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ハル  作者: こんにゃく
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 深夜にふと目が覚めて、隣を見ると春也が寝息を立てていた。おだやかな寝顔は、日中の気難しそうな顔とは打って変わって無邪気だ。遮光カーテンが開いていて、レースのカーテンだけが閉まっている部屋は案外明るい。向かい側にあるアパートの階段についている街灯がこちらの部屋を照らしているからだが、うっすら青い明かりは部屋を寒々とさせる。事実、レースカーテンだけでは遮れない冷気が室内を深々と冷やしていた。二月も中旬をすぎて、昼間には春のような日差しが差し込むことはあっても、相変わらず空気はつめたかったりもする。

 そっとベッドから起き上がり、ミニテーブルにあった携帯で時間を確認しながら窓に寄る。フローリングに裸足が触れるたび、ひたひたと音がする。春也がおきなければいいのだけど、と思いながらそれでもこの音も感触も嫌いではない。蒸れている足裏のかすかな汗が、床板とくっついては離れる。レースカーテンを少しだけあけると、よりくっきりと街灯が部屋を照らした。月明かりよりも遠慮がなく、そして冷たい。ふと、春也はあまり好まなさそうな景色だと思う。

 振り返り彼の寝顔を確かめ、そして携帯の時間を見る。三時四十七分。変な時間に目が覚めてしまった。明日は土曜日で自分は休みだ。春也は仕事が朝早いけれど夕方前には上がれるから、どこかに出かけようかと話をしながら寝てしまった。正確に言うと話をしていたのは俺で、春也はぼんやりとしていて終始口数は少なかった。ここ数日はいつもその調子だ。冬がいけないのか、冬が彼の何かを助長しているのか、俺にはやっぱりわからない。彼と出会ってもう少なくとも三年は経っているし付き合って二年はたとうとしている。それでも、春也の心には入れない場所も触れてはいけない場所も、まだたくさんある。わかっているつもり、だが、やはりわからない。

「っくしょん!」

 盛大なくしゃみをしてしまい、そこで自分が上半身裸だったことに気づいた。下はちゃんとスウェットまではいているのに、たまにやらかしてしまう。床に落ちていたトレーナーを着てからレースカーテンと遮光カーテンを閉じた。さっきと同じ部屋なのかと思いづらいほど暗くなる。ビデオデッキのデジタル時計がぼんやり光っている。目が慣れてくるとなんとなく配置もわかるし、まあほぼ同棲しているようなもんだから動けないわけではない。自分のスーツの胸ポケットから煙草とライターを取り出すのはごく簡単なことだった。口にくわえ、ライターで火をつけるとぼんやり辺りが照らされる。灰皿を用意していないことに気づき、そもそも部屋の真ん中で吸うのはハルが嫌がるので、シンクの傍でゆっくり煙草を吸った。吸うたび、火種が明るくなる。

「たばこ、おいしい?」

 水を流し、煙草を消すと同時に暗い部屋の中で春也の声が響いた。さすがに換気扇は回せなかったが、その所為で匂いで起こしてしまったか。びくりとしてベッドの方を振り向くが、彼が目をあけているのかはわからなかった。静寂の中で聞く彼の声は凛と澄んでいる。彼も目が覚めてしまったのだろうか。

「起こした?」

「いや……ちょっと目がさめた」

「明日はやいんだったら、寝ないと」

 返事はなく、代わりに緩やかな寝息が届く。寝言だったのかおきていたのか、ふと笑ってしまう。昼間もそれぐらいぼけててもいいんだよ、と言ってしまいたくなるぐらいだ。はじめて春也を見たとき、なんでこんなに緊張しているんだろうと思っていた。うっすらと眉間にしわを寄せて、あまり人の目を見て話そうとはしない。直感的に、人と接することが苦手なのだとわかった。中学校でも高校でも大学でも、確かにこういう奴はいたけれどもこんなに気になるのは初めてだった。それは春也が、美人だったのもあるだろうし、なんだかんだと話をするほどに、彼がとても穏やかで静かでそして優しい人間だということに気づいたからで、そして自分が恋をしているのだと気づいたからだ。暗いバーの照明の下で微笑む彼は、とびきり美しく、そして繊細だった。


