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ハル  作者: こんにゃく
3/13

 私の向かい側にお母さん、その隣にお父さん、お父さんの向かい側、つまり私の右隣にお兄ちゃんが座っている。しんと静まり返った午後八時、時計の針の音さえせず、ただ静かに時が流れていた。十二月三日、お兄ちゃんの誕生日の日前だった。


 小さな頃、一度だけどうしても遊んでほしくてお兄ちゃんが帰ってきてからノックもせずに、ドアから覗いていたことがある。年の離れたお兄ちゃんに、声のかけかたもよくわからなかったから。勉強机に姿勢正しく座っているお兄ちゃんは引き出しから鏡や少し大きめのポーチを取り出した。私はそれによく似たものをどこかで見たことがあって落ち着かなくなりながらもただお兄ちゃんが何をするのかを見守っていた。お兄ちゃんはポーチを開け、中から色々取り出して、そして毎朝お母さんがするように、化粧をしだしたのだった。遠目から見るその仕種はひどくお母さんにそっくりだった。ポーチをどこかで見たように思ったのは、お母さんが持っていたものと形が似ていたからだと後から気付いた。小さいながらに化粧をするお兄ちゃんは綺麗だと思ったけれど、同時にすごくいけないことをしたんじゃないかと思い、そっとドアを閉めてお母さんがいる一階の居間に駆け降りた。繕いものをしていたお母さんは駆け降りてきた私に驚いたようだったけれど、特に何も言わないで静かに繕いものを続けていた。お兄ちゃんがいつからそういうことをしていたのかわからないし、それが悪いこととか良いことなのかを聞いたりもしなかった。お兄ちゃんはたしかに中性的な顔をしていて、ひいき目でなくても綺麗だと思う。だから化粧をしても違和感はない。けど、たぶん、いわゆる「普通」じゃないってことを、その時からずっと心では感じていた。


 お兄ちゃんは高校を卒業し調理の専門学校も卒業し、家から電車で三十分ほどの場所にあるフランス料理のお店で働き始めた。家の中ではほとんど会わないし、見かけるっていう言葉がぴったりだった。

 中学に上がって、部活を始めたり塾に行きはじめたら、より一層お兄ちゃんと顔を合わせる機会がなくなった。お父さんが少し遅くに仕事から帰ってきて、お母さんがご飯の準備をして、私は居間でテレビを見ながら宿題をしていたりするその場に、お兄ちゃんはいつもいなかった。どんな仕事をしているのかも話していないからわからないし、お母さんから聞いた話だとフランス料理以外にも週に一回、バーでも働いているらしかった。朝早くに出ていって、夜遅くに帰ってくる。たまに寝ようと布団に入るころ、鍵が開いてガチャンと玄関のドアが響く。お兄ちゃんかなと思いながら眠りに落ちてしまうから、結局顔は見ないままだ。

「弘子?」

 私が中学三年になり、進路希望調査表と睨めっこをしていて中々眠れなくなってしまった寒い夜、部屋の外から声をかけられた。お兄ちゃん。反射的に立ち上がってすぐにドアを開けた。

 久しぶりに向き合ったお兄ちゃんは髪の毛がショート・ボブぐらいの長さで、まるで女の子のようにゆるいパーマがかかっていた。陶器みたいな肌は明るい電灯の光をあびても、なめらかさを保ったままでいる。まつげも長い。なんとなく化粧をしているんじゃないかとじっと見つめていると、お兄ちゃんは怪訝そうな顔をした。

「お兄ちゃん、久しぶりだね」

「いつもいるかいないかわかんないもんな。入っていい?」

 頷くと、お兄ちゃんは静かに入ってきてベッドに座った。私は勉強机の前の回転イスに座ってお兄ちゃんの方にくるりと体を向ける。

「なんでこんな遅くまで起きてたの?」

「これ」

 進路希望調査表を見せる。あー、とお兄ちゃんは納得したようだった。もう随分昔のことみたいに、目を細めて紙を見ながら懐かしいな、とお兄ちゃんはつぶやいた。

「弘子はどこに行きたいの?」

「私は……」

 よくわからなかった。幸いなことに、勉強は好きだったからある程度高いレベルの高校に入れるといわれていた。お父さんもそれを望んでいるみたいだった。でも、お父さんや先生の望むような道に行くのも自分で選べていないような気がしていたし、だからといって友達がいるからと、やりたいと思えることもない高校に行くのがいいのか、それも違う気はしていた。お父さんやお母さんの望むようにと思う気持ちと、自分の曖昧さが嫌で思わず涙がこぼれた。お兄ちゃんは、泣き出した私をきょとんと見つめていたけれど、そっと立ち上がり、私の頭を撫でた。細くて長くて、器用さを感じさせる指だ。私は不器用だからお兄ちゃんがうらやましい。料理もろくにした試しがないしそれに――化粧も。しばらく黙ったまま頭を撫でていたお兄ちゃんは静かに口を開いた。

「弘子はさ、兄ちゃんと違って頭いいんだからどこいったって大丈夫だよ。それに誰かのために決めるんじゃなくてさ、弘子のために行くんだからさ。どんな決定したって、兄ちゃんは弘子の味方だよ」

