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ハル  作者: こんにゃく
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 玄関のドアの前に立ち、チャイムを鳴らすか鳴らさないか迷う。イズミはとなりで僕の葛藤を見つめているみたいだった。鳴らさずに、ドアノブに手をかける。冷えたドアノブは懐かしく、今までの辛さを打ち消すほど簡単にドアは開く。防犯対策なのか、引っ越してきた当初から開いたり閉じたりするたびにドアが大きな音を立てる。それは今も変わらない。むしろ、何か変わったことがあるのかと思われるほど懐かしい空間だった。一歩踏み入れ、イズミの顔を見る。彼は穏やかに頷いた。もう一歩踏み出す。中は、冬の寒さとは対照的に湿った温かさが充満していた。猛烈に胸が苦しくなる。どんな日も、夕暮れに家につけばこの匂いで充たされていた。水仕事を終えた母の匂い。かすかな、野菜を煮込むための出汁の匂い。家に帰りたくないと思いながらドアをあけた日も、早く帰りたいと急いてドアノブをつかんだ日もかわらぬ毎日の証の、匂い。一人暮らしでは絶対にこんな匂いが部屋から立ちのぼることはない。家族の、匂いだ。

 玄関が開く音に反応したのか、廊下の奥のドアが開いて、ぱたぱたと誰かが駆けてくる音がする。僕はそれが誰かを知っている。その誰かも、僕が入ってきたことを知っている。そうして現れたのは、まぎれもない母だった。二年ぶりの母。変わらない。けれど、少し小さくなった。ような気がする。ピンク色で、ポケットが猫の形のアップリケになっているエプロンで手を拭きながら、母は出てきた。おもわず息を呑んだ。彼女も何も言わない。ふと、イズミが一歩前に出たのがわかった。

「こんばんは、はじめまして、春也くんとお付き合いさせていただいてます。石本泉です。今日はご招待ありがとうございました」

「ああ、はじめまして、春也の母です」

 母――母さんがこっちを見た。僕を見ている。薄いといっても化粧だってしてる。きっと母さんはそれも分かっているはずだ。けれど、彼女はそれを温かな目で見ていた。懐かしい、母の目だった。

「おかえり」

「……ただいま」

 素直に言葉が出たことに驚いて、思わず泣きそうになって鼻をすすった。廊下をぬけるとすぐにリビングで、そこに入って変らないと思っていたのに変った部分を真っ先に見つけた。白い小さなケージがあって、中に柴犬の仔犬が入っていた。中で元気よく走り回っている。入ってきた僕らに気づいたらしく、ケージに前足をかけてしっぽをちぎれんばかりに振っている。まさか犬を飼うなんて、父さんがよく許したものだと思いながらイズミと二人でのぞきこむ。イズミが頭をなでてやると、犬は気持ちよさげに目をほそめた。その様子を母さんは少し離れたところで見ていたけれど、横にやってきて、

「ハル、よかったねえ、久しぶりのお客さんだよ」

 といって、犬を抱きかかえた。イズミはふきだし、僕は恥ずかしくてため息をつく。

「ハルって名前つけたのは弘子ひろこよ。顔が似てるっていうもんだから」

「ああ、確かに似てるな」

 イズミは母さんに抱きかかえられたハルをじっと見て、僕の方を見る。顔をそらすと彼は笑った。

 ダイニングのテーブルにはいっぱいのオードブルが並べられていた。から揚げ、春巻き、ロールキャベツ、酢豚、チンジャオロース、ポテトサラダ。とにかく思いつく限りの豪華な品をつくりました、という感じで母さんの健気さを感じる。イズミは席につきながら例のシャンパンを母さんに渡し、社交辞令か本気なのか料理について逐一尋ねては、母さんと会話をしていた。母さんは嬉しそうに話をしている。僕はその横で、目の前に並ぶ料理を見つめながら彼らの会話を聞くでもなしに聞いていた。イズミがロールキャベツを指差して、カウンターキッチンの向こう側に立つ母さんに尋ねる。

「これ、トマトソースじゃないんですね?」

「うちはね、昔から和風なの。私がトマトソースみたいなハイカラなもの知らなかったしね、けっこうおいしいのよ、お出汁で食べるロールキャベツも」

「はい、うまそうです。ハルくんの料理上手も、お母さんに似たのかもしれないですね。うちの母は――」

 イズミは自分の母がいかに料理が下手かを語り、母さんは面白そうに笑っている。よかったと安堵するとともに、やはりここにいていいのか、いるべきなのか、わからなくなってくる。僕に、ここで一緒に談笑する資格なんかあるんだろうか、と。一通り話し終えたのか、イズミはまだ料理を見つめながらもひとまずといった感じでイスに座りなおした。

「うまそうだな、全部」

「イズミは社交辞令が上手い」

「俺はいつでも本当のことしか言わないよ」

 ギイ、ガチャン、と玄関の方でドアの音がした。誰かが帰ってきた。母がキッチンを離れて出て行く。ふんわり味噌の香りが漂っていることを考えると、味噌汁を作ったのだろう。これだけ豪華なものを用意しておいて、味噌汁なのは母さんらしいような気がして、本当に家に帰ってきたんだと実感した。

 じっと玄関から聞こえる物音に耳を澄ませる。ひときわ高い声が聞こえ、母がかすかに笑い、間髪いれずに廊下を軽やかに誰かが走ってくる。リビングと廊下を繋ぐドアがばん、と勢いよく開いて、それのせいでハルが驚いたらしくケージをがりがりこする音が響いた。ドアを開けた張本人――弘子ははあ、と息を大きくはいてダイニングの方―こちらを見やった。目が合う。最後に会った弘子は中学三年だったはずだけど、今はもう高校二年生だ。髪の毛は長くなっていて、あの頃よりも大人びたように思える。地元ではそこそこ有名な進学校の制服を着ていた。寒かったのだろう、頬を上気させている。

「あっの、あ、お兄ちゃん、お、おかえり、あの、弘子です、江野弘子、です」

 僕を見ておかえりと言い、イズミを見て自己紹介をした。それが精一杯だったのだろう、彼女は泣きそうな顔をしてこっちを見たまま固まっている。イズミは微笑みながら立ち上がり、口を開こうとした瞬間だった。弘子が振り返って、父さん、お兄ちゃんが帰ってきたよ、とつぶやいた。僕も思わず立ち上がる。

 そうして、父が弘子の後ろから顔を出した。眼鏡が若干曇っている。二年前、僕に出て行けといった父は度の強い眼鏡をかけていて、三十年近くつとめた会社ではそれなりの地位についていて、いつもきっちり髪の毛をセットしていてゆるぎなく、この家では絶対で全てで、それでもやはり、僕の、父さんだ。彼は僕を見、イズミを見、なぜか弘子を見た。ハルがケージをこするのをやめる。イズミがとなりで息を吸うのがわかった。

「……はじめまして、お邪魔しています。春也くんとお付き合いさせていただいてます。石本泉です。今日はお招きいただき、ありがとうございます」

「……父さん。」

 僕もイズミも、確かに緊張していた。その緊張は間違いなく弘子にも伝わっていて、彼女も恐る恐るといった感じで、父さんの顔をうかがっている。母さんも、玄関からそのまま台所に繋がるドアから戻ってきて、僕らの様子を見守っていた。父さんが一歩、こちらに近づいた。

「春也、おかえり。イズミくんいらっしゃい。ゆっくりしていきなさい」

 父さんは、僕が見た中で一番おだやかに笑った。髪の毛に、白いものが混じっている。

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