12
「これ、石本くん。私の大学の後輩なんだけどね。たまたま仕事先で会ってね。ハルくんと同い年なの。よかったら相手してやってね」
毛利さんにそう紹介されて、イズミは今と変わらない笑顔を僕に向けた。少し暗いバーの照明の下でも彼の生来の明るさはすぐにわかったし、同時に僕とは違う種類の人間なんだろうということはすぐに察した。
「えーと?名前なんていうんですか」
頬杖をつき、少し上目遣いで僕を見てくる。客商売とはいえ、最初からここまで親しく話しかけられたのは初めてだ。毛利さんはイズミの頭をぱしん、と軽くたたくとイズミはわざとらしく痛いじゃない、と顔をゆがめた。
「ハルくんはみんなのアイドルなんだから、あんたみたいな小物が軽々話しかけちゃいけないの」
「そっか、じゃあじわじわせめていかないといけないわけだ。攻略難しそうだもんな、ハルくん」
そう言ってイズミは笑った。いえ、と小さく謙遜する。できるだけ愛想よくしているつもりではあったけれど、自分の眉間に自然としわがよってくのが分かった。この暗さでバレなければいいけれど、と、不安に思いながら手元を見つめた。ゆるやかなジャズに乗って、テーブル席の談笑がかすかに聞こえた。
それから、イズミは月に二回ぐらい店にやってくるようになった。僕も週に一回入っていて会うことは頻繁ではなかったけれど、僕がいると彼はカウンターに座り、飽きることもなく反応の薄い僕にいろんなことを話しかけてきた。聞いている分には苦ではないので適当に相槌を打ちながら、だんだんと打ち解けていったように思う。もうずいぶん前のことのようで何を話していたのかもよく覚えていないのだけれど。毛利さんが来ればマスターも含めて四人で、早く閉めた後にお酒を飲んだりもした。そういう時間は、僕にとって些細な幸せだったりもした。
その当時付き合っていた彼氏はインターネットのゲイのコミュニティがきっかけで出会った年上の人だった。彼は忙しい人で中々会えず会えたとしてもすぐにセックスをしたがるし、僕も週六日はレストランで働きその足でバーに向うことも会って随分疲れていたし、逃げ場がないような気がしていた。もちろん彼は彼で優しかったけれど、どこかズレを感じていて、僕がゲイであることを家族に言うかどうかで悩んでいたときも、彼は悩んでもしようがないよ、とだけ言って僕を抱いた。彼は親には自分の性癖はいっていなかったし、家族とは就職をしてからほとんど連絡を取っていないからどうでもいいんだと思うんだよね、と軽い調子で言うのだった。そうかもね、と、僕はそっけなく返事をする。その日はセックスする気にはなれないで、断って彼の家を出た。
「ハルくんさ、兄弟とかいるの」
イズミが初めて来てから半年ぐらい経っていて、僕も大分打ち解けてきたころだったと思う。イズミが僕にそう尋ねてきた。お客はイズミしかいなくて、マスターも他のバイトも上がってしまっていたので、店内には僕とイズミ二人きりだった。あと三十分で店も閉めるし、と、カクテルグラスを磨いて棚に戻しながら答える。
「妹が、一人。イズミくんは……お姉さんとかいそうだね」
「何でわかるの?すごいね。俺よく言われるんだけどさ、姉ちゃん二人いんだよね」
「ああ、それっぽい。実家暮らしだっけ?」
「そうそう。やっぱ楽だよね、実家。ハルくんも?」
「……うん、僕も実家だよ」
「そっか。ハルくんの家はすごい……良い感じなんだろうな」
「何、それ」
思わず笑って振り向くと、イズミは心地よさげな顔をして頬杖をついていた。飲んでいる様子を見ると弱いようには見えなかったし、とくに今日はグラスワインを二杯だけしか飲んでいないはずだから、酔っているわけでもない。けれど、彼はとろんとして僕を見ていた。体調が悪いのかと思ってグラスに水を注いで渡すと、何が面白いのか彼は口をあけて笑った。