 全然話したこともないのに、顔も久しぶりに見たのに、お兄ちゃんはお兄ちゃんだった。お兄ちゃんの手は温かくて優しかった。

 それからお兄ちゃんと会う機会はまたなくなって、気付けば十二月。私はまだ行きたい高校に悩んではいたけれど、なんとなく自分の意志は固まってはいた。

 お兄ちゃんにまた会ったのは細々ためたお小遣いやお年玉でお兄ちゃんに誕生日プレゼントを買おうと思って、あれこれ考えながら、出かけようとしたときだった。玄関でブーツをはいていると、お兄ちゃんがたまたま帰ってきた。息を切らしていて、箸って帰ってきたからか頬が赤くなっていた。入ってきてすぐ目が合って、お兄ちゃんは微かにほっとしたようだった。

「おかえり」

「ただいま。父さんと母さんいる?」

「母さんはいるけど、父さんは休日出勤」

「そっか。弘子、夜は空いてるよな?」

「うん、塾は今日お休みだからみんな揃うと思うよ」

「そっか」

 お兄ちゃんはそのまま階段を上がって部屋に行ってしまった。私は久しぶりにお兄ちゃんに誕生日プレゼントを買うから好みぐらい聞けばよかったと思いながら家を出た。まだ十二月になったばかりなのに空気は冷たくて、でもこれからプレゼントを買うと思えば胸が踊った。

 その夜、久しぶりに家族四人がテーブルについてご飯を食べた。お父さんは相変わらず寡黙だったけれど不機嫌なようには見えなかったし、お母さんが得意なロールキャベツはやっぱりおいしかった。私の隣に座るお兄ちゃんも口数はそんなに多くはないけれど、仕事の話なんかをしてくれてとても楽しかった。

 ご飯を食べ終って一息ついたときに、お兄ちゃんがゆっくりと座りなおしたのがわかった。ぴんと背筋を伸ばして、目線はお父さんを捕らえている。お父さんもふと顔をあげて、二人の視線がかちあった。なんとなくドキドキして、ごくりとつばを飲んでしまう。一気に空気がかわった。ランチョンマットの上には、お母さんがいれてくれたあたたかなほうじ茶の入った湯のみ。湯気がふわふわ、立ち上っている。

「話が、あるんだけど」

 お兄ちゃんが口を開いた。お父さんは黙っている。母さんもこっちきてくれる、とお兄ちゃんが言うと夕食の片付けをするためにキッチンに立っていたお母さんも、戻ってきてお父さんの隣に座った。私はお兄ちゃんの横顔を見つめる。やっぱり、綺麗、というよりも、美人になった気がする。

「僕、一人暮らしをしようと思ってる。もう、部屋は決めてるんだ」

「そんな急に」

 お母さんは驚いたようにそう呟いたけれど、お兄ちゃんは冷静に続ける。

「職場も変わるんだ。オープンは二月なんだけど、いろいろあるし、ここから通うのはちょっと大変だから。言うのが遅くなって、ごめん。でも父さんや母さんには、お金のこととかで心配はかけるつもりはないし」

「家を出るのか」

 お父さんの声も冷静で、でもここからじゃ眼鏡が反射してどんな表情をしているのかわからない。私の胸は、ドキドキしつづけている。お兄ちゃんは、たぶん、もっと重要なことを言おうとしている気がする。

「兄ちゃんは弘子の味方だからな」

 あの言葉を反芻する。私も何があってもお兄ちゃんの味方でありたい。もう一度、横顔を見つめる。あの日、私が初めて見た、化粧をしていたお兄ちゃんの横顔だ。そして今日も、うすく化粧しているのだということにそのときになってやっと気づいた。

「うん、それともう一つ聞いて欲しいことがあって、付き合っている人もいてそれで、」

「あら、じゃあつれてこればいいじゃないの、別に――」

「……男だから」

 また口を開いたお母さんは言いかけて絶句した。私も、その言葉の意味をちゃんと理解できなかった。お父さんも無表情のまま固まっている。飲もうと湯飲みをとったのに、中途半端に手をうかして、固まっている。

「……僕、ゲイなんだ。男の人しか、好きに、なれ、ない」

 お兄ちゃんは搾り出すようにそう言って、うつむいて、鼻をすすった。そうして、なんとかきき取れるような声で「ごめんなさい」とつぶやいた。私は、ただお兄ちゃんとうつむいて、そうしてだからお兄ちゃんは綺麗だったのかもしれない、と、ぼんやり思っていた。

「……どういうことだ」

 ずっと黙っていたお父さんが、声を震わせながら言う。震えているのはたぶん、泣きそうだからなのではなくてもう少しで怒鳴り散らす寸前の、声だった。私がわかっているのだからお兄ちゃんがわからないはずがない。私は怖くて悲しくてそれと、よくわからないけれど悔しくて、顔を上げられないでいる。お母さんもだまったまま。ストーブがたまにぱちん、と音を出していた。ご飯のときにテレビをつけてはいけないといわれていたから、ダイニングはしんと静まり返っていて、ああ、どうせなら怒られてもいいから今日ばっかりはテレビをつけていたらよかった、と、変に後悔している。隣で座っているお兄ちゃんは膝の上で握りこぶしを作っていて、それは真っ白になっていた。顔は見られないので、拳をじっと握る。私は、お兄ちゃんの味方だから、と、伝えたいけれど何もいえない。