 年末に彼の家に初めて挨拶をしにいった。俺よりもきっと春也の方が緊張していたに違いない。平気、と言ったけれど玄関のドアノブをつかむ彼の指は確かに震えていた。彼にとっては二年ぶりの帰宅だったのだから。彼は自らの性癖をカムアウトしていて、そうしてほぼ勘当のようにして家を出た。俺と春也はその頃から付き合うようになった。春也が俺を必要としたのか、俺が春也の傍にいなければと思ったのかはもう昔のことであまり覚えていない。正直なところ、自分は実家にまだ住んでいるし奔放な両親だから、カムアウトすることや二年ぶりに家に帰ること、家族の反応を気にすること、そういうもろもろのことが俺にはよくわからなかったといっていい。

 男と男が付き合うということの特殊(だと思われている)性を、わかっていないわけではない。けれども、それ以上に、春也は自分自身のことを責め立てているようにも見える。

「泉くん」

 春也の家で、春也の部屋の殺風景さに驚きながら部屋を見回していたとき、彼の母親がこっそりと部屋にやってきた。腕には「ハル」と名づけた子犬を抱いている。思わず立ち上がったが、彼女は優しげな瞳で「いいの、座って」と促す。言葉に甘えてゆっくりと腰を下ろした。

「あの子……春也ねえ、すごく神経質なところがあるでしょう?」

「そう……かもしれないですね」

「小さい頃からなの、潔癖症ってわけではないんだけど……自分に潔癖症っていうのかしら、すごく距離をとろうとするところがあってね、あの子なりの、そういう、付き合い方なのかもしれないけれど」

 母親はこちらを見ず、ハルの額をゆっくりと撫でていた。ハルは気持ちよさげに目をほそめ、大人しく腕に収まっている。春也に似ているといって名づけられたらしいが、やはり犬は犬、人懐っこい瞳は春也にはない。

「だからね、泉くんがここにくるなんてね、びっくりしたんですよ。親の私がこんなことを言うのもあれだけど、春也が人と繋がりを持てて嬉しくて、なんていうかね」

「……僕、僕は春也くんのそういうところも好きですよ」

 彼女ははっとするように顔をあげた。目を少し見開いている顔は、春也の顔にそっくりでやはり彼がここに帰ってきたことは良かったことのように思える。ここに来ることを渋っていたけれど、後押ししてよかったと思う。触れてよかったのだと思う。

「人との距離をとるのは悪いことじゃないけど、まあ、悪いことじゃないからってやっていいってわけでもないですけどね」

 笑って見せると、母親も微笑んだ。彼女は立ち上がる。

「それと、お父さんも、ああ、旦那もね、喜んでいたの。あんな唐辺木みたいな人でしょう。頑固で意地悪でね。でも、あの人は春也のことも弘子のことも大好きで仕方ないのよ。親ってそんなもんかしらねえ」

 階下で洗面所のドアが開く音がした。この家の特徴らしいが、どの部屋のドアも開け閉めをするときに特徴的な音がする。春也の母親は、春也が出てくるのを察したらしく部屋を出て行こうとして、ふと立ち止まってこちらを振り返った。

「……春也をよろしくね」

「いえ。こちらこそ、お世話になります」

 彼女はおやすみ、といって犬の前足を振らせると静かに出て行った。春也が階段を上がってくる音がしていた。いかにも絵に描いたような厳格な父と、貞淑な母、やさしげで引っ込み思案の妹、そして彼らに囲まれて過ごした春也。幸せだからこそ、自らの性癖が許せなかったのかもしれない。幸せだったからこそ、総てを受け入れてほしいと思ったのかもしれない。髪をわずかに湿らせたまま、春也がドアから顔を覗かせた。



 ミニテーブルの上に携帯を置き、そっとベッドにもたれた。すうすうと、やはり穏やかな寝息が耳に届いてくる。真冬の寒さは忍び寄るように体の熱を奪っていくが、嫌いではない。春也の涙の方がよっぽど冷たい。

 俺には、わからない。彼がなぜ泣くのか、なぜ苦しむのか。でも、全部わかる必要なんてないと思っている。わからないからこそ、愛おしい。きっと春也はわからないからこそつらいのだろう。彼もきっと全部をわかろうとはしていない、だけどわからない自分が、つらいのだ。見えもしない孤独の中で、彼は苦しんでいる。俺は、彼に甘えられれば優しくする。けれど、彼が話さないのならそっとしておこうと思う。