「酔ってないよ」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの。酔ってるみたいだよ、イズミくん。もう帰ったら?タクシーよぼうか?」
「はは、は、馬鹿だな、ハルくん、馬鹿……ハルくん、今日一緒に帰ろうよ。駅まででもいいし。ていうかハルくんってここ、何で通ってるの?」
「自転車だよ」
「ママチャリ?」
「違うよ」
一通り笑って、僕は閉めの準備をしてその日初めて、イズミと一緒に帰った。何を話したのか、やっぱりおぼろげでしかないけれど、秋口の深夜、街灯といくつかの店の看板の明かりでぼんやり浮かび上がる街は綺麗で、ひさしぶりに腹の底から笑ったりした気がした。肌寒いけれど、二人で話していると気にならなかった。
晩秋になり、僕が勤めていたフランス料理店がもう少しロープライスでカフェ兼ダイナーをオープンすることが決まり、僕はそこのキッチンサブチーフとして異動することになった。新しい職場へと通うのは少し大変そうだったし、ちょうど良いから一人暮らしをしようと思っていくつかの物件をまわった。本当は彼氏と一緒に見に行きたかったけれど、彼にメールをしても帰ってこなかったので一人でまわった。その頃にはぼんやり、彼とはもう別れたほうがいいのかもしれない、と考えてもいた。すれ違ってばかりだし、どうしようもないズレがあった。言い出すなら引っ越すタイミングだろうか、と思いつつ同時に、もう通えなくなるのだからバーのバイトもやめなくてはならないと思っていた。
「ハルくんは、将来どうするの」
その日は毛利さんとイズミが来ていて、そう尋ねたのは毛利さんの方だった。将来?と聞き返すとそうそう、と彼女は頷く。三十路手前だという彼女はそんな風には見えず、ツイードのセットアップを若々しく着こなしている。耳には大ぶりのリングのピアスをつけていた。髪の毛は最近切ったとかで、ショートボブにパーマがかかっている。
「今、付き合ってる子とか、いないの?ま、いないほうがおかしいかなあ、ねえ」
「いえ、そんな……」
毛利さんだけでなく、他の客からもそういう話題を振られることはあったけれど、のらりくらりと交わしていた。けれど、その時はもうずいぶんあっていない彼氏の顔が思い浮かんで、表情がこわばっていたのかもしれない。黙って飲んでいたイズミが不意に口を開いた。
「上手くいってないんじゃないの?」
「え」
「あは、ね、泉ってそういうの読むのって上手いんだよね、ということでハルくん、話しなさいよ、いっつも聞いてばっかなんだもん、ね」
いえ僕は、と苦笑してシュリンプカクテルを作り始めたのだが、毛利さんは中々引き下がってくれない。
「ねえ、いいじゃん。泉も聞きたいよね」
「は、ばか、聞きたくないよ。ハルくん嫌がってるじゃないですか、やめなよ毛利さん。酔ってるでしょ、今日疲れてたんでしょ」
「そんなことないよ」
毛利さんはぶつぶつ言う。僕は聞こえないふりをして、誰にむけるわけでもなくかすかな笑みを浮かべながら――そうでもしなければ顔がこわばってしまいそうで、そうしてオーダーをとったりして忙しく働いていた。
それからしばらくして僕は家を出た。勘当された、ともいえるかもしれない。すぐに彼氏とも別れた。なぜ言いたくなったのか、どうして言ってしまったのか、ただつらかったんだと、今は思う。彼氏とも上手くいかないで、将来のこともほぼ諦めなくてはいけなくて、そういうことを思うと息苦しくて、でも、せめて家族にはわかってほしくて。家を出る、というちょっとしたきっかけは、もちろん気まずくなったら顔を合わせずに済むからという気持がなかったわけではない。けれど、でも、もしかしたら、というかすかな期待だってあった。でも、やっぱり駄目だった。僕がゲイだから。いくら化粧をしてもいくら誰かを好きになっても、きっと、誰にも。いっそ女になってしまえばいいの。