「……父さんにも、母さんにも、申し訳ないと思う、けど、僕は、男の人が好きなんだ……ごめんなさい。だから、この先、結婚もできないし、子どもできないし」

「……もう」

 お兄ちゃんの言葉を遮って、お父さんの声が少し大きくなった。私はそっと顔をあげる。お母さんもお父さんを見ていた。お兄ちゃんだけは下を向いている。お父さんの表情は、相変わらず眼鏡のせいでよくわからないままだ。

「もう、何も言うな。帰ってこなくていい」

「でも、僕は、父さんや母さんにわかってほしくて、それで」

「何も言うな」

 沈黙。たぶんもう、誰も壊すことなんかできないほどの。私はそっとお兄ちゃんは見た。そのきれいな瞳から、一粒だけ涙が落ちて、そうして立ち上がってお兄ちゃんは二階へと行ってしまった。その時、私は、お兄ちゃんがごめんなさいって、小さく呟いたのを聞いた。お兄ちゃんが走って階段を上って、部屋に入っていく音はまでしっかり聞こえる。私もお母さんもただぼんやり湯のみを見ていて、お父さんはもう口を開く気もなくお茶を飲んでからリビングに行ってソファに座った。誰も何も言わない。テレビもつけないし、動かない。息を吐き出すのも苦しかった。

 お兄ちゃん。私は、お兄ちゃんの味方、だけれど。

 化粧をしていたお兄ちゃんも、今日のお兄ちゃんもとても美人だった。のに。

 どうして男の人を好きになるの。どうして女の人を好きにならないといけないの。誰も悪いことなんかしていないのに。


「お兄ちゃんが、帰ってくるよ」

 学校から帰って来て真っ先にハルを抱き上げる私に向って、お母さんは背中を向けてアイロンをかけながら言った。聞き間違いかと思って頭の中で何度か繰り返し、え、と、時間差で聞き返した。

「お兄ちゃんが?なんで?どうして?父さんが言ったの?」

 あの日、お兄ちゃんが自分は男しか好きになれないといったあの日、父さんはもう帰ってくるなと言って、一週間ぐらい後にお兄ちゃんの部屋はすっからかんになった。置いていったものもあったけれど、捨てていいから、と前の日に私にこっそりつぶやいた。それから二年、お兄ちゃんは帰って来ていない。連絡もない。なのに。

「そう、お父さんがね。呼んだらいいって。今月末に帰ってくるの。そうしたら……今付き合っている人も連れてくるって」

「付き合ってる人って、男、の人かな」

「たぶんね。御馳走つくらなきゃねえ」

 お母さんは立ち上がり、もう少ししたら夕飯の準備手伝ってね、あと制服でハルをだっこしないできがえてらっしゃい、と少し早口で言った。なんでお父さんが突然、と思ったけれどお母さんは尋ねる隙をくれなかった。ぽかん、と立ったままでいる私の腕の中で、ハルは潤んだ瞳でこっちを見つめてくる。二ヶ月前に、友人からもらった柴犬の仔犬はうちに来た当初はいつも震えていて元気もなくて、えさをあげてもおびえてばかりで、中々なつかなかった。それはまるでお兄ちゃんのようで、私がハルと名前をつけた。お父さんも母さんも反対はしなかったし、抵抗もなかったみたいだ。最初、犬を飼いたいといったときにはお父さんに反対されるかと思ったけれど、案外すんなりとうけいれてくれて、もしかしたらお父さんもお兄ちゃんが出て行ってしまって淋しかったのかもしれなかった。基本的に無口で怖くて、でも本当は優しくて、私はお父さんが好きだったけれど、お兄ちゃんのことがあってから私たち家族は三人になってどこかかけたようになった気がしていた。みんな誰も、お兄ちゃんが出て行ってからお兄ちゃんのことを話題にも出さなかった。でもそれはタブーというよりも、口に出すと淋しくなってしまいそうだったから。お母さんは掃除機をかけるときはちゃんとお兄ちゃんの部屋もかけるし、部屋の中も出て行ってしまったときそのままになっている。といってお兄ちゃんの荷物は少なかったのですっからかんだけれど。

 私はハルをケージに戻し、二階に上がって自分の部屋で着替える前にお兄ちゃんの部屋をのぞいた。シルバーラックとミニテーブルと空っぽの本棚が忘れられたみたいにそのままになっている。匂いも、新築の部屋みたいな、清潔すぎる匂いがした。

 今度は、お兄ちゃんの味方でいられるだろうか。

 ふと思い出して、部屋にもどってクロゼットをあける。奥の方にしまってあった、二年間ずっと触らないでいたプレゼント用に包装されたそれを見つめる。

 お兄ちゃんが、帰ってくる。


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