだ。

「泣き虫」

「オカマだもの」

「あほか」

 イズミがおいでおいでをするので、僕は素直に従って彼の横に腰を下ろした。ゆっくり起き上がったイズミは、優しく優しく僕の頭を撫でてよかったな、と小さく呟いた。落ち着いたはずの涙がまたあふれてくる。この世に、劇的なことなどひとつもない。些細な幸せと不幸せと、それを感じる僕たちしかない。なのに、どうしてこの胸はこの心は、あふれるほどの感情を生み出すのだろう。押さえることができないのだろう。少し前まで押しつぶされそうだったのに、今はもうこんなにも家族のことが愛おしく思えてしまう。ゲンキンな話だ。

「ねえ、イズミ」

「うん?」

「明日、時間くれる?」

「ああ、別にいいよ。明日も一日ヒマだしな」

「ちょっと待ってて」

 ひとしきり泣いて落ち着いてから立ち上がって、弘子の部屋に向った。おそらく枕元にあるのだろうスタンドライトの明かりだけが、すりガラスを通ってぼんやりと外に漏れている。温もりそのものを表わしているような、そんな色だ。ノックをすると、眠そうな声ではあい、と返事が聞こえた。

「まだ寝ないの?」

「ううん、もう寝るよ」

 ベッドの背もたれにもたれかかった弘子は眠そうにしている。ふあ、とあくびをしたのでこっちにまであくびが映った。温もりのこもる明かりに照らされた彼女の顔は、年よりもずいぶん幼く見えた。

「明日、弘子なんかある?」

「とくにないけど」

「そしたらさ、明日一緒に買い物にいかない?兄ちゃん、クリスマスも誕生日もプレゼント準備できなかったから、明日ほしいものなんでも買ってあげるからさ」

「本当?」

 少し身を乗り出した弘子はこの暗闇でもよくわかるほど、はっきりと笑顔を浮かべた。

「何したい?車は母さんの借りたらいいから、どこでもいけるけど」

「……私、あの、」

 何?と目で尋ねる。弘子は恥ずかしげに、それでもはっきりといった。

「化粧品、一緒に選んでほしい。いい?」

「化粧品、か……」

 正直なところ、僕のもっている化粧品はイズミに買ってきてもらっていたりプレゼントしてもらったものばかりだ。その全てにおいてセンスはよく、しかもシーズンの新しいものばかりを買ってきてくれる。お金を払おうとするとプレゼントだからと受け取らないときもある。そもそも、あの化粧品売り場を歩ける気が、情けない話、しないのだった。人の多いところを考えると、仕事でもないかぎり少し怖い。自分であまり買わないで、イズミに買ってきてもらっているということを素直にいうと、弘子はいっそう恥ずかしそうにした。

「イズミに選んでもらえばいいよ。あいつ、センスいいしそういうの見極めるの上手いから。弘子が嫌じゃなかったらだけど。緊張する?」

「まあ……しないといったらうそになるけど……」

 当たり前か。実の兄がゲイで、その恋人に化粧品を選んでもらえなんていわれているのだから。ドアの付近で立ったまましゃべっていたが、なんだか疲れたのでそのまま部屋に入って弘子のベッドの足元に座った。やわらかい羽毛布団が大きくへこむ。くすぐったい、と弘子がつぶやく。

「僕も、最初はイズミと話すの緊張したなあ」

「そうなの?」

 そんなもんだよ、という笑うと弘子は何度もそっか、と頷くように呟くようにしていた。そうしてはっと顔をあげて、その顔はもう恥ずかしさもぎこちなさもなく、どことなく腹をくくったようにも見えた。

「じゃあ、明日は三人で、行こう」

「わかった。イズミにも言っておくから。昼過ぎでいいね」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

 ドアを閉め、冷えた廊下を飛ぶように歩いて部屋に飛び込む。ふと弘子の部屋の方を振り向くとスタンドの明かりは消えており、真っ暗になっていた。ふう、とため息がでる。

「イズミ、」

 顔を室内にむけると、イズミの寝顔がすぐに目に入った。蒲団を着ないで、大の字になって寝ている。いつ見ても心地のよい寝顔をしている。こっちが嬉しくなるほどに。電気を豆電球だけにして、そろそろと歩き蒲団に入った。何かを遠慮したのか、僕とイズミの蒲団はミニテーブルを挟んでしいてある。そこがまた、イズミらしくてふっと笑えた。寝転がったが、いつもベッドでねているからか敷布団は少し落ち着かない。するするとすべる客用の蒲団もあまり温かくなかった。何度寝返りをうっても眠れず、だんだん不安になってくる。

「ハル」

 ぼそっと声が聞こえる。背を向けていた方からだ。もう一度寝返りを打つと、ミニテーブルの足の間から、イズミがうっすらと目をあけてこちらを見ている。さっきと同じようにゆっくりとおいでおいでをした。実家ということも忘れてすぐに彼の蒲団の中にもぐりこむ。温かくて、安心する。するりとイズミの脇の間に手を滑り込ませた。生身の体の温度はなぜこんなにもやさしいのだろう。蒲団から出ている顔が少し寒い。それでも、この寒さがなければこの温かさを知ることはできない。すべてがいとしく感じる。また、泣きそうになる。

「また、泣きそうだろ」

 少しかすれた声で、イズミが目を瞑ったままそうつぶやいた。

「うるさい」

「ハル」

「もう、寝る、おやすみ」

 多少ぶっきらぼうに言ったものの、イズミは穏やかな声で僕を呼ぶ。

「ハル」

 イズミの手が僕の背中に回る。ぎゅうと抱きしめられる。体が熱くなる。

「好きだよ」

 イズミの胸に顔をうずめる。母さんがわざわざ買ってきていた新しいスウェットからは、新品の服の匂いと、その奥からかすかにイズミがいつもつけているボディミストの香りがした。


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