僕は引っ越してきたまっさらな部屋で、いくつかの段ボールに囲まれて静かに泣いた。
一応、年明けまではバーのバイトも続けることになっていて、何人かの常連さんには辞めるということを伝えていた。
「うそ、本当に?」
辞めることを最後に伝えたのはイズミだった。来週、辞めるんだけどね、と伝えたのは初めて一緒に帰ったときと同じように、二人きりでの店内だった。明日と、来週の金曜の夜に入ったら、やめるよ。そう続けて言うと、イズミはそうなんだ、ちょっと淋しいね、と苦笑いをした。ねえ、ハルくんも飲みなよ、もう閉めるでしょ。俺が驕るから。彼はそうも言った。じゃあ、一杯だけ、とジントニックを二杯作って二人でかつん、と乾杯する。
そうして閉店の時間まで、二人で何を話すでもなくだらだらと話していたと思う。その日はイズミも店内の掃除を手伝ってくれて、何がおかしいわけでもないのに僕らはことあるごとにクスクス笑いながら掃除をした。家族にカムアウトしたことも、彼氏と別れたことも、そういう沈鬱なこと全てをその時だけは忘れることができていたんだってことを、イズミと一緒に店を出てから気づいた。胸のつかえは綺麗さっぱりとおりることはないけれど、気のせいじゃなくすっきりと軽くなっていた。
「ね、ハルくんさ」
駅まで行った方がタクシーがあるから、と言って歩き出すイズミに黙って付いていく。僕は新しいアパートからなんとか自転車で通える距離にバーはあったから、相変わらず自転車を引いて彼と歩いた。そして何より、あの殺風景の部屋に一人でいるのが少しつらかったのだ。それは、社宅からあの実家に引越ししてきた当初の気持と少し似ている。それに冬は寒くて、エアコンをつけるにはひどく乾燥するしよけいに淋しくなって嫌だった。それだったら、寒くても二人で身を縮ませて歩いているほうがよっぽどよかった。イズミは少し恥ずかしげにためらいながら、着ていたコートから携帯を取り出して僕に見せる。
「メアド、教えてよ……今度、今度はさ、友達って感じでのみにいきたいな。よかったら」
「あ……うん……」
携帯を取り出して、赤外線で交換した。『石本泉 登録しました』その文字を見てなぜかほっと安心する。
年末を迎ようとしている街は予想外にがらんとしていて、動いているのは僕とイズミと、視界の端で揺れる電線だけだった。夜の風は冷たかったが静かで、僕の中のごちゃごちゃした感情を一つ一つ整理してくれるようでもあった。ふと足を止めたイズミは、僕を見ている。僕もそっと足を止めた。二人の間を風が吹きすぎていく。
「あのさ、ハルくんって……こっちの人?」
「あ……」
「俺、も、っていうか、俺は女の人もいけるんだけど、男もいけたり、して」
あはは、と彼は笑って、星なんか見えないのにまぶしそうに空を見上げた。僕も釣られて上を見る。何も見えないのに、どうしてかすごく綺麗に見えた。
「ほら、職場変わるから実家でたっていってたじゃん。一人暮らし、って。そんで、なんか違えばいいんだけど、家族と上手くいってないのかなとかちょっと思って、心配でさ。あ、ほんと、杞憂ならいいんだよ……なんてーかさ、その……ちょっとハルくんいいなって思ってたりして、たりして」
相変わらずイズミは笑う。僕は空から視線をはずして自分の汚れたスニーカーを見つめた。どう答えたらいいだろう。どうしよう。あんなに、家族とのことで落ち込んで彼氏とも別れて、自分がゲイだっていうことについてあんなに嫌気がさしたっていうのに、もう、こんなにも、誰かを好きでいたいと思ってしまう。
「ありがとう」
「ハルくん、泣きそうだね」
イズミの、少し乾燥した指が伸びてきて僕の頬に触れる。彼氏に触れられたときに感じなかった温かみを、感じていた。