 それに、よかったこともあったみたいだ。年末に実家に帰ってしばらくして遅い正月休みをもらえた彼は、言葉少なではあったけれど父親とも話すことができたといった。その顔は穏やかで、心底ほっとした。彼は彼なりに、自分の足で立とうとしているのを、邪魔したくはない。



「イズミ、僕行くよ」

 あたたかな匂いがして、ふと目をあけようとしたのだが重くて開かなかった。ただ感触だけで、春也が着ていた毛布を俺にかけてくれたのがわかる。じわじわと醒めていく意識の中で自分が座ったまま眠ってしまっていたことに気づいた。力強く一回目を瞑り、ゆっくりあけた。ぼやける視界の中で春也の顔がすぐ近くにある。寝ているのかと俺の顔を覗き込んでいたらしい。驚いたように目を見開いている。暖房もついていない部屋のさめざめとした空気のせいか、彼の肌は毛穴が引き締まって陶器のようだった。

「ああ、ごめん、行くの、今何時。毛布ありがと」

「八時ちょっと前。まだ寒いから」

 うっすら明るい部屋は、深夜にもぞもぞと這っていた部屋とはまた違う気がする。キッチンには大きなテーブルがあり、目の前には小さなテーブルがある。白と茶色を基調とした部屋は落ち着いていて、どこか淋しい。実家の俺の部屋は狭いしごちゃごちゃしているから、たまに落ち着かなくなる。

「なあ、春也」

 制服の上から黒いダッフルコートを羽織って赤いマフラーをした彼は、女か男か一見するとわからない。明るい茶色の髪が肩につくかつくかつかないかの長さを保っており、ゆるやかなパーマがかかっている。彼がドラァグクィーンなどしたらきっと似合うだろうとたびたび思うが、それは言わない。俺が彼のことをちゃんと名前で呼んだのがひさしぶりだったからか、彼はスニーカーを履く姿で止まって振り向いた。怪訝そうな顔を見せる。

「今日は、家でゆっくりしようか。俺、ご飯つくって待ってるよ。何がいい」

「……でも、」

「ハルに作らせてばっかだから、いつも。簡単なのしかできないけど」

「……じゃあ、もつ鍋」

 うん、と微笑み返す。泣きそうだな、と思った。きっと春也は洟をすすりながら出勤するだろう。愛しくて、悲しくて、でもやっぱり愛おしい。


 携帯のバイブ音で目が覚めて、自分が二度寝をしていたことに気づいた。伸びをして、鈍い痛みの走る背中を伸ばす。こんな格好で寝るべきではなかったと。携帯がまだ鳴っている。机の上で痙攣をしているみたいで、徐々に徐々に回転する。これだけ長く鳴っているのだから電話なのだろう。ふあ、と大きくあくびを一つしてから携帯を手に取る。ベッドにこしかけながら、通話ボタンを押した。

『泉?』

 少しくぐもった声が寝起きの耳にちょうどいい。ひさしぶりの声だ。

「ああ、ごめん。もしかして電話何回かくれた?うん?ああ、いやいやうん。そう。今からだったらあと一時間半ぐらいで出られるけど。うん。化粧品?へえ。いいよ。俺もちょっと見たい。お前にじゃないよ。お前は自分で買え。夜はちょっとダメ、うん。ごめん、埋め合わせはするから。そう。うん。じゃ、駅でな。あ、もつ鍋ってどうつくんの。素?へえ。一緒に見繕ってくれる。うん。そう、ハルが。うん。はは、大丈夫。全然。おせちちょっと甘いって言ってた。お前が作ったって言ってないよ。言ってない。うん」

 じゃあ、駅でね。彼女はそう言って電話を切った。俺も立ち上がり、ぐっと伸びをする。部屋は昼間の柔らかな光でクリーム色に染まっている。わからないことが、悪いわけじゃない。わからないことのほうが、きっと多い。きっと、優しい嘘ならついてもいいと、俺は思っている。

「まあ、悪いことじゃないからってやっていいってわけでもないですけどね」

 春也の母親の言葉を思い出す。ハル、お前は、どう思うのかな。

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